第4章 ④『幸介と聖』


『悪いことをしてしまったとは思ってる』


 こっちで起きたことを説明すると、親父は申し訳なさそうに声を低くして言ってきた。聖のことが大好きな親父だ、ちょっとくらいの仕事ならば放ったらかして帰ってきそうなものだが、その親父が無理だというのだ。それは本当にダメなのだろう。


「仕事なら仕方ないだろ。聖ももう中学生だ、分かってくれるだろ」


『バカ言え、まだ中学生なんだ。ついこの前までは小学生だったんだぞ? そんな簡単に大人になれるほど人間ってのは強く出来てねえよ。それに聖はあまり表に出さんが、寂しがり屋だろうが』


 そうだ、聖はああ見えて寂しがり屋だ。家事は俺よりも出来るし、わがままも言わない、表には出さないけれどあいつはまだまだ子供なのだ。言わないってことは、溜め込んでるってことだもんな、今回のでそれが爆発したんだろう。


「ああ、そうだな。じゃあ俺は探しに行くから。最悪母さんだけでも帰ってきてくれればいいんだけどな」


『その俺は別にどっちでもいいみたいな言い方止めてくれ。地味に傷つく』


「帰ってくる時はしっかりお土産と感謝の気持ち忘れるなよ。あと、それとは別にクリスマスプレゼントもな」


 言って、俺は電話を切る。さて、どうしたものかと俺は一度ふうっと軽く息を吐く。聖がこうして家を飛び出すことなんてそうそうないことだ。だけど、裏を返せば極々稀にあるというわけなのだが。


「どうしよっか」


「俺はちょっと探しに行ってくるから、お前はここで留守番しといてくれ。頭冷やして帰ってきた時に入れ違いになっても困るしな」


 俺がそう言うと、少し納得のいかない様子だったがシャロは言葉もなく頷いた。こんな状況で家で待っているだけというのも酷な話ではあるかもしれないが、言ったことは事実だ。この分け方が一番いいだろう。


「あ、幸介くん! 聖ちゃん服持っていってあげた方がいいんじゃ」


 後ろから声をかけられて、確かにと思う。あのまま飛び出したのならば、さすがにこの夜の温度の中では寒いだろう。俺は聖の上着を取りに二階へ上がる。シャロもその後をついてくる。


「これでいいか」


 クローゼットから適当に上着を取って部屋を出ようとすると、扉のところでぼーっと部屋の中を見るシャロがいる。何を見ているのかと視線を追うと、ベッドの上に置かれた大きなくまのぬいぐるみがあった。


「あのくまがどうかしたのか?」


「んーん、なんでも。ただ、ずいぶん昔のものなんじゃないかなって思って」


「ああ、あれは聖が小学生になった頃くらいだから、結構前のだな」


 ふぅん、と声を漏らしたシャロはどう思ったのかは分からないが、聖の部屋から出る。俺もその後を追う。一階に降りる前に自分の部屋に戻って上着を着て玄関に向かう。


「じゃあ留守番頼むわ」


 うん、と小さく返事をするシャロを一瞥してから俺は家を出る。ゆっくりだった俺の足は徐々に駆け足になり、そしてついには走り出す。外は家の中と違ってえらく冷えていた。震える体は走っているおかげで温まってきているが、それでも空気が冷たいことに変わりはない。


 どれだけ家事が出来ても、どれだけ気を遣えても、どれだけ優秀であろうと、それでもあいつは、まだ中学一年生なのだ。親父の言うとおり、まだまだ子供だ。


 俺と違って母さんにベタベタだし、普段会えないんだ、寂しい気持ちだってあるだろう。でも、それを押し殺して毎日を過ごしているんだ。心配をかけてはいけないだろうと、無理をして。


 最初は帰ってこれないと言っていたから何とか我慢出来ていたが、その後に帰ってこれると聞いて楽しみにしていただけに、ショックも大きいのだろう。


「……はあ」


 溜め息か、それとも息切れだろうか。吐いた息は白く、風に流されて消えていく。


 自転車を走らせればよかったか、そんな後悔をしながら俺は近くの公園へと向かう。公園といってもほとんど遊具は撤去されており、今ではブランコとすべり台、あとは土管が数個だけとなった広場。


 走りながら、俺はふと昔のことを思い出す。


 あれは確か、聖が小学一年生になった年の、聖の誕生日の前日のことだったか。俺のはともかく聖の誕生日は盛大に行う。普段帰ってこない親父たちもその日は頑張って帰ってきていた。といっても、その時はまだ家にいたんだけど。


 転勤をしていないというだけで仕事が忙しかったことに変わりはなく、その日も同じように仕事が忙しくて帰れないという連絡が入ったのだ。電話に出たのは俺で、うきうきしていた聖に伝えるのを躊躇ったのは今でも覚えている。


 伝えると、聖は涙を流しながら家を出た。


 その時は軽く考えており、すぐに戻ってくるだろうと思ってとくに追いかけたりはしなかった。だけど、いつになっても家に帰っては来ずに、その日に限って母さんも家を出ていて俺一人だった。


