第19話 掛け違った想いの在処 - 01 -
オリアナの話を聞いてからも、ヴィンセントは表面上、何も変わっていないふりをして過ごしてくれている。
ミゲルを含め、他の誰からも、オリアナが二度目の人生を送っているなどという奇異の目で見られることは無かった。
平穏な日々を過ごしていた、とある週明けの日。
いつも通りにヴィンセントを追いかけ回していたオリアナは、彼に耳元で囁かれた。
「少しいいか」
身をかがめたヴィンセントの髪が、オリアナの頬を撫でる。
耳に吹きかかる吐息と、腰が砕けそうな低い小声に、訳もわからずオリアナはカクカクカクと首を縦に振ることしか出来ない。
肘を差し出され、そっと手を差し入れた。触れるか触れないか、そんな微妙な触れあいなのに、オリアナは心臓が口から出そうだった。
(ヴィンセントから、触っていいって言ってきた)
何かが色々違うことはわかっている。エスコートは紳士の義務だし、ヴィンセントは女性に対して紳士として接することに、あまりにも慣れきっている。
そこに好きとか嫌いといった感情の入る余地が無いことは、平民のオリアナでも知っている。
それでも、いつも一方的に触れてばかりいたヴィンセントから、触れあいの許可をもらえたことが、オリアナは天にも昇らんばかりに嬉しかった。
日頃から抱きついたりしがみついたりしているため、今よりもずっと密着しているはずなのに、比じゃ無いぐらいにドキドキしてきた。
(めっちゃ近い……ヴィンスの匂いがする……)
シダーウッドの香りだ。オリアナはこの香りが、前の人生の時からずっと好きだった。
七歳に巻き戻ってすぐの頃、ヴィンセント恋しさから、シダーウッド系の香水をいくつも父に取り寄せて貰った。さすがは鳥を落とす勢いの商人なだけあって、父は様々な香水を取り寄せてくれた。残念ながら、全て女物だったけれど。
取り寄せてもらった香水を嗅ぎ比べたけれど、ヴィンセントのとそっくり同じ調合のものは見つけられなかった。
もしくは、ヴィンセントの体臭と混ざって、この匂いになっているのかもしれない。
オリアナはこの香りを吸うと、無意識に胸がきゅんとする。
(やばい。廊下が長い)
早くたどり着けと、そわそわした。触れる指先が熱い。ガシッとへばりつきたくなる。でも、せっかくのヴィンセントのエスコートなのだ。許されたこの時間を心の底から堪能したい。なのに、そわそわとしてしまって、全く集中出来ない。
人気の無い空き教室に入ったヴィンセントは、オリアナが教室に入るとドアを閉めた。
かと思うと、オリアナの目の前が暗くなる。
鼻にあたりそうなほど近くに、紙を突きつけられていたのだ。
「へ?」
あまりに近すぎて、紙に焦点が合わなかった。達筆な字が連なっていることが、ぼんやりとだけわかる。
(なんだろう。借用書かなんかだろうか)
今までるんるん気分で着いてきていたオリアナは、まさか脅されるんじゃ無かろうかと急に不安になって、たらりと一筋汗を流した。
「週末に帰宅し、診査してきた。医者の判定だ。心ゆくまで見るといい」
「!」
喜びと緊張が入り交じった顔で、オリアナは紙に手を伸ばした。指先が微かに震える。
紙を掴み、上から順に項目を見ていった。
前の人生では意味を知ろうとさえ思っていなかった単語でも、今のオリアナなら多少はわかる。ヴィンセントの症状を調べるために、巻き戻ってからずっと、あらゆる医学書を読み漁っていたからだ。
元々の頭の作りがさほどいいとは言い難かったため、理解できないことや記憶できていないことも多いが、全くの門外漢よりかはマシだろう。
一つ一つ、結果を記載した欄に視線を向ける度に、心臓が早鐘を打ったかのように高鳴る。公爵家の長男に行われた最新の、医学と魔法を合わせて行われた診査は、今の世で出来る最高品質のものだろう。
目を皿のようにして診断結果を読んだ。最後に、診査した医者による「異常なし」という文字を読んだ時、オリアナは安堵から涙をこぼした。
「うっ、ううっ……う……」
濡らさないように紙をヴィンセントに返すと、オリアナは彼に憚らずに泣いた。
「よかった、本当に。本当によかった……」
