終 真秀(まほろば)


 ────三年後。


 穏やかな智至ちたるの内海に、東からの船が入って来た。

 半分だけ朱色に染まった薄青色の空には、秋の初めらしい鱗雲が浮かんでいる。


 港の中央にある一番大きな桟橋に船が到着すると、渡り板を待ちきれなかったのか、ぴょこんと小さな女童めのわらわが船から飛び降りた。

 質素な苧麻ちょまの衣を纏った女童は、桟橋で待つ人たちの間をかいくぐり、あっという間に走って行ってしまう。


「こらっ、ひとりで行くなっ! 危ないぞっ!」


 女童の後を追って飛び出したのは、背の高い男だ。彼は桟橋に居る人たちをなぎ倒さんばかりの勢いで彼女の後を追ってゆく。


「はぁ~……心配なのはわかるけど、構い過ぎなんだよなぁ」


 重いため息をつきながら船を下りたアカルは、もう見えなくなってしまった娘と夫を探すように遠くを眺めた。

 連なる低い山々。川に沿って賑やかな店が並ぶ斐川ひかわの宮への道は、かつての記憶よりもさらに賑わいを増したようだ。


(久しぶりだな……)


 岩の里で暮らすアカルの元には、この三年の間、智至からの招待状が幾度も届けられていた。しかし、いつも折が悪く訪問する事が出来なかった。

 今回も、決して良い状態とは言えないのだが、水生比古みおひこから娘を見せろと矢のような催促が続き、おまけに迎えの船まで用意されてしまい、仕方なく来たのだ。


「よいしょっと」


 僅かな手荷物だけを持ってアカルは歩き出した。白い長衣の腹部はやや迫り出している。アカルの腹には二人目の子供がいるのだ。

 岩の里は相変わらず平和だが、八洲の状況は一進一退という感じだ。大きな戦は起きていないが、平和的統一はなかなか進まない。


 夫の鷹弥も、年に何回か姫比きびに呼ばれる。国王の従弟として色々と相談に乗っているらしい。別に不満に思っている訳ではない。アカルからすれば、元王族の鷹弥が岩の里で暮らせることが不思議なくらいだ。

 でも、時々不安になる。いつか鷹弥が姫比へ戻ってしまうのではないか。そもそも、鷹弥を岩の里に縛り付けておいて良いのだろうか────本来あるべき地位のまま、王と共に姫比を率いていくべきなのではないか────そんな風に思ってしまう自分がいる。


「はぁ~。人は幸せだと、余計なことばかり考えてしまうみたいだな」


 ふるふると頭を振り、嫌な考えを追い出してアカルは足を速めた。

 斐川の宮の一番外側の門まで行くと、門の内側に水生比古と夜玖やくが待っていた。わざわざ出迎えに来てくれたのだろうか。


「朱瑠!」


 夜玖が手を振り上げた。


「水生比古さま! 夜玖! お久しぶりです!」


 頭を下げる間もなく、水生比古に両手を掬い上げられてぎゅっと握りしめられた。


「朱瑠、その体で屈むな……ようやく会えたな。身重だとは聞いていたが、もうこんなに……体は大丈夫なのか?」


 眉を下げた情けない顔で、水生比古がアカルの顔を覗き込んでくる。


「今は安定期ですから大丈夫です。それに、早く来いと迎えの船まで寄越したのは水生比古さまじゃないですか……」


 アカルは呆れ顔で水生比古を見上げた。

 彼の招待状攻めは本当にしつこかった。あまりのしつこさに、鷹弥が書簡を握りつぶしたほどだ。物凄く怖い顔で、パキッと。


「それは仕方がないだろう。朱瑠の娘が生まれたと聞けば、誰だって会いたいと思うだろう? それより、足りない物はないか? ちゃんと栄養のあるものを食べているんだろうな? 何なら、生まれるまで智至に居てはどうだ?」


