六 十世と依利比古


依利比古いりひこさま。美和山の日の巫女さまが、謁見を願い出ております」


 八洲の王や使者たちとの謁見を終えた依利比古の元へ、狭嶋さしまの副官がやって来てそう告げた。


十世とよが?」


 依利比古は眉をひそめた。

 十世にはずいぶん前に、この志貴しきの宮で起きた使用人の失踪事件を、秘密裏に解決するよう依頼した。その後、十世が負傷したという報告を受けたが、それきり忘れていた。

 あの魔物が簡単に倒せるとは思っていなかったが、あれ以来、志貴の宮から使用人が消えたという報告はない。きっと上手く追い払えたのだろう。漠然とそう思い、十世には報告を要求しなかった。


「重要なお話があるので、謁見出来るまで帰らないと仰っていますが、どういたしましょう?」

「良い。通せ」


 十世が負傷してから、随分経っている。自ら美和山を出て来たのだから、きっと怪我は良くなったのだろう。

 そう思っていたから、謁見の間に現れた十世の姿を見て息を呑んだ。

 彼女の右手は白布で覆われ、肩に斜めがけした帯布で胸の辺りに固定されていた。

 依利比古の前に跪いた彼女は、片手だけを床に付けて深々と頭を下げた。緊張しているのか、指先が微かにふるえている。


「それは、先日の怪我か? まだ治らぬのか?」

「はい……このような姿で参りましたのは、先日のご報告と、お願いしたいことがあるからでございます」


 十世は顔を上げて依利比古を見た。その瞳を見て、依利比古はもう一度息を呑んだ。

 彼女の瞳には、見たこともないほど強い光が宿っていた。指先はまだ震えているのに、その目は一歩も引かぬと言っている。


(一体……何があったのだ?)


 依利比古が知っている十世は、いつも怯えていた。およそ日の巫女の地位には相応しくない、頼りなげな少女だった。その彼女が、こんなに強い意志を示すのは、いったい何の為なのだろう。


「まずは報告から聞こうか」


 依利比古は、心を静めて報告を促した。

 恐らく、魔物を倒すことは出来なかったのだろう。そして、十世がこんな顔をするほど、事態は切迫しているに違いない。


「では、ご報告を……」


 開きかけた口を閉じて、十世は依利比古の脇に控える男に視線を向けた。


「全てを、ここでお話しても、よろしいのですか?」


 十世にとって、狭嶋の代わりに依利比古の護衛を務める副官は、初めて見る男だろう。話を聞かれても良いのか、と彼女は言っているのだ。

 依利比古はクスッと笑った。


「構わぬ」


 今さら隠したところで、依利比古が魔物を使っていることはみな知っている。陰でどんなことを言われているかも想像できる。


「────では、先日ご依頼の魔物退治ですが、魔物は現在、美和山の結界内に更に結界を張り、その中に封じてあります。あの夜、私は魔物を倒そうとしましたが、力不足でこのように負傷しました。あの時、私に力を貸し、魔物を封じて下さったのは、尹古麻いこまの元国主、長洲彦ながすひこさまの御霊みたまでございました」


「何だと?」


 思わず立ち上がりかけた。それほど依利比古は動転していた。

 尹古麻で魔物の被害が出た時、依利比古はそれを長洲彦の荒魂の仕業だとした。

それが根底から覆されたのだ。


「依利比古さまが危惧されていた長洲彦さまの荒魂は、今この時も、美和山で魔物を封じ続けています。巫女たちも昼夜交代で結界の維持に努めておりますが、もはや限界は近づいております。長洲彦さまも消耗が激しく、いつ消え去ってしまっても不思議ではありません」


 十世はそこで言葉を切り、先ほどと同じ、射るような目で依利比古を見上げた。


「このままでは近いうちに、魔物は結界を破るでしょう。そうなれば、以前とは比べ物にならない被害が出ることは間違いありません。どうか、依利比古さまの霊剣を私にお貸しください。もはや、それ以外に魔物を倒す術はありません!」


 依利比古は咄嗟に、左側に置いた剣をつかんでいた。

 目の前に居る十世は、依利比古に懸想けそうしていたかつての小娘ではなかった。忌々しいほどに成長し、力は無くとも日の巫女として役割を立派に果たそうとしている。


(私は……この娘ほど成長できただろうか?)


 ぐっと左手に力を込めて、剣を握る。

 このままこの霊剣を十世に渡し、暗御神を斃すことに異論はない。あれが人を喰らうのだと知ってから、ずっと疎ましく思っていたのだ。しかし────韴之剣ふつのつるぎを手放すことに、躊躇いがない訳ではない。

 心の奥底にあった不安が、このところ日に日に大きくなっている。それは炫毘古かがびこのせいだ。彼の存在が、依利比古を不安にさせている。気まぐれに現れては依利比古をそそのかしていた炫毘古は、しばらくの間姿を見せていない。

