第103話 砂漠に捨てた恋 - 02 -

 ヤナが物心つく頃にはもう、アズラクは傍にいた。


 エテ・カリマ国の王宮は世界屈指の豪華さを誇る。王宮の柱には宝石が埋め込まれ、庭園では時間ごとに水柱が上がり、世界中から花を取り寄せた花園には着飾った美しい女がいつも笑い声を上げていた。


 エテ・カリマ国王の子供らは、八つを迎える時までハーレムの中で幼少期を過ごす。ヤナの兄シンラと、その乳兄弟であったアズラクは、ヤナが六つの頃まで共に育った。


 ヤナはとにかく、アズラクが好きだった。

 九人いる兄の誰よりも、ヤナはアズラクに懐いていた。


 ヤナは片時もアズラクから離れたがらず、その右手は、いつもアズラクの左手と繋がっていた。


 六歳を過ぎてから、ヤナはやんちゃを極めた。世話係がほんの一時目を離した隙にハーレムから消えることが度々あったのだ。


 そんな時、誰もが皆アズラクを探した。行方のわからない破天荒な六歳を探すよりも、しっかり者の八歳の子どもを訪ねる方が早かったからだ。

 そして必ず、ヤナはアズラクの傍にいた。


 周囲も、それほどヤナがアズラクに懐いているのならと、アズラクにヤナの護衛という役職を与えた。当時武芸に傾倒していたアズラクが、まだ八歳というのに大の大人を簡単にのせるほど強かったことも、周りの大人の背を押した。


 アズラクが常時傍にいるようになってからのヤナは、それまでの破天荒が嘘のようにピタリと止んだ。探しに行っていたアズラクが手元にいるのだから、それもさもありなんな話である。


 ヤナはアズラクの隣で、王女としての気品と慈しみの心を学んでいく。

 こんな穏やかな日々がずっと続くと、そう思っていた。


 ――問題が起きたのは、ヤナが十二の頃。


『ヤナ。お前をアズラクと添わせる』

『あらお父様。それだけは、絶対に嫌ですわ』


 自分のアズラクに向ける感情が、恋だと、ヤナが気付いた頃だった。






「……アズラクと、婚約の話が?」

 黙ってヤナの話を聞いていたオリアナが、首を傾げた。


 ヤナは笑みを浮かべる。この少女と友人になり、四年目になる。

 四年前にこの部屋で初めて顔を合わせた時には、彼女にこんなにも自分の内面まで見せることになるとは思ってもいなかった。


 エテ・カリマ国の王宮に、沢山の召し使いを抱えていたヤナだったが、友人と呼べる相手は一人もいなかった。


 どれほど長く一緒にいようとも、召し使いは召し使いで、ヤナは王の娘だった。自分の言葉にどれだけの力があるかのか知っていたヤナは、次第に周囲と心の距離をとるようになっていた。


 そして、自分から距離を取ってみて、初めて気付くこともある。

 元々向こうは、こちらが思っているほど、距離を近くに感じてなどいないのだと。


(オリアナは……私との距離を測りつつも、決して離れようとはしなかった。今も、すぐ傍で私の内側まで踏み込もうとしてくれている)


 こんな友人が自分に出来るだなんて、ヤナは思ってもいなかった。


 聞かせることが歯がゆく、聞いてもらえることが嬉しくて、ヤナは訥々とつとつと、初めて胸の内をさらけ出していた。


「そう。アズラクは、私を降嫁させても問題が無い家格だったから。じゃじゃ馬姫を余所に出して問題を起こされるよりも、国内でアズラクに見張らせる方が手っ取り早いと踏んだのよ」


「なら、じゃあなんで、試練なんて……」


 オリアナの顔に「不思議です」と書かれていた。

 その顔を見て、眩しくなる。


(オリアナはまだ、恋を知らないのだわ)


 相手のことが好きならば、降って湧いた婚約を喜ぶべきだと思っている。


 こんなに胸が焼き付いて、本心ではないことばかりをしたくなるような、泣きたくて、逃げたくて、決して幸せじゃない、どうにもならない感情を持て余したことが無いのだ。


「決まっているじゃない。アズラクと、結婚したくなかったからよ」


 ヤナはにこりと微笑んだ。


「私、幼い頃から本当にアズラクにべったりだったの。だから……アズラクが誰に恋をしているのか、ちゃんとわかっていたのよ」


 オリアナが息を呑む。


(私も、恋を知らない頃に戻りたい。こんなにみっともなくて、どうしようもない自分に振り回されるのは、もうまっぴら)


 ただアズラクの左手に夢中でしがみついていた、あの頃を思い出す度にヤナは願う。



「アズラクはね、母が好きなの。私の母が」



 アズラクの視線の先にはいつも、ヤナの母がいた。


 ヤナの母は十四歳でハーレムに入り、十六歳でヤナを産んでいる。

 母体が若すぎたためか、ヤナは他の王族に比べ体が小さい。


 父のハーレムの中でも母の美しさは一、二を競う。母は王宮中の嫉妬と羨望の的だ。


 幼いアズラクも、母に焦がれる一人だった。


 アズラクは母が傍にいると、必ず護衛対象のヤナよりも、母を見つめていた。


 母はドジなところがあり、ヤナよりもよほど手の掛かる少女のよう。愛らしい母のおっちょこちょいは、絶世の美女の母にとって、単なる魅力の一つにすぎない。


 母が物にぶつかったり、物を落としたりする度に、アズラクはヤナを置いて、一目散に駆けていく。


 母がハーレムから出る際には、必ずアズラクも付き添った。いつも決まって、母の左隣。十歳を過ぎた頃からぐんと体が大きくなり始めていたアズラクは、母の隣に立っても見劣りしない。


