第118話 [デート] 恋い慕う相手と会うこと。その約束。 - 05 -


(格好いい)


 格好いいという言葉は、この人のためにあるのだろうと、オリアナは半ば本気で信じていた。


(やばい、格好いい)


 ラフな格好に身を包んだヴィンセントを、オリアナは直視できなかった。普段と違う姿を見せてくれていることがもう、何よりもの喜びであった。


(すごい、髪下ろしてる。いつもちゃんとまとめてるのに。オペラの時くらい、カッチリしてるのもかっこよかったけど、今日のはなんか……素みたい。幼い。凄い、特別感が凄い。ヴィンセント格好いい)


 木陰で向き合った二人は、身じろぎ一つ出来なかった。オリアナは俯いたまま目を瞑り、口をむぐぐと噛みしめる。


(どうしよう。絶対に耳まで赤い)


 ヴィンセントがオリアナを見下ろし、凝視していることには気付いて居た。顔も上げられないし、真っ赤な耳を見られている。もうこの場で死んでしまいたいほどだ。


「……暑いか? 帽子を取りに帰っても――」

「だ、いじょうぶです」


 それ以外に何が言えただろうか。いや、何も言えるはずが無い。


 当然のように、また訪れる沈黙。ぎこちない二人のもとに、正門に向かう女生徒の声が届いた。


「ねぇ、あそこにいるのやっぱり――」

「ええ? 本当に?」

「だって隣にいるの、エルシャさんでしょ? なら……」


(やばい。ヴィンセントなのがバレた)


 いや、バレても問題は無い。別に問題は無いのだ。


(だって今日はただの買い出しに行くだけで、デートなわけじゃ無い。ばれちゃったらばれちゃったらしく、堂々としていればいいだけで、買い出しの人員が増えようが――何も、何も……)


 オリアナはバッと顔を上げた。突然顔を上げても、ヴィンセントは変わらずじっと見つめていた。


 咄嗟に、ヴィンセントの手首を掴む。


「え?」


 ヴィンセントから疑問の声があがったが、オリアナはそのまま走り出した。後ろから、女生徒の声が微かにする。けれど脇目も振らずに正門へ走った。




***




「――どうしたんだ」

「待っ……ちょっ……少し……」

「わかった、わかった。ほら、座るんだ」


 ヴィンセントがハンカチを取り出し、街道にある植え込みのブロックに敷く。オリアナは荒い息で感謝を述べながら、そこに座った。


(この間も、こんなことあった気がする)


 あの時は立場が反対だったが、全く学習もしないし、体力も無い女である。


(靴、編み上げ履いてきて正解だった……)


 当初履く予定だったパンプスでは、すでにもう足は死んでいただろう。

 全力疾走の代償にかいた汗を、見て見ぬ振りしたいがそうもいかない。リュックからハンカチを取り出し、そっと顔を押さえた。


(三枚持ってきててよかった)


 現実逃避は得意である。


 ちなみに直視しなければならない現実は、汗ばんだ顔と、早々に浮いただろう化粧と、掴んでいた手と、すぐ隣に座っているヴィンセントである。


 ブロックの位置のせいか、いつも礼儀正しく距離を取るヴィンセントが、今は体が触れそうなほど近くに座っていた。

 ブロックに腰掛け、オリアナの飴を片手で持ったヴィンセントは、自分の飴を咥えつつ、足をくるぶしのところでクロスさせている。


(えええ……何それぇ……)


 ハンカチの隙間からこそっと見ていたオリアナは、またハンカチで顔を覆った。


(私服だし、雰囲気が違うし、やばいせっかく普通のヴィンセントは見慣れてきてたのに……!)


 隣に座るヴィンセントは、真っ直ぐに前を向いて、オリアナを急かす事無く待っている。


 オリアナは汗と気持ちを落ち着かせるため、少しだけ休憩させてもらうことにした。


 街は大勢の人が行き交っていた。隙間無く建てられた建物が、道を作る壁になっている。建物の隙間から覗く空は快晴で、雲の合間に鳥が飛ぶ。

 パンを焼く煙が遠くに見える。あの大きな看板は、確か植物園のはずだ。

 のんびりと歩く大人の隙間を縫って、子ども達が走り回る。店の前の花に水をやる女性に、隣の店舗の男性が声をかけていた。


 並んで座り、ぼんやりと人を眺めていると、ヴィンセントが独り言のように呟いた。


「……なるほど。この格好のほうが良かったんだな」

「え?」

「来る前に、ミゲルに着替えさせられたんだ。僕は街を歩いたことが無かったから。着替えて来て良かった。最初の格好では、君に恥をかかせていた」


 どんな格好でもオリアナはヴィンセントを格好いいと思ったに違いない。恥をかかされたなんて、思わなかっただろう。


(街を歩いたことが無かったのに、誘ってくれたんだ)