「────それはご遠慮申し上げます」


 いつの間にやって来たのか、素早く間に割り込んで来た鷹弥が、水生比古の手を振り払うようにしてアカルの手を引き抜いた。彼の肩の上には、娘の陽菜ひなが乗っている。


「お久しぶりです水生比古さま。三年前の戦では、ご助力ありがとうございました」


 鷹弥は怖い笑顔を浮かべながら、改めて水生比古の両手首をガシッとつかんでブンブンと上下する。

 されるがままになっていた水生比古は、ハッと我に返るなり負けじと笑みを浮かべた。


「いや私こそ、鷹弥殿の命を助けられて光栄だったよ。おや、その子が陽菜か?」


 一瞬で眉尻を下げた水生比古が、鷹弥の手を振り払って陽菜に手を伸ばす。


「だっこさせてくれ! おいで陽菜!」

「嫌です。娘に触らないでください!」


 鷹弥は肩車した陽菜の足をつかんでパッと飛び退いた。

 二人の攻防を横目で見ていたアカルは、同じように生温かい目で主を見守っている夜玖にこそっと耳打ちをした。


「あの二人、何で仲悪いの?」


「えっ……お前、聞いてないのか? まぁとにかく、ここではなんだ。中に入って話そう」


 夜玖は何ともきまり悪そうな表情を浮かべてから、騒ぐ主を諫めて一同を宮の中に促した。



 その夜はこじんまりした広間で、内輪だけの歓迎の晩餐が開かれた。

 アカルと鷹弥と陽菜の親子に対し、水生比古と夜玖ともう一人、陽菜よりも少し大きい男童おのわらわが膳を囲んでいた。


「我が息子の千早ちはやだ。仲良くしてやってくれ」


 息子を紹介する水生比古は上機嫌だ。

 彼の隣でぺこりとお辞儀をする千早は、とても礼儀正しい子供だった。初めは緊張している様子だったが、陽菜が膳の上のご馳走をパクパク食べているのに気がつくと、ホッとしたように自分も食べ始めた。


「少々強引に来てもらったのは、この智至で会議が行われるからだ。各国の王族が集い、八洲の行く末を話し合う会議だ。朱瑠には、是非とも会議の様子を見て貰いたくてな」


「智至に、各国の王族が? どのくらい集まるの?」


 そんな話は初耳だった。鷹弥からも聞いていなかったという事は、姫比は呼ばれていないのだろうか。


「書簡をやり取りしている国だけで十か国以上ある。今回は様子見の国もあるが、北海諸国と瀬戸内諸国のほとんどが集まる予定だ。是非、会議が終わるまで、ゆっくりと滞在して行って欲しい」


 アカルは、陽菜の向こうに座る鷹弥を見上げた。戸惑うアカルに、鷹弥は静かに頷く。


「知ってたの?」


「ああ。姫比津彦きびつひこから聞いた。お前に言わなかったのは……余計な心配をかけたくなかったからだ」


「そんなこと……」


 鷹弥はきっとお腹の子のことを心配しているのだ。陽菜と腹の子の間にアカルは一度流産していた。アカルが国々の事柄に首を突っ込めば、また流れてしまうと心配しているのだ。


「かぁたま。もうたべらんない」


 すっかり満腹になった陽菜が、アカルの膝に上ってペタペタと顔を触ってきた。


「大人の話しなど、子供はつまらないだろう。千早、夕餉を食べ終わったら陽菜と遊んであげなさい」


「はい、ちちうえ」


 千早は幼いながら自分の役割を心得ているようで、さっそく立ち上がって陽菜の傍にやって来た。ちょいちょいと頬をつついて陽菜を遊びに誘っている。


「千早は本当にいい子だね。どうやったら千早みたいな子になるんだろう?」


 アカルは羨望の眼差しで千早を見つめた。

 何しろ陽菜は鷹弥が手を焼くほどのお転婆娘なのだ。何かやらかす度に、やって良い事と悪い事を言い含めるものの、すっかり忘れてまた繰り返す。


「千早さまは王子だからな。朱瑠の娘ならお転婆でも仕方なかろう?」


 夜玖が余計な口を挟んでくる。


「千早が気に入ったのなら、陽菜の婿にどうだ? 大事にするぞ」

「うちの娘はどこへもやりません!」


 ほろ酔いの水生比古を、鷹弥がバッサリと斬って捨てる。それをきっかけに再び始まった二人の攻防に、アカルは夜玖の隣に席を移した。


「ねぇ、さっきの話!」


「ああ……あれな。三年前の戦で、鷹弥殿の危機に、我が軍と西伯さいはくの連合軍が駆けつけた話は聞いているか?」


「うん。それは聞いてる。狭嶋さしまが、依利比古いりひこの停戦命令を無視して戦を続けてたやつでしょ? ほむらの城を大王軍が取り巻いて、鷹弥の騎馬隊が戻れなくなったって聞いた。危うい所に水生比古さまが来てくれたって」


