第4話 やり直しの四年生 - 02 -
自習室に入るなり、オリアナは目を輝かせる。
窓際の席に、いたらいいなと思っていた人物を見つけたのだ。
少し目を伏せ、優しげな口調で下級生に辞書の使い方を教えてやっている。
なんて思いやりがあって親切で、神々しいんだろう。自習室にいる誰もがそう思いながら、彼のことを見ているに違いない。
入り口の邪魔にならないところから、ぽんやりとその人を観察していたオリアナは、下級生が彼の元を離れると、静かに歩み寄った。
ソソソソ、と蟹よりも静かに移動すると、目的の人物背後に立つ。そして、両腕を伸ばして背中に抱きつき、形のいい耳に向け、そっと唇を寄せて吐息だけの声を出した。
「ヴィ・ン・セ・ン・ト・さ・ま」
「っうわ!」
真剣に本を読んでいたのだろう。全くオリアナの気配に気付かなかったらしいヴィンセントは、耳を手で覆って振り返った。
背中にべったりとくっついたオリアナのせいで、中途半端にしか振り返れない。
「……
ヴィンセント、と呼ぶことを拒否されるのには慣れている。彼は自分が許した距離までしか、相手に踏み込ませない。
それはオリアナ以外にも言えたことだったのだが、これほど拒絶を強調されているのはオリアナぐらいなものだろう。だが、オリアナはあっけらかんと言った。
「はい。エルシャさんはですね、
えへへ、とオリアナが笑うと、「そうじゃない」とヴィンセントが額に青筋を浮かべる。
「何故君は、僕の背中に抱きついて――」
「まあまあ、ヴィンセント。ここで大声を出すのは、あんまいい考えとは言えないんじゃない?」
ヴィンセントの隣の席に座る男が、笑みを噛み殺しながら言う。ちらりと自習室の入り口を見れば、監督のウィルントン先生がこちらを見て眉を顰めていた。
味方を得たオリアナは、ヴィンセントの背に抱きついたまま、わざと神妙な顔をしてこちらを見ている男に視線を向けた。
ヴィンセントの友人ミゲル・フェルベイラだ。
長い赤毛の髪を後ろで縛り、いつもにまにまとした不遜な笑みを浮かべている。
彼の父はヒドランジア伯爵で、長男の彼はいずれ伯爵位を継ぐ。幼い頃からの友人であり、同じ学び舎で育つ学友であり、卒業後は政治的な繋がりも有する、ヴィンセントにとって大事な友人だ。
当たり障り無く誰とでも親しく振る舞うヴィンセントにとって、唯一親友と言えるポジションにいるのは――前の人生でも、二度目の人生でも――ミゲルただ一人だ。
「ねー。そうよね、ミゲル」
「おはよう、オリアナ。今日も可愛いね」
オリアナは、前の人生でも彼と仲がよかった。
元々、ミゲルがオリアナと知り合ったことで、ヴィンセントとも挨拶する仲になったのだ。
そして二度目の人生のミゲルも、オリアナに親しく接してくれた。
(でもミゲルの笑顔って、底が見えないんだよね。私と仲良くなりたいって思ってくれてるのか、全然わかんない)
「おはよ、ミゲル。タンザインさんにも可愛いって思って貰いたくって、今日も頑張ってきたの」
オリアナはようやくヴィンセントから離れた。そしてヴィンセントの隣の椅子を引いたオリアナは、何食わぬ顔をして座った。
「……」
何か言いたげな紫色の目が、じろりとこちらを睨み付ける。
「いかがなさって? タンザインさん」
「僕は同席の許可を求められたかな、と思って」
オリアナは口を小さく開けると、口元に手を寄せて、驚いた表情を作ってみせる。
「まあ。タンザインさんともあろうお方が……生徒は自分が座りたい席を、自由に決める権利があることを忘れてしまったんですか?」
「君のおかげで思い出せたよ。ありがとう」
ヴィンセントは小さく息を吐くが、それでおしまいだった。
以前は不愉快そうに無視されるか、荷物をまとめて違う席に移動されていたので、かなりの進歩だと言える。
最近では隣に座っても、こうして口で文句を言うだけだ。オリアナはにこにこした。
オリアナ以外の誰にでも優しいヴィンセントは、学校中の注目の的だ。次期公爵で、品行方正で、成績優秀で、温厚篤実で、目を見張るほどに美しい。注目されない方がおかしい。
だが、誰もがヴィンセントの高貴な物腰に気圧され、中々気の置けない友人とまではなれずにいるようだ。勝手に隣の席に座るなんて、言語道断だろう。部屋の
こちとら、動けない理由を探してる彼らの事情なんて、知ったこっちゃないのだ。
(……彼が死ぬまで、あと一年しかない)
今のところ、ヴィンセントが不調を訴えたことはないし、彼に対して殺したいほどの恨みを持っている人もいないように見える。
それにヴィンセントは元々、自分の身の回りの事に気をつけている。学食で提供されるものも、配膳されたばかりの食事しか手に取ることは無い。人から受け取った物を、うかつに食べることも無い。
だがそれでも、心配で仕方ない。
傍で見続けるために、何事にも対抗できるだけの魔法と知識を手に入れ、無理矢理にでもへばりついてやる。
謙虚に遠慮なんてしていては、また彼を失う。それだけは、どうしても耐えられない。
自習室にやってきた目的を遂げるために、オリアナは教科書を開いた。
左隣に座るヴィンセントの邪魔にならないように、レポート用紙を慎重に広げる。ペンを取り出し、勉強に取りかかった。
***
「オリアナ――……オリィ」
「うぇあい」
しばらく勉強に集中していたせいで、小声でミゲルに名前を呼ばれていたことに気付かなかった。オリアナは今書いている手を止めることができずに、手を動かしながら間抜けな返事をする。
「ごめんけど、カーン文字の辞書貸してもらえる? 自習室のは全部貸し出し中で」
「うぇい」
オリアナは右手で書き取りを続けながら、左手の指先で、机の上の本の束を漁る。背表紙の手触りでわかるほどに、オリアナはこの四年勉強に打ち込んでいた。
しかし、片手で書きながら重い辞書を指先一つで抜き取ることはできなかった。
辞書を指先で摘まみ、悪戦苦闘していると、隣に座っていたヴィンセントが、すっと手を貸してくれた。
目的の辞書を抜き、ミゲルに差し出す。
オリアナはペンを止め、ヴィンセントを見た。
「あ、りがとうございます」
「……ああ」
手を貸したのが居心地悪いのか、ヴィンセントはすぐに自分の教科書に視線を戻した。オリアナもそれに倣うが、今度はうまく集中はできそうになかった。
(こういうところが、困る)
オリアナの恋人だったヴィンスと、現在のヴィセント。
二人は全くの別人のようなのに、根本的な部分は同じだ。
インクが垂れないようにペンを置き、のそのそと教科書をめくる。
が、全然頭に入ってこない。
文字を追いながら、小指と薬指で、頬に垂れていた髪を耳にかけた。
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