第2章 ②『桐島菜々子』
その日はえらく暑い日だった。
セミの鳴き声が耳障りで、暑さのあまり目が覚めた朝、楽しくもない学校に行きたくないという気持ちがさらに強まる一方で、しかしサボることは許されない。俺の完璧な仮病の演技も聖には通用しないのである。
重たい体を引きずって学校まで行き、特にすることもないので始業のベルが鳴るまでは机に突っ伏して時の経過を静かに待つ。いつものことだった。授業が始まればとりあえず教科書を開いて、ノートに落書きをしながら適当に聞き流す。板書だけはしっかりと取っておく。休憩時間はトイレに行くか携帯をいじる。そうやって学校での時間は過ごしていた。昼休みもどこかに移動することはせずに自分の席で弁当を咀嚼
する。気を抜いて席を開けたが最後、知らない女子に座られてしまう。そうなれば、特に用事もないのに校内を徘徊するハメになる。
昼休みが終われば午後の授業は睡魔との戦いだ。ほどよくお腹が膨れて、エアコンのおかげで心地よい温度を保つ教室内は実に眠るに相応しい環境と言えた。しかし眠るわけにはいかない。頭も良くないのだ、せめて授業だけは真剣に聞いて内申点を稼がなければ。
「席替えでもするか」
一学期の期末テストも終わり、あとは夏休みまでの日数を消化するだけの日々。先生も特にすることが思いつかなかったのか、ホームルームの時間にそんな提案をしてきたのだった。
前からハゲの侵食が始まりつつある、メガネを掛けた中年男の佐藤博文三一歳現在独身現在結婚相手募集中である。佐藤先生の提案に、教室の中のボルテージはほどよく上がる。まず最初に野球部が騒ぎ立て、それに乗っかるように取り巻きが声を上げる。うちの教室はそんな感じの流れが定番だった。
俺にとっては席替えなんてどうでもいい。名前順のせいで一番前の席だったのでここを離れることが出来れば万々歳程度の気持ち。これを期に友達でも出来れば、少しは学校も楽しくなるのかね。こんなことなら中学の友達がいる高校にすればよかったか、先生のおすすめってだけでこの大幕高校を選んだが、ここには同じ中学の奴もおらず、友達皆無の日々。スタートダッシュとかまじ出遅れた。
「じゃあ一人ずつくじ引け」
いつの間にか作っていたくじを順に引く。中学の時までは男女が隣同士になるように男女別でくじを引いていたが、高校はそこまで気にしてないようだった。邪魔にならないよう列に並び、時間をかけないよう適当に引く。荷物をまとめて、指定された席へと移動する。
窓際の一番後ろ、何とも素晴らしい席だこと! 神様ってのは実際にいるんですね俺の日頃の行いとか評価された結果なんですかねこれは! そんな感じで一人でテンション上がっていると、横の席ががたりと音を立てた。
「……えーと、誰だっけ?」
隣は女子だった。どうせ誰であっても大して関わり合うこともないだろうと思っていたので気にしていなかったが、話しかけられたのなら親切丁寧に応えてあげるのが紳士としての俺の役割だろう。
「人に名前を聞く時はまず自分からって、小学校で習わなかったのか?」
髪は肩辺りまでのミドルボブ、半袖のカッターシャツの上から薄いベージュのカーディガンを着ている。スカートは短く、そこから伸びる太ももは黒のソックスに包まれていた。
学校での会話が久々過ぎて気の利いたこと言えない俺ってばまじギルティ。あーあほら隣の女子めっちゃ不快な顔してるじゃん。やばい失敗だ、セリフのチョイスミスった。
「ぶっちゃけ、第一印象最悪なんですけど?」
「そっすか……」
人間三ヶ月程度ロクに家族以外と会話しないだけでコミュ力とか一気に衰えるのな。使わない筋肉とか一瞬で衰えていくのも理解できてしまう。
冷たい感じで返事をしてしまい、ああ終わったなと我ながら自分のミスを悔やんでいたところで、しかしその女子は諦めて行ってしまうことなくイスに座る。