 さすがに心配になって家を出て、聖を探し回った。


 今までに友達とケンカをしたとか、大事なものをなくしたとか、親や先生に怒られたというような理由で家を飛び出すことはあったが、その誕生日の一件が初めての失踪だったと思う。


 なのでどこにいるのかも分からないまま、俺はただひたすらに走り回った。それでも見つからずに、さすがにどうしていいのか分からずに母さんに連絡でもしようかと思ったその時だ、どこからか嗚咽のようなものが聞こえてきた。


 自分の耳を頼りにその方向へと向かうと、そこは近くの広場だった。ふらふらと音の方へ近寄ると、三つ重ねられた土管の中に、聖はいた。


 ずっと泣いていたのか、目の周りは赤く腫れていて、俺の顔を見た聖はにへらっと顔を歪ませて無理に笑った。心配ないよというような意味だったのかもしれない、だけどそんなこと関係なしにさすがに怒ったな。心配かけんな! って。聖はまた大泣きした。


 だから俺は、泣き止むまで横に座って待ってやった。


 その時思ったんだ、聖を泣かせたくない、悲しい思いをさせてはいけないと。両親がいないときでも、自分が護ってやらないとって。


 翌日、聖の誕生日に、小遣いを必死に溜めたなけなしのお金で買った大きなくまのぬいぐるみをプレゼントした。聖はそれをぎゅっと抱きしめて、笑顔でお礼を言ってきた。ルーシーと名付けられたそのくまのぬいぐるみを、今でも聖は大切にしてくれている。


 あいつは小さい頃から、泣きたくなった時には誰かの前では涙は流さずに、決まってあの広場の土管の中にいた。


 今回だって――。


「さすがに、もう土管の中には入れないか」


 広場に到着すると、聖は土管の上に座っていた。その背中はいつにもまして小さく、今にも消えてしまいそうに頼りない。俺の方を振り返った聖はの目元は少し赤かったが、涙はもう収まっているようだ。


「当たり前でしょ、何歳だと思ってるの?」


 ふっと笑って、聖は答える。その横まで行って、俺も土管に腰掛ける。それを拒むことはせずに、受け入れてくれた聖は、空を仰いではあっと息を吐く。


「お父さんも仕事が忙しいのは分かってる。だから、あんまり心配はかけたくなかったんだけど」


「携帯放り投げて家を飛び出した時点で、心配かけまくりだぞ」


 俺がそう言うと、「あはは、だよね……」と小さく笑った。自分でも自覚しているのだろう。それでも、感情を抑えきれないことはあるだろう、俺にだってあるんだから。


「わがまま言っちゃダメだって分かってるんだけど……いたっ」


 聖の頭に俺がチョップを浴びせると、小さく悲鳴を上げて頭を擦る。聖は何をするのと俺の顔を見てくる。


「何言ってんだ。わがままくらい言いまくればいいんだ、お前はまだ子供なんだぞ? 親にわがまま言って何が悪いってんだ」


 俺がそう言うと、聖はバツが悪そうに視線を逸らす。本当は言いたいだろうに、それを抑えて我慢して、自分でもそれは分かっているだろうに。


 少しの間、沈黙が起こった。聞こえてくるのは、前の道路を走る車のエンジン音、広場の中にいる虫の鳴き声、後は俺達の息遣いの音だけ。


 そんな静寂の中、聖が小さな声で話し始めた。


「実は、楽しみだったんだ……クリスマス」


「まあ、知ってたけど」


 自分は隠していたつもりだったのかもしれないが、結構普通に漏れていたぞ。着信音を変えたりもそうだけど、ツリーを組み立てる時なんて、小学生の時と変わらない無垢な笑顔を浮かべていたんだ。


「シャロさんも言ってた、当たり前のことを当たり前だと思えるのは幸せだって。他の家では、クリスマスを家族で過ごすのって普通なんだよね。みんなそういう話してるし」


 白い息を吐きながら、聖は心の奥にある何かを吐露し始める。


「うちでも、お母さん達が頑張って帰ってきてくれるから、当たり前って思ってたけど、うちでは親がいるのは当たり前じゃないもんね。だから、最初は仕方ないなって思ってたけど、帰ってこれるって聞いて、嬉しかった。だから、さっき突然帰れないって聞いた時は落ち込んだんだ」


