第11話 夏の面影 - 06 -
雨が激しくなってきた。
図書室の窓から見える強い雨脚に焦りを感じたオリアナは、本を閉じた。音が立たないように、けれど慌てて椅子を引き、借りていた本を抱える。
カウンターに座って居眠り仕掛けていた老年の司書のもとへ行くと、オリアナは声を落として話しかけた。
「すみません。返却させてください」
「あら、もういいの?」
「はい。せっかく手続きしてくださったのに、すみません」
特別な返却手続きを済ませると、オリアナは図書室から退室した。廊下に出ると、できる限り急いで早歩きをする。
窓の外から、強い雨の音がする。むんとする雨の匂いに、体がどんどんと冷えていった。オリアナの鼓動は早くなり、どんどんと足も速くなっていった。
歩いていたつもりなのに、もう走っているといってもいいほどだった。先生に見つかって、お叱りを受けるわけにはいかない。素行の悪さでクラスのランクを下げられてしまったら、ヴィンセントの傍に居続けられない。
わかっているのに、オリアナは走っていた。窓の外の雨から逃げるため、懸命に手足を動かす。一段飛びで、階段を駆け下りる。
窓の外で、稲光が走った。
視界が一瞬、真っ白に染まった。それほどに強い光が瞬く。数秒後、地面さえ揺れそうなほど大きな雷鳴が轟いた。
「っ――!」
オリアナは頭を抱え、階段の踊り場の端に蹲った。
窓に背を向ければ、目を瞑っていれば、耳を押さえていれば、雷を見ないで済む。
雷鳴は激しく、そして長かった。
鳴り終わったのを感じ、動き出そうとしてみるが、腰が抜けて立ち上がることが出来なかった。
もう一度、雷が鳴る。
「ひっ……!」
もう立ち上がる気力も無かった。壁に寄りかかり、ガクガクと震える体を抱きしめる。
ここは西棟だ。女子寮は、東棟の向こうにある。
雷が鳴り始める前なら、雨の中突っ切って帰ることも出来たが、こうなってしまってはもう無理だろう。
だが、こんなところで蹲っていては、誰かに見られるかもしれない。無様に震え、雷に怯えている姿を誰かに見られるのは、絶対に嫌だった。
(どこかに……どこかに移動しなきゃ)
せめて東棟であれば、あの談話室があった。西棟にも談話室は存在するが、図書室や自習室を備えている西棟の談話室は、いつも休憩中の生徒で賑わっている。そんなところには、行きたくない。
(とにかく、立って、歩いて、それから……)
何処に行こうと言うのだろうか。
(何処に逃げたって、同じなのに。もう、ヴィンスは――)
「エルシャ!」
びくりと体が震えた。聞きたく無い声が、頭上からした。
「どうした、こけたのか?」
ヴィンセントが飛び降りるように、階段を下りてくる。
蹲っていたオリアナは、両手に埋めた顔を上げることが出来なかった。
(もう出てきたんだろうか。ついさっき、図書室に来たばかりなのに)
「具合が悪くなったのか? 立てるか?」
心から学友を心配する、ヴィンセントの声が聞こえる。日頃、あれほどオリアナに煩わされていても、ヴィンセントは知人を守る道義心を持っている。
膝を抱える両手に力を込め、ふるふると小さく頭を振った。
「大丈夫だよ~! 少しすれば、落ち着くから!」
「ということは、具合が悪いんだな。手を貸そう。医務室に――」
「ほんと大丈夫なんだって。そういうのじゃ無い、しっ――!」
オリアナが懸命に空元気に振る舞っていると、また雷が落ちた。すさまじい音だ。きっと近くに落ちたのだろう。オリアナの肩が大きく震える。
「……なんだ。君、雷が苦手なのか?」
心配していた声が一点、からかうようなものになる。雷に怯えるオリアナを、幼い子どものようだと笑ったのだろう。
ヴィンセントが悪いとは思わない。誰に見られたって、そういう反応をされることはわかっていた。オリアナに甘い父でさえ、オリアナが突然雷に震えだし始めた姿を見て「赤ちゃんに戻ったみたいだな」とからかった。
(だから、仕方が無い。わかってる。耐えられる)
「そうなの。えへへ。子どもみたいでしょ。やんなっちゃうよねえ」
オリアナは体を小さくして、更に自分を抱き込んだ。
