番外編

「筑紫へ」 (全三話)

1. 長青


 ザザン ザザン 

 寄せては返す波の音が、静かな夜の浜辺に満ちている。

 ここは、瀬戸内を行き来する船が野営に使う小さな島だ。


 夕餉を終えて、焚火の傍にいる不寝番以外は、明日に備えて寝支度を始めている。そんな時刻。

 サクサクと砂を踏みしめて、長青ちょうせいは砂浜を歩いていた。彼の視線の先には、波打ち際にポツンと座る十世とよがいる。

 筑紫へ向かう船に乗ってから、彼女は毎晩のように砂浜に座り暗い海を見つめている。


 彼女を悩ませているのは、恐らく自分の存在だろう。ならば、彼女の悩みを取り除くことが出来るのも自分を置いて他にはいない。

 長青は十世が姿を消す度に探しまわり、傍に座り話しかける日々を続けている。

 今夜も、いつもと同じように十世の隣に腰かけた。

 心地良い海風が頬を優しく撫でてゆく。


「寒くありませんか?」

「いいえ。ちっとも寒くないわ」


 長青の問いかけに、十世はいつものようにつんと顎を上げる。


 化け物騒ぎで混乱した志貴しきの宮がある程度の落ち着きを取り戻すと、彼女は長青の願い通り筑紫へ帰ることを承諾した。しかし、旅の半ばを過ぎた今でも、なかなか長青に心を許そうとしない。

 むろん、これまでの関係を思えば仕方のない事ではあるのだが────。


 長青は口にすべき言葉を見失い、十世の横顔を静かに見つめた。風に弄ばれる黒髪は宵闇の元でも美しい。

 手を伸ばしたくなる衝動と戦っていると、ふいに過去の幻影が頭をよぎった。

 まだ童とも呼べるような十世の姿を思いだし、長青の口元に笑みが浮かんだ。


「十世さまは、覚えておいででしょうか? 私が初めて日の巫女さまに謁見をした日、まだ幼かったあなたが、私にお茶を出してくれたのですよ」


 長青は六年前の情景を思い浮かべた。



○     〇



「────帯方郡たいほうぐんより参りました長青と申します。太守王頎オウキより、日の巫女さまの力となるよう命じられました。皇帝陛下からの詔書と軍旗をお納めください」


 山に囲まれた聖域。日の巫女の居館日輪殿にちりんでんの広間の中、長青は御簾みすの前に跪き大陸風の礼をとった。


 長青が筑紫へ渡ることになったのは、日の巫女の急使が帯方郡にやって来たことが発端だった。急使が携えて来た親書の内容は、南那なな国との間に戦が起きたとの報せだったのだ。

 皇帝の力を借りたいという日の巫女の願いを受けて、帯方郡の太守王頎は自ら都へ行き上の判断を仰いだ────結果、軍を派遣することは出来なかった。

 詔書と軍旗だけを持たされて、長青が筑紫へ派遣されることになった。


『皇帝陛下のご意向を広く報せ、必ず戦を止めるのだ』


 旅立つ長青に、王頎はそう声をかけた。


(ずいぶん、簡単に言ってくれる)

 腹が立ったが、長青は無言のまま恭しく頭を下げた。


 ────遡ること二年前、韓族との戦で先の太守が亡くなった。

 長青は彼を守ろうと必死に戦ったが、自身もその戦で負傷し、その傷がもとで武人としての第一線から引いた。

 その後は要塞で働く文官のような日々を送ることとなった。

 そんな日常に倦み、単純に抜け出したかったのかも知れない。曖昧な気持ちのまま、長青は海を渡った。



 初めて目にした筑紫は長閑のどかだった。

 大陸に比べれば町の規模は小さく、伊那いな国の王宮も小さなものだった。しかし、知れば知るほど筑紫は『不思議の国』だった。日の巫女のいる日輪殿はその最たるものだった。


 いつも御簾越しに話すだけで姿を見せない日の巫女。詔書などを手渡す時は、幼い少女が御簾を行き来して日の巫女との間を取り持った。

 神聖を演出しているのだろうが、長青は御簾越しの日の巫女よりも、近くに侍る少女の無表情な顔に興味をひかれた。


(……まるで人形だな)


