2. 十世


 長青ちょうせいの手が伸びて来た時、ザワッと全身に震えが走った。

 自分でも気づかないうちに、十世とよは立ち上がっていた。

 このまま彼の傍にいてはいけないと内なる声が叫んでいた。だから、適当な言い訳をして長青の傍を離れた。


(飲み込まれるかと思ったわ……)


 長青の瞳に見つめられた時、脳天から稲妻が落ちたような恐怖を覚えた。

 切れ長の細い目や、十世の髪に触れる彼の手から、まるで人を虜にする呪いが溢れ出ているような気がした。


(危ない危ない)


 十世は自らの腕を抱きしめながら急いで船に戻った。


 浜に上げた船の屋形には、十世と一緒に都萬つま国へ戻る巫女たちが並んで横になっていた。けれど、その中に宵芽よいめはいない。彼女は美和山に────自らを水甕に封じた長洲彦ながすひこの元に残ることを選んだのだ。

 女官の山吹やまぶきも、依利比古いりひこの元に残ることを選んだ。だからここには、十世が気持ちを打ち明けられる存在はひとりもいない。

 十世自身も、長青と一緒に筑紫へ戻ることを選んだ。それなのに、心の中ではまだ迷っている。本当の意味では彼を信じきれていないのだ。

 こんな時には、心を打ち明けられる人に傍に居て欲しかった。


(私は……どうしたらいいの?)


 魔物と戦って生き残ったら、長青と一緒に筑紫へ帰る。そんな賭けのような約束をした。

 日の巫女としての仕事を終えてしまえば、もう依利比古の傍にいる意味もなくなる。彼にとって自分はただの巫女でしかない。それが身に沁みた今、これ以上八真都やまとにいるのは苦痛でしかなかった。


(長青は、どうして私を……)


 志貴の宮に来てからの彼は、驚くことばかり口にした。鉄壁の無表情は今までと変わりないのに、臆面もなく十世を愛していると囁いて来る。

 有り得ないと思った。いつも無表情の彼は、感情すら持たない石のような男だと思っていたのだ。だから、自分を慕っているという彼の言葉が信じられないのだ。


 志貴を出る前、長青がこんなふざけた茶番をする訳は何なのだろうと考えた。その答えは一つしか思い浮かばなかった。

 伊那いな国のヒオク王子が、日の巫女を伊那国に取り戻したいと考えたのかも知れない。だから長青を十世の元に送ったのだ。

 そう思ったから、志貴を出る前に彼にこう言ってみた。


『あなたと筑紫へ帰るとは言ったけど、行き先は都萬国よ。私はそれ以外の場所には行かないから』


 そう言えば長青がボロを出すと思ったのだが、試みは失敗に終わった。長青は十世の提案をあっさりと受け入れたのだ。

 彼の言葉通りに船は都萬国へ向かっている。瀬戸内までは同じ航路を行くが、船も、船を動かす水主かこたちも、都萬国の者ばかりだ。

 どうやら、騙されている訳ではないらしい。


『あなたはそれでいいの? 伊那国へ戻らず、私と一緒に都萬国へ行ってどうするつもり?』


 十世がそう尋ねると、長青は平然と答えた。


『私の仕事は、日の巫女様をお支えし、筑紫の平和を守ることです。ならば、私が都萬国へ行くのは当然の事ですし、私はもうあなたの傍を離れたくはないのです』


 この問答は、志貴の宮を出てから何度も繰り返したが、長青の答えは変わらなかった。


(どうしたらいいのよ……)


 屋形の中で横になったものの、十世は眠れずにいた。

 長青の手とほんの一瞬触れ合っただけの指先が、今もまだ熱を持っている気がする。

 以前は完全に麻痺していた右手は、少しずつ感覚が戻って来ている。自分の意志で動かせるようになったし、闇を飲み込んだように黒く変色していた肌色も、少しずつ薄くなってきている。そして何よりも不思議なのは、十世が呪いの代償として受けていた首の痣も薄くなってきていることだった。


 山神が去ったせいなのだろうか。同じ魔物の牙に貫かれたアカルも左腕も、少しずつ回復していた。

 そんな事を考えていたせいだろうか。ふと、アカルの顔が思い浮かんだ。


『────たぶんだけど、腹に子がいるんだ』


 別れる前の晩、アカルは晴れ晴れとした顔でそう教えてくれた。彼女は北海の巫女たちと一緒に船に乗るが、途中で下船して夫の居る姫比きびへ向かうと言っていた。

 好きな相手に真っすぐ向き合えるアカルを、とても羨ましく思った。

 彼女の恋も順調だった訳ではない。二年もの間ずっと会えなかったのだと言っていた。志貴へ向かう少し前に偶然再会し、ようやく思いを伝えることが出来たのだと。


 それに引き換え、十世は長青の心を疑ってばかりだ。差し伸べられた手にほだされて、うっかりすがりついたくせに、彼のことを信じられないでいる。


(だって仕方がないじゃない────)


 長青はあの通りの無表情だ。淡々と仕事をこなす姿は、もはや感情の無い人形と言っても過言ではない。

 十世は巫女として、あるいは都萬国の代表としてしか、彼と関わってこなかった。私的な会話すら一度もした覚えがない。そんな彼が突然現れて恋の言葉を囁いたら、誰だって疑うに決まっている。


(ああ……)


 頭を抱えてゴロゴロしていると、アカルの声が聞こえた気がした。


『十世、あんたはどうしたいんだ?』


 単純明快な質問。アカルはいつもそうだ。


(それがわからないから困っているんじゃない!)


 自分の中のアカルに文句を言うと、再び声が聞こえて来た。


『なら、試しに長青と離れてみればいい』


(あの人と……離れる?)


 それは嫌だと即座に感じた。

 ふと気がつくたび、いつも静かに自分の傍らにいる背の高い異国人。彼の大きな手がどんなに温かいか、今はもう知っている。その手を放したくはない。それなのに、どうして素直になれないのだろう。


 はぁ~っとため息をついて、十世は結論を先送りすることにした。

 安波岐あわきの宮に入ってから、長青が何をするつもりなのか見極めればいい。


(そう言えば……さっきあの人が言ってたけど、初めて会った時のことなんか覚えてないわね)


 日輪殿が南那国に落とされる前のことは、あの日の争乱と共に忘れてしまった。

 日の巫女が大陸の武官と会ったのは、それほど昔の事ではない。恐らく、十世が十一歳か十二歳くらいの頃だろう。


(あの人、私より十歳以上年上なのね。知らなかったわ。明日もう一度聞いてみましょう)


 ふわぁと欠伸をして、十世はようやく目を閉じた。

  

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