酒精

安良巻祐介


 卓の上に、古いお猪口を一つ、片づけ忘れていたら、いつの間にかその中に、酒精の小さいのが棲みついたらしく、蟋蟀と寿老人の相の子の如き、奇妙奇怪な見た目の奴が、猪口の欠けた縁からそっと顔を覗かせ、ぴかぴかとその黒粒の目玉を光らしている。

 試しに汲みたての井戸水をぴしゃりとその中に垂らしてみると、しゅおしゅおと音を立てて薫香が立った。指を入れて舐めてみたら、やはり心地よい痺れと薫りが舌先から感ぜられ、水は酒になっている。

 これは良い居候が出来たものだと、お猪口の周りに榊を立てて逃げられなくした上で、百日ほど、酒屋要らずの生活を楽しんだが、しまい頃には、酒精の奴はすっかり痩せ細ってしまって、恨めしそうなきいきい声で、昼も夜も節を唸るものだから、流石にかわいそうになって、榊を取り去って、何処へなりと去るよう促したところ、飛び上がって喜ぶ様子である。

 慈悲を起してよかったかもしれぬと満足して笑っていたら、酒精は喜びの躍りをしながら、ふいにひときわ高く飛び上がると、笑っているこっちの口の中へと、そのまま飛び込んでしまったではないか。

 アッと声を上げたが、もう遅い。

 すぐに胃の腑の辺りがかっと熱くなって、腹や喉の底から、良い薫りが立ち昇ってくるのが分かった。

 人体の七割が水とは有名な話である。とすれば、酒精の奴は首尾よく復讐を果たしたことになろう。

 己の迂闊さにほとほと呆れたものの、もはや嘆いても恨んでも始まらぬ。百日もの間、百薬の長を存分に愉しませてもらったではないか。

 観念して、ふうと薫風を鼻から吹くと、千鳥足のまま何とか、床の間にどっかりと胡坐をかいた。この時ほど、己の徳利じみた体躯を誇らしく思ったことはない。

 視界がだんだんと、綺麗な薄紫に染まっていく。どうせなら、よほど良い酒になりたいものだ。

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酒精 安良巻祐介 @aramaki88

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