そこ

黒羽カラス

第1話 黒い少女

 なんだろう。中学校に向かう通学路を普通に歩いているだけなのに、どうにも落ち着かない。リュックサックを背負い直しても改善はしなかった。遅刻をする時間帯ではないし、朝の小テストがある日でもない。

 辺りを見回してみた。いつもの道におかしいところは見つからなかった。今では珍しい赤い丸型ポストに目がいく。色褪いろあせてみすぼらしい姿になっているけれど、僕も何度か手紙を出したことがある。

 気にすることは何もない。前だけを見て歩けばいい。

 そう思った時、道の窪みに靴の先を突っ込んだ。堪えようとしたが耐えられず、派手に倒れた。腹這はらばいの姿から急いで起き上がる。

 かなり恥ずかしい。黒い学生服に付いた白い埃を手で払い落しながら目で周囲を窺う。

「え」

 勝手に声が漏れた。時間が止まったように感じる。

 背後に当たるところに誰かいた。朝陽を浴びていながら全身が黒っぽい。顔もはっきりしない。前髪が長いだけなのだろうか。

 近づいてよく見れば正体がわかるのかもしれない。その思いで一歩を踏み出した。引き留めるように後ろからガチャガチャと音がする。振り返るとランドセルを背負った男の子だった。

 僕の横を走り抜けると黒い人物にまっすぐに向かう。

 危ない、という声は呑み込んだ。男の子は黒い人物を突き抜けた。まるで、最初からそこには誰もいないかのように。

「は、早く学校に行かないと……」

 僅かに声が震える。相手に悟られないように自然な様子で歩き出す。黒い人物から走って逃げたい気持ちを懸命に我慢した。

 僕は見てはいけないものを見てしまった。


 翌日は起きた時から雨が降っていた。登校時間になっても止む気配がない。逆に雨音が激しくなる。

 黒い人物の姿はどこにもなかった。辺りは夜のように暗い。土砂降りなので気付かなかったのだろうか。

 下校時間になっても雨は止まない。傘に当たる雨粒が耳にうるさい。自然に足が速くなる。水溜まりを蹴飛ばして気分を晴らした。


 次の日はすっきり晴れた。晴天に相応しい青空になった。

 気分は上向いてうきうきした状態で通学路を突き進む。赤い丸型ポストを目にした途端、急に後ろが気になった。

 いるはずがないと心に思いながらも足取りは重い。思い切って立ち止まる。数回の深呼吸で緊張を解し、気楽な感じで振り返った。

 黒い人物がいた。しかも、最初の時よりも姿がはっきりしている。

 黒い色のセーラー服で胸元のリボンは濃い緑色。やはり顔はわからない。前髪で目が隠れていた。

 第一印象と同じで見てはいけないものに思えた。黒い少女の全身が透けて見える。周囲を歩く人達はまるで気にしていない。存在を無視して横や後ろから遠慮なく突き抜けた。

 周囲にならって背を向けようとする。すると黒い少女は右手を水平に上げた。目を凝らすと人差し指が僕を示している。

「え、なに?」

 反射的に言葉が出た。黒い少女は口を忙しなく動かした。かなりの早口に思えるが何も聞こえて来ない。

 無視すると仕返しが怖いので、行くね、と小さな声で言った。


 その日を境にして僕の日課が増えた。赤い丸型ポストを目にすると決まって後ろを振り返る。

 当たり前のように黒い少女がいた。見掛ける度に姿が鮮明になる。前髪で隠れていた目が少し見える。子猫のように大きくて目尻が上がっていた。

 人差し指を僕に向けて激しく前後に動かす。まくし立てるような口の動きが微かな声を伝えてきた。内容までは聞き取れない。黒い少女が必死になって訴える、そんな強い意志に触れることはできた。