 色白の肌に艶やかな黒髪。大きな瞳は愛らしいが、何も映していない。

 その少女が日の巫女の後継だと聞いた時は、なるほどと納得した。

 少女の纏う空気は清浄そのもので、およそ人間らしい感情があるとは思えなかった。神の声を聞く巫女という者は、そうでなくてはならないのだろう。

 感情の無い人形────神の器────それが十世だった。


 だからこそ、次にその少女を見かけた時、長青はひどく驚いた。久しぶりに見た少女は、時折、とても人間臭い感情を顔に出すようになっていたのだ。

 神殿に仕える各国の王族。その中の特定の一人を、少女は目で追っていた。


〇     〇


「────あなたは恋をしていました。相手は都萬つま国の王子、依利比古いりひこさまでした。彼の姿を見るたびに頬を染めるあなたを見て、微笑ましく思っていました。同時に、この先あなたが日の巫女さまの後継となれるのか、とても心配致しました」


 人間らしい感情を手に入れた少女に、はたして神の器が務まるのだろうか。


「その後しばらく、私が伊那国に詰めている間に、日輪殿が落ちました。あなたは都萬国の神殿に半ば幽閉され、お会いする事は出来なくなりました。

 日の巫女さまがお隠れになり、あなたが日の巫女を継いだと聞いて、ずっと心配していたのです。だから、ヒオク王子が真砂島であなたに会ったと聞いて、私は彼に嫉妬しました。私も会いたい。会って話がしたいと、強烈に思いました」


 長青の平坦な言葉に熱が帯びても、十世は身じろぎもせず海を見つめている。


「南那国との間に戦端が開かれると、私はヒオク王子の代理として都萬国へ行く機会を得ました。都萬国に兵を出させる為に幾度も安波岐あわきの宮を訪れる私は、あなたにとって招かざる客だったことでしょう。それでも私は、あなたに会うのが嬉しかった。恋する乙女から、国を率いる立場となったあなたは、とても輝かしく私の目に映っていたのです。

 そう。都萬国を訪れる度に、あなたへの気持ちは変化してゆきました。しかし、あなたより十歳以上も年上の私が、日の巫女のあなたに恋慕するなど有り得ない────何度もあなたへの想いを封じました」


 言葉を切った瞬間、唐突に十世が振り向いた。

 怒りに満ちた瞳を長青に向けている。


「よ、よくもそんな事が言えたものね。安波岐の宮に来たあなたは、いつも意地悪だったわ! しつこく都萬国の兵を出せと言って、私がどれほど迷惑していたと思っているの?」


 子猫が毛を逆立てるように、十世は長青を威嚇する。その姿が愛らしくて、吐息のような笑みがフッと漏れる。


「迷惑なのはわかっていました。ですが……人間らしくなったあなたと交渉出来るのが、私はとても楽しかった。私の要求に何と答えようかと悩むあなたが微笑ましく、つい意地悪なことを言っていたのも事実です」


「さっ……最低だわ!」


 十世の瞳に怒りの炎が灯ったが、長青は少しも動揺しなかった。

 海風に弄られる彼女の黒髪を一房掬い取ると、唇をそっと押し当てた。


「ヒオク王子からもぎ取った貴重な機会を、誰にも渡したくなかった。毎回、交渉が終わる度、次はいつあなたに会えるだろうと考えていました」


 野営の焚火を映しキラキラと輝く十世の瞳をじっと見つめる。

 指の隙間から、艶やかな髪がサラサラと風に流されてしまうと、長青は彼女の右手に手を伸ばした。

 闇に溶け込む黒い右手は、十世が魔物と戦った証だ。人前ではその手を隠そうとする十世の気持ちもわからなくはないが、長青は誇るべきだと考えている。


 長青の長い指先が十世の右手に触れた瞬間、パッとその手を払いのけて十世が立ち上がった。


「こ、今夜はもう遅いから、失礼するわ」


 十世は踵を返し、サクサクと砂を踏み速足で戻って行ってしまう。

 彼女の足音が遠くなってゆくと、長青はふぅっとため息をついた。


「なかなか手強いですね」


 触れることも出来ないのはもどかしいが、それを楽しいと思っている自分もいる。

 海風を浴びながら、長青はクスッと笑った。

  

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