第62話 舞踏会に舞う夜の葉 - 10 -


「こっちへ」


 ヴィンセントに腕を引っ張られ、茂みに身を寄せる。なるべく音を立てないように気をつけたが、暗かった上に慌てすぎたため、生け垣の枝に足を取られた。


「あっ――!」


 こけそうになったオリアナを、ヴィンセントが下敷きになって受け止める。


 オリアナは完全に、ヴィンセントに覆い被さっていた。体が体重を預けるようにぴったりと重なっていて、顔と顔が、信じられないほど近くにある。


「ごめっ――」


 小声で言ったオリアナは、慌てて起き上がろうとした。だが、ピンッと何かに引っ張られたような刺激を受け、体を止める。今の衝撃が何だったのかわからず、救いを求めるようにヴィンセントを見下ろした。


「今、何かが……」


 オリアナはヴィンセントの顔を見て囁きを止めた。ヴィンセントが、薄暗い茂みでもわかるほどに顔を真っ赤にして、目を瞑り、顔を背けている。


 一体どうしたのかと目線を下げると、オリアナはひゅっと息を飲み込んだ。


 オフショルダーのドレスが脱げかけていた。


 オリアナがばっと両手を離して、ドレスの胸元を押さえた。


「見ていない、見ていないからな」


 早口の小声で繰り返された言葉に、オリアナはこくこくこくと首を縦に振る。ヴィンセントが見ていないと言うのなら、彼は見ていない。絶対そうに違いない。


 混乱から身を縮めるために、ぎゅっと内股に力を込める。


 動かない頭で茂みの向こうに目をこらすと、こちらに歩いてくる生徒の姿が見える。こんな姿、絶対に見られるわけにはいかない。オリアナは、慌てて体を伏せた。


 しかし寝転んだ状態で上体を浮かし、ドレスの前を押さえ続けていることは出来ない。


 オリアナは決死の思いで、自分の胸元と、首を隠すために、寝転んだヴィンセントに折り重なるようにして抱きついた。


 オリアナの体重を受けたヴィンセントの体が、びくんと大きく震える。


「重いだろうけど、ごめんっ――!」


「――っ最悪だ……!」


 オリアナが謝罪すると、ヴィンセントは「嘘だろう」とでも言うように嘆いた。最悪まで言わなくてもいいでは無いかと、オリアナはムッとした。


 ピンと引っ張られたような感覚は、背中のリボンが切れたものだったのだのだろう。

 こけた瞬間に、茂みから伸びた枝にリボンが引っかかったようだ。そういえば、準備の時にコテで焼かれ、焦げ目が付いてしまっていた。繊維が弱くなっていたのかもしれない。


(慌てすぎた……)


 別に急いで隠れなければいけないほど、悪いことをしていたわけではない。ただ、手袋を脱いでいた。そして手を掴んでいた。それだけだ。


 だが問題は、心中の方だった。


 ヴィンセントはわからないが――オリアナは完全に、言い訳できないほどの親密な空気の中に身を浸していた。


 誰かに見られるのはやましく、会うのは嫌だった。

 こんな二人だけの時間を、その余韻を、誰にも見せたくは無かった。


「――には、――ね」


 こちらに来ていた生徒の声が聞こえ、オリアナとヴィンセントは同時に体を強張らせた。


 折り重なった二人の体が、酷く熱い。

 あり得ない速さで心臓が早鐘を打っていた。


 見たことも無いほどすぐそばに、ヴィンセントの首がある。男性らしい筋が、浮き出ていた。突き出した喉仏が上下にゆっくりと動く様が、なんとも言えないほど魅力的だった。彼の呼吸の音さえ聞こえるほど近くにいる事実に、オリアナは耐えられなくなる。


(見てたら、駄目だ)


 オリアナが顔をぐるんと動かした。その際に、オリアナの鼻先がヴィンセントの首をかすめる。オリアナの呼気が当たったヴィンセントの首筋に、玉のような汗と鳥肌がぶわりと広がった。


 息を呑んだヴィンセントが、オリアナの両腕をガシッと掴んだ。驚くオリアナの耳元に口を寄せ、押し殺した声でヴィンセントが言う。


「動くな」


 脅しとしか取れない声は、切羽詰まっていた。熱い吐息が耳の中に吹きかけられ、オリアナは体中がぶるりと震える。


「頼む」


 ならこちらだってお願いしたい。どうか、動かないで欲しい。オリアナは必死の思いで、「わかった」と、ほぼ吐息だけの返事をした。オリアナの息も、信じられないほど熱かった。ヴィンセントの上着に染み、吸い込まれていく。


「せっかく、俺とワルツの練習までしたのにな」


 こちらへやってきた生徒の声が、鮮明になる。

 その声は紛れもなくミゲルのものだ。とすれば、よく聞こえなかったがもう一人の声は、彼とペアを組んでいるヤナだろう。二人も外の空気を吸いに、散歩に来たようだった。


 オリアナは更に体勢を低くするべく、ヴィンセントの胸に顔を押しつけた。


「貴方とアズラクの身長が同じだなんて、よく知っていたわね」

「中々いないんだよね。目線が同じ奴って」


 盗み聞きは良くない。そう思っていても、下敷きにしてしまったヴィンセントから、意識を逸らそうとすればするほど、話に集中してしまう。


「あいつとも踊れるといいな、って言ってたのが、フラグみたいになっちまって、ごめんな」


 オリアナは思いだしていた。ダンスレッスンの最中、ヤナがミゲルを練習相手に選んだ時のことを。

 あの時、ヤナはミゲルに何かを囁かれ、顔を真っ赤にしていた。きっと、今の台詞を言われたのだ。


「……いたとしても、きっと踊ってはくれなかったわ。わかってたの。自分の分を超えない男だって」


 アズラクと同じ身長のミゲルと踊りながら、ヤナはアズラクと踊る場面を想像して、顔を真っ赤にしていたのだ。


(そして、それを見ちゃったんだ……アズラクは)


 アズラクの事を考えたオリアナは、ぎゅっと体に力を込めた。オリアナの動きに触発されるように、オリアナの下敷きになっているヴィンセントが呻く。


「――っオリアナ。僕の横に倒れて、降りられ無いのか」


 息も絶え絶えといった具合に、ヴィンセントに言われ、オリアナは状況を思い出す。


「どうしたの? どこか痛いの?」


 まさか、体の下に石や枝でもあって、刺さって痛いのだろうか。一刻も早く退いてやらねばと、オリアナは顔を青ざめた。


 言われたとおり、オリアナは体を動かしてみたが、ある一定以上顔を動かそうとすると、髪がぐいっと引っ張られて身動きが取れなくなってしまっていた。

 どうやら先ほどジタバタした時に、髪まで茂みに引っかけてしまったようだ。手を伸ばすがよくわからない。この分では多分、髪留めまで巻き込んでしまっている。


「無理……髪が、引っかかっちゃってるみたい」

「少し、触れるぞ」


 ヴィンセントがオリアナの背に向けて手を伸ばす。だが、オリアナの脇腹をヴィンセントの手がかすめた時に、オリアナの体にぞわぞわとした震えが走った。


「ふぁっ……」


 無意識の内にオリアナがびくりと身じろぎをした瞬間、ヴィンセントはピタリと動きを止める。そして、オリアナの髪に触れるのを諦めた手が、パタリと草の上に落ちる。


「……ふー……」


 ヴィンセントが大きく息を吐き出した。腹の奥底から、息が無くなるまで長く、吐き出し続けている。




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