第63話 舞踏会に舞う夜の葉 - 11 -
しばらくそうして呼吸を整えた後、虚無を見つめながら、ヴィンセントが小声で言った。
「すまない。もう退かなくていい。じっとしていてくれ。出来れば口も閉じていて欲しい」
「私だって、好きで騒いでるわけじゃ……」
「オリアナ」
「わかりました……」
オリアナとて、ヴィンセントにこれ以上痛い思いをして欲しくない。
ヴィンセントは、オリアナが身じろぎするだけでも、敷かれた体が痛むようだった。どうにか少しでも彼の負担を軽減したいオリアナは、「ごめん」とヴィンセントに囁く。
「やっぱりちょっと動く」
「駄目だ」
「ちょっとだから」
オリアナは、ヴィンセントの制止を聞かずに足を動かした。
今は両足を閉じている状態だが、ヴィンセントの片足をまたぎ、彼の足と足の間――つまり股の下に――自分が膝をついて四つん這いになれば、もっと自重を支えられると思ったからだ。
胸が見えてしまうため、上半身だけはどうにも出来ないが、下半身を自分で支えるだけでぐっと楽になるに違いない。
「だ――、くっ……!」
オリアナが足を動かした時、膝に何か硬い物が当たった。その衝撃が走ったのか、ヴィンセントが歯を食いしばる。
「ご、ごめん。なんか足に当たったかも……ヴィンセント、杖持ってきてるの?」
コートの内ポケットに、杖を入れていたのだろう。有事を警戒し、杖を懐に偲ばせて来たのかもしれない。
ヴィンセントの体の上のどこかにあるソレを、膝を動かして探ると、やはり股の辺りにあった。オリアナが膝を付こうと動かせば、丁度折ってしまいそうな位置である。
「オリアナ、君……」
地獄の使者でもこれほど恐ろしい声は出ないだろう。怨念を込められた声に、オリアナはピャッと狼狽えた。
「ごめん。杖、もう出来てたんだね」
「――そうだ。だから動くな。頼むから」
ずっと逸らしていた顔を、オリアナはヴィンセントのほうに向けた。ヴィンセントの首筋から、彼の汗のにおいが強く香った。シダーウッドの香水と混ざり合い、官能的な香りを放つ。
薄暗い中、目をこらして表情を見ると、ヴィンセントは顔を真っ赤にして、かなり強く歯を食いしばっている。
噛みしめた奥歯の隙間から、ヴィンセントが荒い息を漏らしていた。
オリアナは泣きそうになった。一刻も早く、楽にしてあげたい。
せめてオリアナが体にかけている体重が無くなれば、例えば背に石が刺さっていたとしても、ヴィンセントもどうにか体を浮かせられるはずだ。
「踏んで壊しちゃったらまずいから、先に取るね」
魔法使いにとって杖は、一生大事にしなければならない物だ。不慮の事故で無くしたり壊したりした場合、購入することは出来るが、また何年もかけて自分に馴染ませなければならない。万が一を恐れるオリアナの行動は、決して間違えてはいないはずだ。
「ばっ――! やめろ。待て、馬鹿、本当にやめろ」
ヴィンセントに「馬鹿」と言われたのは初めてかもしれない。そこはかとなくショックを受けながら、オリアナは、自分の体とヴィンセントの体の間に手を差し入れた。ヴィンセントの体は、強い力を込めているかのように、ブルブルと震えている。
それほどに、負担をかけていたことが申し訳なくて辛くて、オリアナは急いで手首と指を動かして、杖を探す。
「宝石型でも、私、盗んだりしないし……」
「違う。そんなこと――待て、オリアナ。本当に、動くな。頼む」
ヴィンセントがオリアナを制止するため、腕を掴もうと両手を動かした。だが、見えていないために検討を外したのだろう。
掴んだ場所はオリアナの腕では無く、臀部に近い腰だった。びっくりしたオリアナの喉から、想像もしていない声が上がる。
「んぁっ……!」
「待て……本当に……待ってくれ……」
大慌てで手を離したヴィンセントが、両手で顔を覆い、絶望した声を出す。声は完全に掠れていて、熱がこもっているようだった。余程苦しいのだろう。口から漏れる呼吸は荒い。
思いがけない声をあげてしまったオリアナも、狼狽して口を噤んだ。
(変な声が出た。どうしよう……こんな時にまで、そんなこと考えてるあばずれだなんて、思われたくない……)
オリアナは泣きたくなりながらヴィンセントに懇願した。