 王の妻に触れるなんて許されるはずも無いのに、アズラクの腕はいつも、母に触れたそうに背の後ろに添えられていた。


 護衛の邪魔になるからと、ヤナには許されなかった右手。

 その特別な右手で、ヤナの母は護衛対象でも無いのに守られる。


 触れたいのに触れられないことを物語ったアズラクの右手を、後ろから見る度に苦しかった。


(あの手を見て、恋を知った。母に焦がれるアズラクに、私は恋をした)


 不毛な恋の始まりだった。

 どう逆立ちしても、勝てるわけが無かった。


 そして最悪なことに、ヤナはエテ・カリマ国の王女だった。


 アズラクの気持ちを無視して、彼を手に入れる身分を持っていたのだ。


「今、アズラクは十八よ。母は三十二。母は、また一段と美しくなっているらしいわ」


 長期休暇の度に、国からやってきた召し使いに、母の話を聞かされるのが苦痛だった。


 ラーゲン魔法学校に入学以来、国には帰っていない。

 入学前でさえ、母の隣に立ったアズラクは大人びていた。今ではより、釣り合って見えることだろう。

 母とアズラクには十四もの差があるというのに、たった二つしか変わらないヤナよりもずっと、二人はお似合いだった。


 子を産んだ今もなお、母の美しさは留まる事を知らず、ただ座っているだけでも女の色香を放つという。


「そんな母を一目だってアズラクに見せたく無くて、国に帰りたくないの」


 自分の卑怯さをヤナは嗤った。


 年々、母そっくりになっていく自分の顔。

 この顔を美しいと褒められても、嬉しくともなんとも無い。特にアズラクに褒められた日なんかは、気分は最悪だ。


「王の妻に恋慕するのは、重罪……でもそんなの、建前でしかない。私はただ……母を好きなアズラクに、母の代わりに愛されたく無かった」


 アズラクとの結婚を父に打診されたヤナは、アズラクの前で強く突っぱねた。


 アズラクと結婚する意思などないのだと、自分の抱く、彼への感情は恋愛感情では無いのだと、アズラクに訴えたかったからだ。アズラクを試練の護衛に選んでまで、この卑怯な恋心を隠したかった。


(母を好きなアズラクの妻になるなんて、死んでも嫌)


 妻になどなってしまえば、一生を後悔の渦の中で生きなくてはならない。



 きっとアズラクの指が触れる度に、彼が本当に触れたかった人物を思い出す。


 きっとアズラクが名前を呼ぶ度に、彼がその舌に乗せたかった名前を思い出す。


 きっとアズラクがヤナの瞳を覗き込む度に、自分に似た母の姿を思い出す。



「愚かだってわかってる。だけど私は、私の心を守る方法を、これしか思いつかなかったの」


 王の決めた花婿を蹴るには、相応の理由が必要だ。そしてヤナはその権利を持っていた。王の娘として、試練に縋った。


「試練は本当に丁度良かった。私の未来の花婿は、アズラクに勝たなくてはならないから。アズラクが負けたのならば、致し方ないのだと……この結婚は、アズラクも望んだものではないと――自分に言い聞かせる、口実になるから」


 堪えていた涙が、ぽとりぽとりと床に落ち始める。


「アズラクの方が強ければ、アズラクを求めてしまう。アズラクに、攫ってほしいと、命令してしまうでしょう?」


 だから私は、アズラクに勝った者と、結婚するの。


 なんとか笑みを見せたが、すぐに顔はくしゃりと歪んだ。アズラクへの気持ちを、自分の決意を口に出したのは初めてだった。


 こんなに苦しくて、こんなに気持ちが楽になるなんて、ヤナは知らなかった。


 途端に圧迫感が襲った。オリアナが抱きついてきたのだ。

 ヤナよりも少し大きな体で、オリアナはヤナを守ろうとするかのように、ぎゅっと抱きしめる。力を込めた腕で苦しいほどだったが、この抱擁を、自分が何よりも求めていたのだと、わかった。


 オリアナの胸に、頬を寄せる。

 彼女の服が濡れて、冷たくなった。




***




 幼い頃、母の傍にいるアズラクをいつも見ていた。


 アズラクは母に恭しく頭を垂れ、隣に寄り添っていた。護衛にしては、近すぎる距離。


 アズラクは今よりも身長が低く、体も細かった。だが、いっぱしの戦士の誇りを胸に、アズラクは堂々と母の隣を歩いていた。


(ああ、いいな)


 あれがほしいと思った。

 恋とは知らなくとも、あの手が、あの目が、あの熱がほしいと、幼いながらに心から思った。


 欲しいものは何でも手に入った。

 でもアズラクの心は、駄々をこねても手に入らないことはわかっていた。


 それからヤナは、欲しがることをやめた。

 欲しがることを止めてしまえば、それ以外は別に何も欲しくなかったのだとわかった。ヤナはただ幸せなまま、アズラクの傍にいたかった。


 しとやかに笑えば、誰もがちやほやとする。殊勝に甘えれば、人はコロリとヤナを甘やかす。


 破天荒姫とあんなに持て余していたくせに、馬鹿みたいだと笑いたくなった。


 けれどずっと、アズラクは変わらなかった。ヤナがどんな風に変わっていこうとも、アズラクは傍に居続けてくれた。母の隣にいるために。


 だからヤナはアズラクが、ずっとずっと欲しかった。



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