 アカルも一応は、戦が終結した時の話は聞いていた。しかし、その話の中に、鷹弥と水生比古の仲が悪くなる要素はひとつも無かったのだ。


「実はな……例によって、水生比古さまが、余計な一言をだな……」


 夜玖は言い辛そうにアカルから視線を逸らす。


「何て言ったの?」


「いや、その……鷹弥殿の無事な姿を見て『なんだ生きていたのか』と戯言ざれごとをだなぁ……それに対し鷹弥殿は、非常に不機嫌そうに『お陰さまで』と────」


「あははっ……何それ!」


 アカルは笑い飛ばしたが、夜玖はしばらく苦笑いを続けていた。



 〇     〇



 斐川の宮の中でも王宮に近い豪華な離れ宮で、アカルたち親子は翌朝を迎えた。

 以前のアカルは王宮に泊まることを頑なに拒否していたが、今回は夫と娘が一緒に居るのでありがたく受け入れた。

 翌日は朝から騒がしかった。各国からの客が次々と到着しているらしい。姫比王も到着したとの連絡を受けて、鷹弥はあいさつに出かけている。


「かぁたま。おさかな、いるよ」


 王宮の広大な庭園には池がある。陽菜は池の縁にしゃがみこんで水の中を覗き込んでいる。


「本当だ。非常用食料かな?」

「ひじょわう‥……? なにそれ?」

「ははっ、冗談だよ。お魚きれいだね」


 アカルも陽菜の隣に座り込んだ。

 暑くもなく寒くもなく、ぽかぽかとした小春日和だ。岩の里では何やかやと仕事があって、こんな風にのんびり陽菜と過ごすことはあまりなかった。

 艶やかな陽菜の髪に手を伸ばし、指で掬うように櫛梳る。


「────こっちにも、おさかないるよ!」


 見知らぬ男童が池に駆け寄り、陽菜の向こうを指さした。

 陽菜よりも幼い彼を見た瞬間、雷に打たれたようにアカルは立ち上がった。知らない子だった。けれど、間違いはない。


「何だ……私の所に来るかと思ったのに、そっちへ行ったのか……矢速やはや


 軽い落胆と同時に納得する。

 振り返ると、建ち並ぶ高殿の影から歩いて来る彼の姿が見えた。


「依利比古も会議に来たの?」

「ああ。きみに会えると思ったからね」


 依利比古はゆっくりと歩み寄り、アカルの隣に並んだ。


「近頃の大王さまは、開拓に力を入れてるみたいじゃない。かつての悪行を払拭するように頑張ってるって聞いたよ」


 依利比古は、大王の位についたまま償いをする道を選んだ。国輝くにてるの力を借りながら、尹古麻いこま河地かわちをはじめ各地の灌漑事業を行い、農地の開発に勤めているのだと。

 アカルが褒めると依利比古はクスッと笑った。


「頑張ってはいるが、まだまだだ。いずれはこの八洲会議も、八真都やまとで開けるようにならねばな」


「そうか。ところで、その子は依利比古の息子でしょ? 名前は何て言うの?」


「……矢速だ」


「そうか。いい名前だね」


 自然と笑みが湧いた。

 依利比古もわかっているのだ。わかっていて矢速を受け入れてくれている。

 きっと今度は幸せに暮らせるだろう。そんな嬉しい予感がした。


「きみの娘を矢速の許嫁にしたいんだが」


「ああそれ、ダメなんだ。うちの子には好きな人と一緒になって欲しいからね。あんたもそう思うでしょ?」


「まぁ……そうだな」


 依利比古は相変わらず美しい顔で頷いたが、微かに舌打ちの音が聞こえた気がした。



 穏やかな風が吹いて、アカルの髪が横に流れた。

 空に浮かんだ細かな雲も、風にぷかぷかと流されてゆく。

 今の一時の平和を長く続けるために、この土地で諸国の王を集めた会議が開かれる。


「私は……命ある限り、この八洲の行く末を見守り続けるよ」


 アカルは穏やかな気持ちでにっこりと笑った。



                ── 完 ──

  

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