「お願いだから、動かないで。邪魔されなきゃすぐ済むのに」
「すぐ済むのも問題で……いやそうじゃない。待て、触るな、やめっ――!」
(見つけた)
手探りで探していたオリアナの指先が、ついに杖を見つけた。
「何してんの?」
杖を取り出すため、コートのポケットの入り口を探そうとした時、頭上から声がかかる。
そちらに顔を向けようとして、オリアナは勢いよく首を回した。その途端、髪が引っ張られ、「痛っ!」と悲鳴を上げる。
「ん? なんだ。髪が枝に――」
オリアナの髪に触れようと手を伸ばしたのは、ミゲルだった。今まで散々隠れていたため恥ずかしいが、見つかってしまったのなら、これ以上どうにもならない。
年貢の納め時、とオリアナが身を委ねようとした時、体の下から厳しい声が聞こえた。
「ミゲル、目を閉じろ!」
ヴィンセントの鋭い声に、オリアナはびくりと体を揺らした。誰が来たのかを確認しようとして、上半身を浮かせていたことに気付く。
慌てて、はだけていたドレスを片手で押さえると、ミゲルはスッと後ろに顔を動かして、ヤナを呼ぶ。
「ヤナ、大丈夫。変なんじゃなかったよ。ヴィンセント達なんだけど、ちょっと来てもらえる? 俺じゃ不都合があるっぽい」
ミゲル達から不審者と思われていたことに、オリアナは少なからずショックを受けた。まあ舞踏会の夜に、こんな茂みの裏でガサゴソしているなんて、まともな人間では無いだろう。
「どうしたの? まぁ……オリアナ。言ってくれれば、私今夜は部屋に戻らなかったのに」
「待って、待って。何の話になってるの??」
慎みを持て、と怒られる場面のはずだ。なのに、全く正反対なことを言われている。オリアナは大慌てで否定した。
「それもこれも全部事故だから、私がドレスを脱ぎながら、ヴィンセントに襲いかかってるわけじゃないから!」
「これほど『そうとしか見えない』状況を見たことが無いわ、私」
「ヤナ、オリアナの髪が絡まってるみたいなんだ。取ってあげてくれないか? それと、これを着せてやって」
ミゲルの声がするが、もうオリアナが見える範囲には彼はいなかった。オリアナの格好に配慮して、茂みから離れてくれているのだろう。
「はい、腕を通して。そっちは自分で入れてちょうだいね」
まるで家に帰った時のように、ヤナから服を着せられる。
オリアナは、ヤナから受け取ったミゲルの上着に腕を通した。
「ミゲルありがとう。私の髪は切っていいから、どうにかならない? 体が痛いみたいで……早くヴィンセントを助けてあげたいの」
「髪を切るとかは論外。ひとまずオリアナが服を着たなら、ちょっと浮かしておこうか。その間にヴィンセントが勝手に這い出るだろ」
オリアナが上着を着たことを確認したミゲルが、オリアナを持ち上げようと手を伸ばす。オリアナは慌てて言った。
「待って。下手に動くと、杖が折れちゃうかも」
「杖?」
「私のお腹の辺りに、ヴィンセントの杖があるの。私が動いた拍子に折れそうだし、先に取っておきたくて」
「あー……それは、杖だな」
「杖ね」
ミゲルとヤナが、訳知り顔で頷く。
だから杖だと言っているではないか。
「けど、ヴィンセントのためにも、その杖は取らない方がいいと、俺は思うなあ」
「え?」
「触るよ、失礼――よいしょっと」
オリアナが何か質問する前に、ミゲルはオリアナの脇に手を入れた。バランスの悪い態勢だろうに、オリアナは痛み一つなく、野良犬のように持ち上げられている。
オリアナの体が少しでも浮いた瞬間、オリアナの心配を余所に、今まで黙り込んでいたヴィンセントはすさまじい速さで這い出た。煙に炙られたネズミだって、これほど早くは動けないだろう。
「ヴィンセント、大丈夫だった??」
体と杖、どちらも心配になったオリアナは、ミゲルにぶらりと抱えられたまま、ヴィンセントに尋ねた。
しかしヴィンセントは這い出た場所で蹲ったまま、死にそうな声で返事をした。
「社会的に死んだ」
「え?? なんで????」
その後ヴィンセントは頭を抱え、草地に伏したまま、しばらく動かなかった。
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