四 波紋


 勇芹いさせり戦死の報は、速やかに志貴しきの宮へと届けられた。

 弟の狭嶋さしまは依利比古の前に跪き、姫比きび行きを懇願した。


「────どうか、兄の代わりに、俺を姫比へ行かせてください!」

「しかし……お前は王都守護の要だ。私の護衛は誰がするのだ?」

「俺の副官は信用できる男です。俺が不在の間、どうかその者をお傍に」


 そう言っていっそう頭を低くする。

 そんな狭嶋を、依利比古いりひこは口を引き結んだまま高座から見下ろしていた。

 狭嶋の気持ちがわからなかった。依利比古には、仇を討ちたいと思うような愛すべき肉親など一人もいなかった。それどころか、彼にとって父と異母兄はずっと憎しみの対象であり、彼らを殺せと命じたのは彼自身だった。そんな人間に、狭嶋の気持ちがわかるはずはない。

 依利比古は小さく息を吐くと、口元を緩めた。


「……わかった。だが、お前に西の将君いくさぎみの称号は与えぬぞ。姫比攻めに参加している多罵那たばな国の将井枡彦いますひこに、暫定的に指揮権を与える。お前は急使と共に姫比へ赴き、井枡彦と共に姫比を平定しろ!」


「はっ! ありがとうございます!」

「ただし、私が帰れと使者を差し向けたら、何を置いても帰るのだ!」

「はっ! 必ず!」


 狭嶋は深く深く頭を下げると、急ぎ足で王の間を出て行った。

 一人きりになると、心の中に冷たい風が吹き過ぎた。誰も信用しないと言いながら、知らぬうちに彼を頼りにしていたことにようやく気づいた。

 狭嶋が依利比古の護衛となったのは、もう随分前のことだ。姫比行きよりも前で、依利比古が父の言いなりだった頃からずっと傍に居てくれた。依利比古が魔物と手を組み非道な事をしても、彼は変わらず傍に居てくれた。


「いつもそうだ……気づいた時には失っている。まるで指の隙間から、大切なものがこぼれ落ちてゆくようだ」


 己の指先を見つめたまま、依利比古は呟いた。狭嶋を行かせたことをもう後悔している。

 しばらくすると、狭嶋の副官だと言う若い武人がやって来た。彼は挨拶と共に、狭嶋が急ぎ出立したことを告げた。


「そうか。もう行ったのか。……高志こうし国の状況はどうだ? 何か報せは来ているか?」


 気分を変えたくてそう問うと、副官は、高志国との戦は膠着状態にあると答えた。


「高志の港に、智至ちたる国の援軍が到着して、高志側の士気は上がっております」

「そうか……一旦、小尾彦おおひこを下がらせるか?」


 誰に言うともなく呟いて、依利比古はかぶりを振った。智至の援軍がいる状態で下手に引けば、隣国の多雅たが国が逆に攻められる。


(いっそ、暗御神くらおかみを高志へ行かせて、思う存分喰わせてやるか……)


 そう思った瞬間、総毛立った。

 むろん、それはただの戯言たわごとで、本気で思った訳ではなかった。けれど、そんなことを考えた自分に、戦慄が止まらなかった。



 〇     〇



 深い山々を超えて、鷹弥は姫比へ戻って来た。

 懐には、智至ちたる王の親書がある。密使の仕事を無事に終え、心の憂いも解消できた鷹弥は、晴れ晴れとした心持ちだった。

 しかし、ほむらの城に戻った鷹弥を待っていたのは、宇良うらと、敵将勇芹いさせりの死の報せだった。


「一体、何がどうなっているんだ?」


 鷹弥が尋ねても、姫比津彦きびつひこは悲しげに笑うだけで口を開かなかった。彼が何故それほど打ちひしがれているのか、理解出来なかった。

 姫比津彦は生まれた途端に、父である太丹ふとに王に殺されかけた。巫女に命を救われ、二十五年もの間、父親と宇良を憎みながら育ってきた────長年降り積もった恨みは、父王を殺すという暴挙に彼を駆り立てた。それほど彼の憎しみは強かった筈だ。

 それとも、宇良と入れ替わり、姫比王となったことで、彼の恨みは軽減されていたのだろうか。

 鷹弥を迎える姫比津彦の表情は暗かった。智至王の親書を受け取り、よくやったと褒める顔にも、悲し気な笑みが浮かんでいた。

 それほど、双子の片割れの死が衝撃だったのだろう。


 宇良の死の詳細を鷹弥に教えてくれたのは、黒森くろもりだった。鷹弥の部屋に場所を移し、てきぱきと旅装を解きながら説明してくれた。


「宇良さまは、ご自分の立てた作戦を、たった一人で成し遂げたのです。初めはみな信じませんでした。彼が、大王の軍に逃げ込むつもりなのだと思っていました。

姫比津彦さまもそうです。彼を解き放ってやりたいという思いだけで、作戦の実行を許可しました」


「宇良は……勇芹を殺すために、大王の軍に潜入した……のか?」


「潜入と言うより、姫比津彦に投獄されていた宇良王子として、助けを求めに行ったのです」


「ああ、確かに、嘘は一つも無いな」


 そう答えたが、鷹弥はとても信じられなかった。自分の事しか考えない腑抜けだった男が、いつの間に、姫比の為に動くような人間になったのだろう────己の死を覚悟し、自らの作戦をたった一人で実行するほどに。