「……僕に、何か言いたいことでも?」

 周囲に独り言と思われるのが嫌で、かなり声を抑えて言った。

 黒い少女は両腕を振り上げた。勢いよく振り下ろし、同時に道を踏み付けた。それだけでは収まらない。近くにあった電信柱に掴み掛かって額を何度もぶつける。

「あ、あの、待って。怖いんだけど」

 動揺で完全に腰が引けた。黒い少女は指差して大口を開ける。怒鳴り散らしているようだった。

「ご、ごめん、学校に遅れるから!」

 踵を返すと全力で走り出す。後ろを振り返る余裕はなかった。


 家を出る十分前。玄関で靴を履いている時に思い付いた。

 通学路を変えたらいいのでは。

 時間的な問題は走れば解決する。今後はもう少し早くに起きればいい。遠回りの道であってもゆっくり歩いて行くことができるだろう。

 晴れやかな気分で扉を開けた。輝く朝陽の中に笑顔で飛び出していった。

 数分後、僕は俯き加減で通学路をゆく。昨日の黒い少女の奇行を思い出してしまった。凄まじい怒りを目の当たりにした。意図的に相手を避ければ、どうなってしまうのか。考える余地はなかった。更なる怒りを呼び込むだけだ。

 やや視線を上げる。赤い丸型ポストが見えてきた。

 僕は立ち止まらない。もちろん、後ろを気にする素振りも見せなかった。黒い少女は真横にいた。同じ速度で歩きながら口をしきりに動かす。

「……取れ……そこ……わからな……」

 断片的な言葉が耳に入る。ここまできて無視はできない。

「取れって言われても、何を?」

 親しみを込めた声で言った。黒い少女の顔が近くなる。目を剥いて歯をカチカチと鳴らした。

 怒りの原因がわからない。強張る頬にあらがって笑顔を作った。

 すると殴られた。黒い少女は絶叫の口の形で連打を浴びせる。全ての拳が突き抜けて痛みは、まるで感じなかった。

「な、なんで!? お、落ち着いて。ちゃんと取るから」

「殴り、殺す……」

 断片が繋がった。初めて意味のわかる言葉になった。

 当然のことながら僕は逃げ出した。怖さだけは十分に伝わった。


 翌朝、靴を履いた状態で立ち尽くす。目の前には扉がある。開けて外に出ると学校に行かないといけない。今なら引き返せる。突然の腹痛を理由にしてもいい。

 その踏ん切りがつかない。家に引き籠った程度で解決する話に思えない。普通の相手ではなかった。

「行けばいいんだろ」

 苦々しい声で扉を開けた。瞬間、全身が硬直した。

 黒い少女がいた。肩を上下に動かし、僕を睨み付ける。

「こ、ここまで、来たんだ」

 怒りを溜めた形相で僕を指差す。指し示した位置を辿ると右の手首に行き着いた。

「……袖のボタンが、取れそうになって、いるんだよ」

 途切れていてもはっきり意味が聞き取れる。僕は右腕を上げてボタンを見た。二つの内の一つが不自然に傾いていた。

「本当だ。教えてくれて、ありがとう」

「中途半端な、能力は、迷惑、なんだよ……」

 黒い少女が朝陽の中に溶け込んでいく。消える直前の目は少し笑っていた。中途半端な能力のせいで、そう見えたのかもしれないけれど。


 学生服の袖のボタンは母親に直して貰った。その日から通学路で黒い少女に出会うことはなくなった。それでも赤い丸型ポストを見ると心がざわつく。わかっていても足を止めて振り返った。

 今日も何もない空間を眺めた。

 なんだろう。最初の時とは違う、何かを感じる。深入りする前に思考を止めた。

 突然に吹く風のようなもの。考えてどうにかなる話ではなかった。


 通学路で黒い少女と再会した。ぼんやりした姿で怒り狂っていた。二度目なので何となくわかる。

「袖のボタンは関係ないよね」

 最初の頃と同じで相手の声は聞こえない。黒い少女の不満が高まればわかるようになるのだろう。

「ゆっくりでいいよ」

 自然な笑顔で言った。黒い少女は初っ端から殴り掛かってきた。

 僕は気にしないで歩く。意味がわかるまで数日は掛かる。先を考えると少し楽しくなってきた。

 この感情はなんだろう。

 青く澄んだ空に目で問い掛けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そこ 黒羽カラス @fullswing

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説