 最後に会ったのは、離れ宮の回廊でアカルの首を絞めていた時だ。


『あんたは豊比古とよひこでしょ? 炫毘古は────』


 アカルはあの時、依利比古に何かを伝えようとしていた。

 豊比古の名を口にしたということは、アカルも前の世の出来事を知っているのだ。

 恐らく彼女が言おうとしたのは、炫毘古にとって都合の悪いことだったのだろう。最後の言葉を口にする前に、アカルは消えてしまった。

 あの時炫毘古は、最後通告のような言葉を呟いた。


 ────遊びの時間は終わりだと。


 あれ以来、一度も姿を見せない。炫毘古が次に現れるのは、恐らく、自分を殺しに来る時だ。そんな不安が胸にずっと燻っている。


(十世に霊剣を貸した後で、もしも炫毘古が現れたら……)


 考えるだけで恐ろしかった。


「依利比古さま?」


 沈黙に耐え切れなくなったのか、十世が窺うように呼びかけてきた。


「そなたの願いをどうするか……しばらく考える。再び呼ぶまで下がっておれ」


 とても即答できる問題ではなかった。


「おっ、お待ちください! 事は急を要するのです! 依利比古さま!」


 十世は必死に叫んだが、護衛の武官たちに抱えられるように広間から連れ出されて行った。



 〇     〇



 ────その頃。

 美和山では異変が起きていた。


「どうして、こんなことに……」


 霊山に祈りを捧げる屋根と柱だけの遥拝殿。その床に、巫女たちが倒れていた。

 交代するためにやって来た宵芽よいめたちは、その光景を目にした途端血の気が引いた。

 長洲彦の殯家もがりやに魔物を封じてから、巫女たちは交代で結界を維持してきた。誰もがみな疲れ果てていた。もしかしたら、交代を待てずに霊力が尽きてしまったのかも知れない。

 宵芽は我に返ると、すぐに倒れた巫女たちに駆け寄った。


「大丈夫? ねぇ!」


 巫女たちに息はあった。最悪の事態ではないことに安堵したが、揺り動かしても意識が戻る気配はない。


「どうしよう……」


 宵芽は年上の巫女たちを見回したが、みな不安そうな顔をするだけだ。

 ここにいるのは非力な女ばかり。彼女たちを寝床に運ぶだけで、相当な時間がかかってしまうだろう。しかし、結界の維持に来た宵芽たちには、そんな時間すら無い。

 宵芽は迷いを振り切ると、目に力を込め、大きく息を吸った。


「みんなは結界の維持をお願いします! あっ、誰か一人、山吹やまぶきさんを呼びに行って!」


 宵芽がそう言った時だった。

 ゴォーと風が渦を巻き、殯家が吹き飛んだ。

 まるで竜巻に巻き上げられたような殯家の下から、巨大な黒い物体が空へと飛び上がった。


「あれはっ!」


 それは間違いなく、志貴の宮で見た暗御神くらおかみだった。黒い蛇体の中央から木の根のような触手が翼のように生えている。


「きゃー!」


 宵芽の周りから悲鳴が上がった。殯家に封じた時は長洲彦ひとりだった。ほとんどの巫女たちは、どんな魔物が封じられているかわからずに結界を維持していた。

 彼女たちは、初めて見る魔物のおぞましい姿に腰を抜かして震えている。

 黒い蛇体をくねらせ、ざわざわと触手を動かしている暗御神は、宵芽の予想に反して巫女たちに襲い掛かって来なかった。宙に浮かんだままその場に留まっている。


(まさか……美和山の結界を破ろうとしてる?)


 宵芽の頭に恐ろしい予感が閃いた瞬間────ひとりの巫女が蛇神を指さした。


「あ、あれを見て! 長洲彦さまが!」


 蛇神の触手に、長洲彦の幽体が絡め捕られている。


「どうして長洲彦さまが!」


 宵芽は叫んだ。しかし、弱り切った長洲彦の耳には届かない。それどころか、どんどん触手の中に埋もれて姿が見えなくなってゆく。

 ピシッ、と玻璃が割れるような音がした。それが、結界が破られた音だと気づいた瞬間、宙に浮かんでいた暗御神は、北西の方角に飛び去っていった。


「どうしよう……」


 暗御神の姿が消えてしまっても、巫女たちはみな呆然と空を見上げていた。

 美和山の神殿から見えるのは、薄青く晴れた空と緑の木々だけだ。

 宵芽は金縛りから解けたようにプルプルと首を振ると、蛇神が飛び去った方角に目を向けた。


「あっちへ真っ直ぐ行ったら……志貴の宮の方角だよ!」


 蛇神が目指しているのは志貴の宮だ。魔物は再びあの宮へ行き、年若い娘を喰らうつもりなのだ。


(志貴の宮には、十世さまがいるのに!)


 宵芽は駆け出した。じっとしてなどいられなかった。

 十世から任された仕事を、自分は全うすることが出来なかった。このままでは、志貴の宮に災厄を振りまくことになってしまう。けれど、宵芽の頭にあるのは十世を助けなければという思いだけだった。

 宵芽は何度も転びそうになりながら結界門をくぐった。


「宵芽!」


 山吹の声と共に、宵芽の体が宙に浮いた。


「馬の方が早いぞ。しっかりつかまっておれ!」


 いつの間にか、宵芽は山吹の馬に乗せられていた。慌てて体勢を整えて馬の首につかまると、馬は勢いよく森の一本道を駆け抜けていった。



  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る