「あの方も、座敷牢で暮らすようになって随分経ちます。色々考えたのではないでしょうか?」


 黒森は同情的だった。宇良を疑った者たちほど、罪悪感からか、彼の功績を讃えている。彼が総大将の勇芹を討ったお陰で、大王おおきみの軍は阿知宮あちみやへ入ったまま沈黙を保っている。


「大王の軍に動きは無いのか?」

「はい。勇芹の亡骸は、どうやら宮の東にある丘陵に葬ったようです」

「そうか」


 鷹弥が疲れたように座り込むと、黒森は彼の前に跪いた。


「智至への急使の任務、完遂おめでとうございます。鷹弥さまの無事な姿を拝見してホッと致しました」

「いや。智至国と友好を結べてよかった」


 姫比津彦が王に立った後も、黒森は変わらず鷹弥を王族として気遣ってくれる。しかし、今の鷹弥には、それが少し重かった。


「黒森……実は、智至でアカルに会った」

「え?」

「平和になったら、岩の里に戻ると約束した」

「そう、ですか。それは、良かったじゃないですか!」


 神妙な顔から一転して笑顔になった黒森は、両手でバシバシと鷹弥の肩を叩いた。

 がっかりされると思っていた鷹弥は、黒森の反応に面食らった。


「おや、私が反対するとでも思っていたのですか? とんでもない! 鷹弥さまが死にそうな顔をしている間、私がどれほど心配したと思っているんですか? もちろん本音を言えば、年の半分くらいは姫比に居て欲しいとは思いますよ。でも、姫比津彦さまの御許しがあるなら、私に否やはありません」


「ありがとう……お前には、本当に心配をかけたな」


 鷹弥が苦笑すると、黒森も笑った。


「安心するのはまだ早いですよ。敵もこのまま引いたりはしないでしょう。阿知宮から大王の軍を追い出すまでは、必ずもう一波乱あります。依利比古の護衛についていた武人を覚えていますか?」


「ああ。彼は確か、勇芹の弟だったな」


 鷹弥は、自分といくらも変わらない若い武人の顔を思い出した。

 依利比古について瀬戸内諸国を廻った時に、彼とは何度か言葉を交わした。名は狭嶋と言っていた。あの時は実直で好ましい武人だと感じたが、次に会う時は一変しているだろう。彼にとって姫比は、兄の仇になったのだ。


「────失礼いたします!」


 若い兵士が戸口に膝をついた。


「姫比津彦さまがお呼びです。敵に動きがあった模様。すぐに軍議の間へお越しください」


 鷹弥は黒森と視線を交わすと、素早く立ち上がった。



〇     〇



 穴海湾に、新たな竜船が到着した。

 その日から、大王の軍に占拠された阿比宮は、活発に動き始めた。


「────兵は僅かだが、糧食は十分に補充したようじゃな」


 姫比の大巫女であるさかきは、使鬼しきを飛ばして大王軍を探った。

 連日、主だった将を集めた軍議では、焔の城にこのまま籠城を続けるか、多勢に無勢でも打って出るかで紛糾していた。


 巫女による結界のお陰で、この焔の城が大王の軍に見つかることはない。けれど、いつまでも隠れている訳にはいかない。姫比軍が沈黙を守っている間に、大王軍は実質的に姫比の支配を始めるだろう。

 焔の城に身を寄せている民たちも、田の作物が心配で落ち着きを失い始めている。里に戻る者が一人でも出れば、他の者たちも後を追ってしまうだろう。


 日に日に憔悴してゆく姫比津彦を見つめながら、鷹弥は打開策を考えた。

 数で劣る姫比軍では、正面から戦っても勝機はない。少数の兵を効果的に使って戦う方法はないだろうか。


「……榊殿。焔の城を護る結界は、形を変えられるのか?」


 鷹弥が質問すると、姫比津彦がハッとしたように顔を上げた。


「出来ないことはないが、具体的にどんな形にしたいのじゃ?」


 榊が問い返すと、軍議の間に居る全ての目が鷹弥に注がれた。


「俺が一番避けたいのは、正面から戦って兵の数を失うことだ。だから、効果は薄くとも、一撃離脱の形を取りたい。我が軍の攻撃により大王軍が阿知宮から出て来ても、正面からは戦わず、同じように一撃離脱を繰り返す。大王軍には馬がない。我が軍の騎馬隊を追撃しようとしても機動力に欠ける。それに加え、巫女の結界が騎馬隊に連動出来れば、効果は絶大だと思うのだが────」


「なるほど。敵から見れば、我が兵が消えたように見える訳だな」


 姫比津彦が鷹弥の言葉を補足すると、将たちからおぉーという声が漏れた。


「出来なくはないが、戦場に近づき過ぎれば、大王軍の兵を結界内に取り込む恐れがある。ある程度は離れなければ無理じゃぞ」


 榊がくぎを刺すと、鷹弥は頷いた。


「それでも、戦場近くの結界内から敵の様子を探れれば、二度目三度目の攻撃も可能になる」


「よし。巫女との連携をした上で鷹弥の案を採ろう。指揮も、そなたに任せて良いか?」


 姫比津彦は、真っ直ぐ鷹弥を見つめた。


「ああ。俺が指揮を執る。すぐに騎馬隊の編成に入る」


 軍議の席から、鷹弥は立ちあがった。

 この翌日から、姫比の騎馬隊による奇襲攻撃が始まった。

 寄せては返す波のような攻撃は、大王軍を阿知宮から誘い出し、戦場は次第に山中へと移って行った。

  

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