安堵が全身に駆け巡る。ひとまず、今のところ、差し迫った脅威は無いのだ。ヴィンセントは健康そのもの。たったそれだけの事実が、オリアナは震えるほどに嬉しかった。
「何か自覚症状があるのかと、随分と訝しまれながらの診査だったが……それほど喜ぶのなら、やぶさかで無かったわけだ」
「ヴィンセント……ありがとう!」
「ああ……っ、いや」
ヴィンセントは何故か照れたように頬を染めると、口元に手を当てて咳払いをした。
「それで……これからは定期的に診査するつもりでいる」
「! ありがとう、本当にっ! 嬉しい……ヴィンセント、大好き」
オリアナの瞳から、沢山の雫がこぼれた。喜びのあまり涙に咽ぶ。
ヴィンセントのために涙を流すオリアナを見た彼は、一呼吸置いた後、厳格な表情になった。
「――だからもう、君に守られる必要はない」
見開いた空色の瞳から、新しく溢れた涙が一筋、頬に流れていく。晴れの日の雨のように。
「君の助けは、もう不要だ」
オリアナは言葉を探して口を開き、閉じた。
「他殺では無いんだろう? なら、君に出来ることは無い。今後、この件に関する一切の、君の関与を拒否する」
強い言葉だった。オリアナが、嫌だと言っても引っ込めてくれないだろうことは、刺さる視線の鋭さでわかった。
「……なんでか、聞きたい」
縋る目で見ると、頑なだったヴィンセントが、少しだけ怯んだ気がした。
「お願い。教えて」
「……それが最善だと思ったからだ。それに、僕が嫌だ」
「心配するのは……迷惑?」
「そうだね……それと」
「何?」
「――好きだのなんだの、もう、聞きたくないんだ」
立ち上がるために膝をつき、片足を伸ばそうとする姿勢で、オリアナは固まった。
好意を本気で拒絶されるのが、これほど辛いことだと、オリアナは知らなかったのだ。
「もういいだろう? 君は僕を殺したくなかった。僕は今後、死なないように万全の注意を払う。これ以上無いほどに、君の目的は達成できたと思うけど、違うかい?」
正論だった。オリアナ自身も自覚していたほどに、彼女はこの四年間、何の役にも立っていなかった。
今後も、ヴィンセントの傍に張り付いていても、何も変わらないに違いない。
(――少し仲良くなってきたと、思ってたのにな)
いつの間にそれほど、嫌われていたのだろうか。ずっと我慢していたものが、人生の巻き戻りの話を聞いて、抑えきれなくなったのかもしれない。
だから、診査結果を手切れ金のように渡して、オリアナから逃げようとしている。
悲しさを隠すことが出来ずに、オリアナはヴィンセントを見上げた。ヴィンセントはばつが悪い顔をして、視線をそらす。立ち上がり、彼の前に立った。
そっと手を伸ばす。掴もうとした手が、さっと引っ込められる。火を恐れる獣のような俊敏さに、愕然とする。
「……傍にいちゃ、駄目ってこと?」
「……は?」
ヴィンセントは訝しげに眉を上げると、顔を顰めて言った。
「君がそう思うなら、そうなんじゃないか。傍にいる必要も、もう無いだろうし」
「必要? そんなの……だって、ただ好きなのに……」
「それは、先ほど言われたく無いと言ったはずだ」
むぐ、とオリアナは口を噤んだ。むぐぐぐ、と唇を強く引き結ぶ。
先ほどからヴィンセントは、一方的に自分の意思を伝えてばかりだ。オリアナの感情など、最初から切り捨てているかのように。そのことが、ただただ苦しい。
悲しみに負けたくなくて、オリアナはヴィンセントをキッと睨んだ。
「でもそれは、ヴィンセントの勝手よね?」
「なんだと?」
「なら、私も勝手にする」
くるりと背を向けて、オリアナは教室から出ようと扉の方に向かった。
「おい――」
オリアナを止められないことは、ヴィンセントも理解したのだろう。
学校の中に、身分の上下はない。ヴィンセントは学校外では公爵家の嫡男だが、学校内では一生徒である。生徒同士、お互いに強制力など無い。
「……好きにしろ」
「するってば!」
ドアを開ける。
二人で入ってきた教室から、一人で飛び出した。
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