「まあでも、あんたの言うことも一理あるわね。あたしは桐島菜々子。で、あんたは?」
まさかこんなクソ野郎のクソ対応を受けて尚、関わろうとしてくれるとかこの人天
使かなにか? いや、でも見た感じどっちかって言うとギャルっぽいな。こんな天使は今まで見たことがない。
「俺は、佐倉幸介だ」
桐島菜々子。聞かずとも、その存在を俺は知っていた。もちろん初対面のはじめましてで会話をしたのもこれが初めてであることは間違いないが、ならばどうして俺が桐島菜々子を知っているのかというと、彼女がある種の有名人であるからに他ならない。
俺は周りとのコネクションがないので、あくまで噂話を耳にした程度であるが、まず男子からの受けがいい。可愛らしい容姿をしており誰にでも分け隔てなく接し、ノリもよく空気も読める。そういうこともあってリア充グループの一員として生活しているが、基本的に誰とでも仲良くしている。俺はこれが初対面だけど。
「佐倉ってなんか女の子みたいな名前ね」
ぷぷっと、小馬鹿にしたような笑い方で桐島は俺の名前をディスってきた。別にその程度でいちいちイラつく俺ではないのだが、しかしこのまま何も言い返さないのはコミュニケーションとして成り立たない。ここは俺も同じ土俵に立つべく、言い返してやろう。
「お前もスカートとか超短いし、見た目とかすげえビッチっぽいな」
「誰がビッチよ! あたしはまだ処――ってなに言わせてんのよこの変態!」
バンっと机を叩いて勢い良く立ち上がった桐島。自分が何を言っているのか咄嗟に気づいてげふんげふんと誤魔化してから俺に怒りをぶつけてくる。しかし、なんてことを教室の中で口走っているんだこの女は。しかも大声で。
ゆでダコのように顔を真っ赤にした桐島は、慌てて席に座り「佐倉殺す佐倉殺す佐倉殺す」とぶつぶつ呟いている。まじで怖い。キッとこっちを睨んでくるその目は鋭く、獲物を狙う女豹のようでもあった。完全に、狩る側の顔だった。
「こら桐島、今俺が話してるんだ静かにしろ」
俺と桐島が自己紹介だなんだをしているうちに、どうやらクラス全員の席移動が完了したらしく、佐藤が何か話している最中だったようで、メガネをキラリと光らせてえらくご立腹の様子で佐藤は言った。あの人、自分が話すのを邪魔されるの嫌いだか
らなあ。
「そんなに騒ぎたいなら放課後、俺の手伝いでもしてもらおうか!」
「そんなぁ……」
放課後居残り決定で、桐島はがっくりと肩を落として俯いた。罪悪感がないといえば嘘になるが、そもそも思い返せば桐島の方からふっかけてきた問題だし、俺は悪くない。
「横でざまあみろとか思ってる佐倉、もちろんお前もだぞ」
「……まじっすか」
小さく呟いた声は、静まり返った教室内なので十分に佐藤にまで届いたようだ。落ち込む俺と桐島の姿を見て満足したのか、うんうん頷きを見せて話を再開した。ぶっちゃけどうでもいい話だった。絶対性格悪いよあいつ、だから結婚も出来ないんだって。
そんなわけで放課後、しっかりみっちり手伝わされて解放されたときには間もなく五時になろうという時間。一時間がっつりこき使われたのだった。
「あーやっと終わったー」
んー、と腕を伸ばしてストレッチをする桐島を横目で伺う。夏服なので生地は薄く、大きな胸はさらに強調されて思春期真っ只中の俺的には非常にありがとうございますなんだけど、直視する勇気はないのでそのまま視線を下に落とす。
「どこ見てんのよ変態」
スカートから伸びる太ももから、再び胸を経由して桐島の顔へ視線を移動させる。するとまあえらく不機嫌な桐島菜々子のお顔がそこにあった。睨みつけるような半眼はしっかりと俺の顔を捉えており、思わず謝ってしまいそうになる。謝ったら負けである、ここは耐えろ。
「いや違う、別にいやらしい目で見てたとかそんなんじゃない。スカート短すぎるんじゃないかってちょっと心配してただけだ」
