五 美和山の巫女たち


 霊山美和みわ山の麓には聖域の森が広がっている。

 人の手がほとんど入らない太古の森の奥には、霊山を守る尹古麻いこまの神殿がある。

神殿の最奥にあたる遙拝殿の先に、特別な結界が張られた長洲彦ながすひこ殯家もがりやがあった。


 殯家の中には黒き蛇神──暗御神くらおかみが封じられているが、結界を破ろうとする蛇神の抵抗は激しかった。

 遥拝殿で結界を維持している巫女たちは、昼夜交代で休んでいるにも拘らず疲労の色が濃い。しかし、巫女たちよりも消耗しているのは結界の主軸である長洲彦だった。彼は幽体であるが故に、何日もの間休みなく結界に力を注ぎ続けている。


「長洲彦さま。朱瑠の削り花です。これが最後の一本ですよ」


 殯家の前にどっかりと胡坐をかいている長洲彦に、宵芽よいめが削り花を差し出した。

 宵芽は泡間あわいでアカルとはぐれ、気がついた時には美和山へ戻っていた。それはちょうど長洲彦が激しく消耗していた時で、宵芽は十世とよに相談して、彼に削り花を捧げた────結果、彼は驚くほど回復した。だから、もう一つは今後の為に取っておいたのだ。


『おお、あの暖かい光の力を持つ木片か』


 長洲彦は宵芽の小さな手のひらから削り花を受け取ると、笑みを浮かべてしばし眺めてからポイと口に入れた。途端に、長洲彦の体はひと回りも二回りも大きくなった。


『おおっ、力が漲るぞ! これでまだしばらくは、奴を閉じ込めておけるぞ!』


 長洲彦は胸を張り、殯家に視線を戻した。

 宵芽は遥拝殿の巫女たちの様子を見てから、そっとその場を離れ、十世の居る神殿へ向かった。

 暗御神の牙に傷つけられた十世の手は、まだ治らない。黒く変色し、力を入れても感覚が無いようだ。そんな怪我を負っていても、十世は圧倒的な力で結界を維持している。たぶん、十世か長洲彦のどちらかが倒れれば、あの結界を維持することは不可能だろう。


(朱瑠……早く来てよ)


 泡間の中で何があったのか、宵芽にはよくわからなかった。ただ、美和山へと飛んだ時に、何かがアカルを引っ張ったのはわかった。自分だけが弾き飛ばされるように、この美和山へ戻っていた。

 アカルを連れて来られず、自分だけ戻って来た宵芽を、十世は責めなかった。アカルに目的地を伝えられただけで十分。無事に戻ってくれて良かった、と言ってくれた。


 確かにそうだ。アカルに泡間を通る方法を教えてもらえなければ、宵芽はまだ鳶の体で空を飛んでいただろう。アカルが鳶に持たせてくれた削り花が無ければ、長洲彦はとうに消滅していたかも知れない。けれど、その削り花ももう無い。次に長洲彦の力が衰えたら、もう宵芽たちに成す術はない。十世の力も限界が近づいている。


(このままじゃ、十世さまが……死んじゃうよ)


 宵芽は十世のことが心配でならなかった。

 泣きそうな顔をしたまま古くて大きな神殿の階を上り、回廊を通って神殿脇の小部屋へ向かった。


「十世さま。長洲彦さまに削り花を渡してきました」


 声をかけながら十世の私室に入ると、ちょうど山吹やまぶきが十世の前にお茶を出しているところだった。


「ご苦労さま。宵芽も一緒にお茶にしましょう」


 明るくそう言うが、十世の顔色は悪い。戸口に立ったまま宵芽が躊躇していると、山吹が手招きした。


「ほら、さっさとお入りなされ!」


 手際よく三人分の茶を注ぐ山吹。無表情の彼女はいつも通りだ。そのことにホッとして、宵芽は十世の小卓の前に座り込んだ。

 お茶と一緒に枇杷びわの実を一つずつ食べる。甘味にふぅっと顔を緩めていると、十世が笑顔を見せてくれた。


「宵芽には、このところ心配ばかりかけているわね。私も、このままではいけないと思っているの」


「十世さま……」


「きっと朱瑠はここへ向かっている。でも、それを待っている間に長洲彦さまの力が尽きてしまったら……暗御神は再び人を襲いはじめる。ううん。きっと閉じ込められていた分、以前よりも多くの人を喰らうかも知れないわ」