 オリアナは髪の生え際をハンカチで押さえながら、前を向いたまま言った。


「……今日のヴィンセントは、いつもと違って、少し緊張します」

「服かな。ミゲルのも借りているから」


 どれを借りたのか尋ねれば、ズボンを借りていると教えられた。他人の服とは思えないほど、問題無く似合っている。


「今日も格好良くて素敵ですけど――今度は着替える前に着てた服で出かけましょうよ。私が恥をかかされないところに」


 次の誘いなんてハードルの高い冗談を言えたのは、ヴィンセントが少し淋しげだったからだ。ヴィンセントがオリアナに笑う。


「なら、その時は僕が手を引こう」

「走るのは……」

「今日は自分から走っていたくせに」


 その通りだ。それも、女生徒にヴィンセントを見せたくないなんて理由で、逃げ出した。


「ちょっと気持ちが逸っちゃっただけです」


 鼻の上に皺を寄せ、怒ったような顔を見せた後に笑う。そんなオリアナをじっと見ていたヴィンセントは、ゆっくりと口を開いた。


「――僕も、緊張している」

「街が初めてだからです?」

「君は……常々思っているが、馬鹿だな」

「えっ」


 えっ、とオリアナは愕然とした。まさか、常々馬鹿だと思われていたなんて、思ってもいなかった。


「そんなことで緊張するはずが無いだろう」

「あ、そうです、よね?」

「――君も、今日は雰囲気が違う」


 目線を落としたヴィンセントが言う。オリアナはハンカチで口元を押さえた。


(待って待って待ってこれって待って、お返し? お返しが来ちゃう?)


 ヴィンセントとオリアナは黙り込んだ。がやがやと騒がしい街はそのままなのに、何も話さなくなった二人だけが異質だった。

 やがてヴィンセントは意を決したように、小さな声でぽつりと零す。


「……とても、可愛い」


 オリアナはハンカチで顔面を押さえつけた。隠すなんて力加減では無い。ぎゅっっと、パン生地をこねるぐらいの力加減で自分の顔を押さえる。


「……至極恐悦にございますっ……!」


「なんだそれは」


 ふざけていなければ、”お友達”でいられない。


(駄目だ、顔がにやける)


 オリアナはハンカチで顔を押さえたまま俯き、大きく深呼吸を繰り返した。今の自分は完全に、彼に好意を持った女子の顔をしていることは、疑いようも無かった。


 顔中がぐちゃぐちゃになっている自信がある。あれほど時間をかけたベースメイクは、もしかしなくても寄れているだろう。


 まさか出会って一時間も経たない内に、メイク直しに出かけるわけにもいかない。かといって、ヴィンセントの前でメイクを直すのもいただけない。


(おトイレに行くって口実も恥ずかしい……自分がこんな乙女みたいになるなんて……!)


 正真正銘乙女であるオリアナが内心でジタバタしていると、俯いたままのオリアナに、ヴィンセントが話しかけてきた。


「――なあ」

「はい?」

「今日は止めにしないか」


(えっ? 帰るってこと?)


 驚いてハンカチから顔を上げる。思ったよりもずっと近くにいたため、オリアナが動いたことでヴィンセントに肩がぶつかる。


 互いに少しの気まずさを感じたが、移動することは無かった。それも、なんだか気恥ずかしい。


「……だから」

「……はい」


 何を言われるのだろうと、ドギマギとしながらオリアナは待った。走らせたことが悪かったのだろうか。それとも、待たせすぎただろうか。街を歩くのは嫌になったのだろうか。次から次に、嫌な予感が浮かび上がる。


「……敬語を」


「え?」


 予想していなかった言葉に、オリアナは素っ頓狂な声を出した。


「せっかく街に来たんだ。今日くらいは、敬語じゃ無くてもいいんじゃないか?」


 真っ直ぐに向けられた視線に射られながら、オリアナは首をこくこくと小刻みに動かした。


「わかりま、わか、わかった」

「無理してくれ」

「わかった」


 オリアナはもう一度、頷いた。


(……なんでだろう。無理しなくていい、って言われるより、きっと、ずっと嬉しい)


 ヴィンセントに強く求められている気がした。

 それが、友達としてでも、全くかまわなかった。


 オリアナの心がふわふわとした。よれたメイクなんか、どうでもいいと思えてしまうほど。


(いや、やっぱどうでも良くない)


 だがこれ以上待たせるのも嫌になったオリアナは、「ちょっとごめんね」と言って手鏡を取り出す。思っていたよりもずっと被害が少なかった顔面に合格点を出し、オリアナはスッと立ち上がった。


「お待たせしました。――行こっか。ヴィンセント」


 にこりと笑うオリアナを、ヴィンセントは眩しそうに見上げた。





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