「絶対嘘。超やらしい目で見てたわ、男子ってみんなそうよねー。それに別に短くないでしょ、みんなこんなもんよ」
蔑みの視線を向けた後、自分のスカートをつまんでくいっと上げる。そのせいでスカートの裾がちょっと上になるのでさらに太ももが見えるというかですね、そういうところも注意した方がいいんですよ。男子はみんなそうとか言いますけど、見せてるのあんたらだからね、俺達は本能のままに仕方なく見てるだけだからね。
「ほら、なんつーかすぐに周りと合わせるとことかギャルっぽい」
「ギャル言うな。あたしはそんなんじゃない。あたしビッチとかギャルとか言われるの好きじゃないの、違うから!」
ギャルっていっても定義が曖昧だし、俺の中ではパリピ程度の感覚なんだけど。ちなみにパリピっていうのはパーリーピーポーの略で、うぇーいとかちょりーすだけで会話が成り立ってしまう不思議な生き物のことである。
「ま、いいや。クレープ奢って」
「なにもよくねえよ、嫌に決まってんだろ」
何でこんなナチュラルにもの奢ってとか言ってくんの? 遠慮とかないの? そういうところもギャルっぽいんだよ。すると桐島はキッと俺の方を睨んでくる。
「あんたまたギャルっぽいとか思ったでしょ?」
「思ってねえよ」
なにこいつエスパー? 人の心ろか見透かしてんの? なにそれこわい。そんなことを思いながら図星だったので目を逸らす。
「あんた嘘つくの下手っぴね。顔に出てるわよ、素直に認めた方がいいわよかっこ悪いし」
余計なお世話だっつーの。返事はあえてせず、視線だけで訴えかけた。しかしそんなことなど関係ないと桐島はふふんと鼻を鳴らした。あれだけのことを言ってしまい、ところどころ選択をミスってる自覚はあるのだけれど、怒ってないのかな? いや、怒ってはいるのだろうけど嫌いにはなっていないのか。心広いな、と関心してしまう。
「なに? クレープ奢ってくれる気になった?」
「いや、なってないけど。単に、お前のことを見直しただけだ」
俺がじーっと見ていると、ぴくっと眉を反応させて桐島はこちらを見た。ぱちりと開いた瞳は澄んでいて、彼女の心の綺麗さが現れているようだった。
「あのね、何を思って見直したのかは別に置いておくけど、あたしお前って呼ばれるのすごい嫌いなの。だからあんたもお前って呼ばないで名前で呼んで」
「いや、お前もあんたって呼んでんじゃん……」
俺が言うと、桐島はハッとしたように口を押さえた。しかし、次の瞬間再び俺の方を睨むように半眼を向けてくる。コロコロと表情が変わる忙しい奴だな。
「また、お前って言った!」
「分かったよ、これから気をつける」
それでいいのよ、と言いながらうんうんと頷く。満足げな表情はまるで子供のようで、見た目の大人っぽさとのギャップで何だか可愛らしく見えてしまう。世の男子から人気を得ているのも頷ける。
「……菜々子?」
女子を下の名前で呼ぶとか、聖以外にしたことないから照れるな。別にそこまで関わるわけでもないというのに、そもそも友達でもない相手をファーストネームで呼ぶのはどうなんだろうか。そういうのってもうちょっと仲良くなってからのような気もするけど。こいつ怒らせると面倒だし、恥ずかしいけど従っておこう。
「な、ちょ……なにいきなり菜々子とか呼んでんのよキモいんですけど!」
「お前が呼べって言ったんだろうが! 俺だって恥ずかしいけど仕方なく呼んだんだぞ!」
「またお前って言った!」
「今はそこじゃないだろーが!」
「そうだった! とにかく、そういう意味じゃなくて、普通に呼んでってこと! 名前呼びは彼氏にしてもらうまでとっとくんだから!」
「何だよ彼氏にしてもらうって案外お花畑なのな」
「うっさいバーカ!」