「ま、しゃあないだろ。そう思うのが、普通だと思うぜ」


 無理に大人ぶる必要はない。俺と違って聖は母さんの事大好きだからな。そりゃあ悲しくもなるだろうさ。


「後で謝らないと。ごめんなさいって」


「別に謝る必要はねえだろ。思う存分感情をぶつけてやればいい。そんで、帰ってきたら思いっきり甘えてやればいいんじゃないか?」


 俺は男だし、昔からそんな親にベタベタしていなかったから、聖の気持ちを全て理解することは出来ないし、俺が言ったことが正しいとも言い切れない。


 でも、普通の子供って、そんなもんじゃないだろうか。


 ぶるっと、聖が横で体を震わせた。上着も着ずに外へ出たのだ、薄着なのだから寒いのは当然だろう。よく今まで震えていなかったもんだ。


 俺は持ってきた上着を聖の肩にかけてやる。すると、聖は驚いた顔を俺の方に向けた。


「……なに、どこでこういうこと覚えたの?」


「そういうこと言うな。お前が風邪とか引いたら親父がうるさいんだ。それに、お前に倒れられたら飯とかだってどうしろってんだよ」


 聖の視線が何だか恥ずかしく、照れ隠しに俺は言葉をまくし立てる。その後に様子を伺うためにちらと聖の方を見ると、嬉しそうに笑っていた。


「そうだね。こーすけは私がいないとダメダメだもんね」


「うるせえ」


 言いながら、もう一つ渡す。小さな紙袋だ。上着を取りに行った時に、一緒に持ってきたものなのだが、これは今渡すべきか悩むものでもあった。


「なにこれ……」


 受け取った聖は、珍しい物を見る目で紙袋を覗く。持ち上げて透かしても中身は見えやしないというのに、珍しいものを見たような反応でずっと箱を見ている。


「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼントだ」


 桐島にプレゼントを買わねばと思い、買いに行った時に一緒に買ったものだ。桐島のプレゼント選びは時間がかかったが、聖のものはさして時間はかからなかった。適当に選んだのではなく、これだというものがすぐに見つかったのだ。


「……ふぅん。高校生にもなると、いろいろと学ぶのかな」


 そう言いながら、聖は紙袋の中身を取り出す。その時の声が、微かに嬉しそうに聞こえたのは、俺の気のせいだろうか。


 中から取り出したのは、マフラーと手袋だ。派手な柄もなく、シンプルなデザインのものだ。耳当てと悩んだが、あれはセンスが問われるような気がしてやめた。母さんとでも買いに行けばいい。


「今回は、ふざけたチョイスじゃないんだ」


「別に前のもふざけてはいないけどな」


 女の子だし、キャラクターとか入っていた方がいいのだろうか、なんて考えて喜びそうなくまのキャラとかが入ったものをよくプレゼントしていたのだが、どうにもセンスがよくないらしく、聖は毎回渋い顔をしていた。それでもしっかり使ってくれるんだけど。


「今使ってるのもちょうど古くなってたし、これなら使ってあげてもいいかな」


 ふいっと背けた聖の顔が、少し赤らんでいるのを、俺は見逃さなかった。照れているのを見られるのが、恥ずかしいのだろう。こういう時くらい、素直になればいいものを。


「……ありがと」


「……おう」


 マフラーを首に巻いて、手袋をつけて、聖は立ち上がった。


「そろそろ戻ろっか。ご飯もまだ途中だし」


「そうだな。シャロが待ち惚けくらってる」


「じゃあ、早く戻らないと。シャロさんにも謝らなきゃだ」


 上着は着ているとはいえ、さすがにこうしてじっとしていると冷える。こいつよくこんな中で、ここに座っていたもんだ。俺が来なかったらいつまでこうしていたつもりだったのだろうか。


 歩き始めた聖の横顔が、ふと視界に入る。真っ直ぐ前を向いて、しかし口元は緩んでいる。


 俺はあの笑みを知っている。自分が思った通りになった時に見せる、聖の無自覚の笑み。もしかすると、今回もまた、俺はこいつの思った通りに動いてしまったのかもしれない。


 その答えを知ることは出来ないけれど。


「ん」


 数歩前を歩いていた聖が立ち止まり、俺に手を差し出してくる。


「……なに?」


「寒いでしょ? しょうがないから、手を繋いであげる」


「気を遣ってくれるんならそのマフラー貸して」


「それは嫌、寒いもん」


 そう言って、聖はマフラーに顔をうずめた。口元が隠れて、表情がよく見えなくなってしまったが、笑っていることは何となく察した。それがまた何とも恥ずかしく、俺は照れ隠しに視線を逸らす。


「こっ恥ずかしい」


 そう言いながら、俺は聖の手を取る。嫌は嫌だが、こうしてやらんと満足もしないだろうし、やらなきゃ終わりそうもない。ならば、さっさと終わらせて家まで帰るのが得策だ。


「別にいいじゃん、兄妹なんだし。たまにはさ」


 ポケットに手を入れれば済む話だ。現にもう片方の手はポケットにつっこんでいる。でも、それを言うことはせずに、俺は素直に聖の言うことに従った。


 聖は寂しがり屋だからな。


「まあ……たまには、な」


 月明かりに照らされながら、俺達は寒空の下を歩き始めた。震えていた体もだんだんと温まってきた。手からは聖の体温が伝わってくる。俺の横には、大事な妹がいる。


 たまには、兄として妹のわがままを受け入れてやることも、大事だよな。

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