 十世の言葉を聞いて、宵芽はゾッとした。日に一人喰らっていた魔物が、もしも手あたり次第人を喰らうようになったら、ここの巫女たちは一日も経たないうちに食べられてしまうだろう。


「────そうなる前に、手を打たなければいけないわ。今の私に出来るのは……依利比古いりひこさまの霊剣、韴之剣ふつのつるぎを借り受けることだけ」


 宵芽はハッと息を呑んだ。

 依利比古が破魔の霊剣を持っていることは、十世から聞いていた。

 アカルが阿良々木あららぎの里に来た時、魔物を倒す尹渡いと国の霊剣があると話したのは、宵芽自身だった。

 ここにはいないアカルも、みな不思議な縁で魔物と繋がっている。


「あたしたちは……魔物を倒すために生まれたのでしょうか?」


 感慨にふけったままそう呟くと、十世はくしゃりと顔を歪めて苦笑した。


「さぁ、どうかしら。私は、あの魔物を目覚めさせてしまった方だから……」

「あっ……」


 宵芽は慌てて自分の口を両手で塞いだ。

 十世がかつての行いを悔やみ、思い悩んでいる事は知っていた。それなのに、よく考えもせずに、彼女の傷を抉るような事を言ってしまった。ただでさえ満身創痍の十世を、自分の言葉がさらに追い詰めてしまった。


「運命の神様がなさることは、我ら人の子にはわかりませんよ。でも、一つだけ言えることは、外に出さなきゃ倒せません。そういう事です」


 凍りついた空気を溶かしたのは、飄々とした山吹の言葉だった。


「そ、そうですよね!」


 宵芽は慌てて追従したが、山吹はさっさと話しを元に戻してしまった。


「ですが十世さま。依利比古さまは、その霊剣を手放すでしょうか?」


 山吹の問いに、十世は悲しそうなため息をついた。


「それは……とても難しいと思うわ。魔物から身を守れるのが霊剣だけならば、そう易々と貸してはくれないでしょう。でもね、魔物を倒せと言ったのは依利比古さまなのよ。この手のせいで報告も出来なかったけれど、万が一、美和山の結界が破れて魔物が解き放たれれば、どんなことが起こるかあの方はわかっているはずだわ」


 断固とした口ぶりで十世は言った。

 何度裏切られても、きっと心の奥底では、彼を信じたいと思っているのだ。

 恋をした事のない宵芽には、十世の気持ちはよくわからない。ただ、彼女の気持ちが今度こそ裏切られないようにと願わずにはいられなかった。



 翌朝、十世は二人の巫女を連れて美和山の神殿を出発した。

 日に日に緑の濃くなってゆく森の向こうに十世の姿が見えなくなると、宵芽はハーっと大きなため息をついた。

 留守を託された宵芽は、十世に代わって結界の維持に力を注ぐことになる。正直に言えば心細かったが、依利比古の霊剣を借りる役目は十世にしか出来ない。


「ほれ、戻るぞ」


 山吹にポンと肩を叩かれ、背を押されるまま歩き出す。

 霊力があっても、宵芽には圧倒的に経験が足りない。十世の留守を預かる巫女頭の役目は、不安しかなかった。


「宵芽。難しく考える必要などないのだぞ。他の巫女たちの事などどうでも良い。お前は結界を維持することだけを考えれば良いのだ」


 山吹の不器用な思いやりに、宵芽は少しだけ笑って頷いた。山吹は巫女ではないが、宵芽よりずっと年上で、日の巫女である十世にも意見する強者だ。彼女が傍に居てくれるだけでとても心強かった。



〇     〇



 宵芽たちが去り、静けさを取り戻した聖域の森に、フッと闇が凝った。それは一瞬で人の形になった。


「へぇ、ここに暗御神がいるのか」


 神域の入り口。結界門に手を添えて中を窺うのは、長い髪を背に流した月弓つきゆみだ。彼は楽しそうに、ニッと口端を吊り上げる。


「確かに凄まじい結界に包まれているが、入れないことはない……お前の体のお陰だな、月弓」


 炫毘古かがびこの魂を受け入れた器────人である月弓の体は、神域の結界をいとも簡単に通り抜けた。

  

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