彼氏もいないなんてビッチの風上にもおけないなこいつは。自分のことをなんだと思っているんだ。しかもファーストネームは彼氏だけってところがまたお花畑。顔を赤くして怒る桐島の姿は、やっぱり子供のようだった。
「もう、いいから早くクレープ奢れ!」
「だからなんでだよ」
「あんたのせいで居残りさせられたし」
「それは自業自得だろ……巻き込まれたのは俺の方だぜ」
俺がそう言うと、ぐぬぬと唸って黙るところ、自業自得だという自覚はあるんだな。実は俺もちょっとくらいは罪悪感もあったから、桐島本人がそういう風に思っているのならそれはそれで良し。
「じゃあビッチって言った罪」
「それに関してはそっちも俺の名前をバカにしたからトントンだ」
「……あたしの名前を呼んだ罪?」
なに、俺って名前呼ぶことすら許されないの? どれだけ嫌われてんだよって冗談めかして言ってやろうと思ったけど、肯定されても心が痛むので黙っていよう。
「それはもうめちゃくちゃだろ」
軽く流すが正解。さすがに弾が尽きたのか、桐島はむむむと唸りを見せた。そして諦めたように溜め息をついて歩き始めた。ようやく諦めてくれたか。そう思っていたら、桐島はこちらを横目で振り返ってくる。
「じゃあもういいよ、クレープ食べたいから一緒に行こ?」
「え、なんで俺とお前が?」
「クレープ食べたいから。一人で食べに行くとかちょっとあれだし、今ここには佐倉しかいないじゃない。だから誘ってるの。いや?」
さっきまでの騒がしい感じから打って変わってのしおらしい雰囲気に、俺は思わず言葉を詰まらせる。何だよ、調子狂うじゃないか。女子と二人で帰り道にクレープ食うとかそれもうデートじゃん。デート以外の何でもないじゃん。
「言っとくけど、デートとかそういうんじゃないから。他に人がいないから仕方なく誘ってあげてるだけだから」
夢見て浮かれていたのもものの数秒、俺の思考を察してか桐島は冷たくツッコミを入れてきた。ちぇっと唇を尖らせて、俺はいじけたように地面を蹴った。
「ほら、行こうよ」
「いや、でも金ねえし……」
秘技、お金がない。これを言えば、大抵のことは切り抜けられる。その代わりにこ
れから先に誘ってもらえる未来を犠牲にしなければならないので、そこそこの覚悟がないと出来ない所業である。
「どれだけ行きたくないのよ……じゃあもういいわよ、奢るから一緒に行こ」
「どんだけ俺とクレープ食いたいんだよ」
でも、お金がないという言い訳を使ってでも尚、奢るといってまで誘ってくるというのならば、さすがの俺もこれ以上の断りを見せることは出来ないな。そろそろ心が痛くなってきたところだったんだ。
「でも、あとで何要求されるか分かったもんじゃないしな。クレープ食べた瞬間に奥から黒服の男が出てきたりしないか?」
「あんたの中で、あたしはどういうキャラなのよ……」
はあ? と眉をしかめて桐島は大きな溜め息をついた。さすがに黒服は言いすぎたが、しかしあとが怖いのは事実なんだよなあ。女子ってのは怖い生き物だから。しかし、奢ってくれると言うのであれば、断るのも何だな。
「というのは冗談だ。そういうことなら行ってもいい」
「よし、じゃあ決定ね」
言って、桐島はルンルンとなにかの鼻歌を歌いながら足を前に進めるのだった。その数歩後ろを俺はついて行く。甘いものも嫌いではないし、放課後に寄り道とか、考えてみたら憧れのシチュエーションだったりするし、こういうのも悪くはない。
結局、クレープ奢ってはくれなかったんだけど。
ともあれ、桐島菜々子はきっと、俺の一番最初の友達だった。桐島が俺に話しかけてくれて、そうして少しずつクラスにも馴染み始めて、友達も出来て。本人には言えやしないが、感謝している。
今の楽しい学校生活があるのは間違いなく桐島のおかげなのだ。
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