オリアナが大丈夫だと知れば、きっとヴィンセントはすぐに立ち去るだろう。怪我でも病気でも無いのであれば、気にかける必要もない。
雷に過剰な反応をするオリアナを、ヴィンセントがからかい続ける趣味でもあるというなら話は別だが――彼にそんな悪癖は無かったはずである。
(いつも面倒をかけられてる私に一矢報いたい気持ちが、ヴィンセントに無いとは言い切れないけど……)
どちらにしろ、雷と同じだ。
耐えていればいつかは終わる。
そう思っていたオリアナの隣に、ヴィンセントが座った。驚く間も無く、頭に何かがかけられた。驚いて少し顔を上げると、それがヴィンセントのローブだということがわかった。
驚いているオリアナの元に、「あれっ」と男子生徒の声が聞こえた。
「どうしたんですか?」
「ちょっとね、具合が悪い子を見つけて」
「え……あ、大丈夫っすか?」
「先生呼んできましょうか?」
「大丈夫だよ。僕が見ているから。後で連れて行く」
「あ、そうですよね。んじゃあ、俺らはこれで」
「ああ。もし他に誰か来そうなら、静かに通って欲しいと伝えてもらえないか?」
「いや、あっち通りますんで」
「後ろの奴らにも言っときます」
「すまないね」
複数の男子生徒の足音が遠ざかっていく。完全に足音が消えても、ヴィンセントは何もオリアナに話しかけて来なかったし、ローブを取ることも、立ち去ることも無かった。
ローブから香る、シダーウッドの香水が鼻の奥を刺激する。
(隠してくれたんだ)
自分の両腕が涙に濡れていく。
(ほら……ヴィンスは、ヴィンセントは、こんなに優しい)
言葉にならない感謝が胸に溢れた。ヴィンセントのローブの中で、オリアナはぎゅっと自分のローブを握りしめる。
「雷がね、鳴っていたの」
激しい雨が窓を打ち付ける音を聞きながら、オリアナは隣にいるヴィンセントに向けて、ぽつりと呟いた。
「大事な人が、死んじゃった時……雷が、鳴ってたの」
隣でヴィンセントが息を呑んだのがわかった。
ヴィンスの冷たい体を抱きながら、オリアナはずっと雷を聞いていた。まるで竜の怒号のようだった。
「雷を、竜神って呼ぶこともあるんだって。まさに、竜の祟りだよね」
人を呼んでも無駄なことは、ヴィンスの体の冷たさでわかっていた。
(私は何も、出来なかった……ただ泣き崩れて、雷を聞いてることしか出来なくて……)
オリアナにとって雷は、ヴィンスの死であり、神の祟りであり、無力な自分の象徴だった。
「……知らなかったこととはいえ、笑ったりしてすまなかった」
オリアナはぶんぶんと首を横に振った。頭にかけているローブが揺れる。
「これからは、雷が鳴ったら僕を探すといい」
驚いて、オリアナは顔を上げた。ヴィンセントのローブがずるりと頭部から滑り落ちる。
「隣に座ってることぐらいなら出来る」
ヴィンセントが顔を逸らしながら、ぶっきらぼうに言った。
信じられないほど心が軽くなって、自分が息を止めていたことに気付いた。
胸いっぱいに、空気と喜びが入り込んでくる。
「ヴィンセント、大好き!」
「うるさい」
抱きつこうとしたオリアナを、ヴィンセントがスッと体を反らして避ける。オリアナはけらけらと笑って、また隣に座った。
(隣に、いてくれるんだ)
頭からずれ落ちそうなヴィンセントのローブを手にする。ヴィンセントの香水の匂いがした。オリアナは香りを吸い込みながら、ゆっくりとたたむと、ヴィンセントにローブを返した。
もう隠れなくても、大丈夫な気がした。
「ありがと、ヴィンセント。もう、戻っても大丈夫だよ」
「……雨が、降ってるから」
やったぁ! そう言ってはしゃがないといけないのに、オリアナは胸が切なくなるだけで精一杯だった。ヴィンセントを見続けることが出来ずに「そっか」と小さく呟いて、前を向く。
(雨、やまなきゃいいな)
雨音も雷も、気にならなくなっていた。
ただ、隣にヴィンセントがいることだけを、意識していた。
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