四 波紋
弟の
「────どうか、兄の代わりに、俺を姫比へ行かせてください!」
「しかし……お前は王都守護の要だ。私の護衛は誰がするのだ?」
「俺の副官は信用できる男です。俺が不在の間、どうかその者をお傍に」
そう言っていっそう頭を低くする。
そんな狭嶋を、
狭嶋の気持ちがわからなかった。依利比古には、仇を討ちたいと思うような愛すべき肉親など一人もいなかった。それどころか、彼にとって父と異母兄はずっと憎しみの対象であり、彼らを殺せと命じたのは彼自身だった。そんな人間に、狭嶋の気持ちがわかるはずはない。
依利比古は小さく息を吐くと、口元を緩めた。
「……わかった。だが、お前に西の
「はっ! ありがとうございます!」
「ただし、私が帰れと使者を差し向けたら、何を置いても帰るのだ!」
「はっ! 必ず!」
狭嶋は深く深く頭を下げると、急ぎ足で王の間を出て行った。
一人きりになると、心の中に冷たい風が吹き過ぎた。誰も信用しないと言いながら、知らぬうちに彼を頼りにしていたことにようやく気づいた。
狭嶋が依利比古の護衛となったのは、もう随分前のことだ。姫比行きよりも前で、依利比古が父の言いなりだった頃からずっと傍に居てくれた。依利比古が魔物と手を組み非道な事をしても、彼は変わらず傍に居てくれた。
「いつもそうだ……気づいた時には失っている。まるで指の隙間から、大切なものがこぼれ落ちてゆくようだ」
己の指先を見つめたまま、依利比古は呟いた。狭嶋を行かせたことをもう後悔している。
しばらくすると、狭嶋の副官だと言う若い武人がやって来た。彼は挨拶と共に、狭嶋が急ぎ出立したことを告げた。
「そうか。もう行ったのか。……
気分を変えたくてそう問うと、副官は、高志国との戦は膠着状態にあると答えた。
「高志の港に、
「そうか……一旦、
誰に言うともなく呟いて、依利比古は
(いっそ、
そう思った瞬間、総毛立った。
むろん、それはただの
〇 〇
深い山々を超えて、鷹弥は姫比へ戻って来た。
懐には、
しかし、
「一体、何がどうなっているんだ?」
鷹弥が尋ねても、
姫比津彦は生まれた途端に、父である
それとも、宇良と入れ替わり、姫比王となったことで、彼の恨みは軽減されていたのだろうか。
鷹弥を迎える姫比津彦の表情は暗かった。智至王の親書を受け取り、よくやったと褒める顔にも、悲し気な笑みが浮かんでいた。
それほど、双子の片割れの死が衝撃だったのだろう。
宇良の死の詳細を鷹弥に教えてくれたのは、
「宇良さまは、ご自分の立てた作戦を、たった一人で成し遂げたのです。初めはみな信じませんでした。彼が、大王の軍に逃げ込むつもりなのだと思っていました。
姫比津彦さまもそうです。彼を解き放ってやりたいという思いだけで、作戦の実行を許可しました」
「宇良は……勇芹を殺すために、大王の軍に潜入した……のか?」
「潜入と言うより、姫比津彦に投獄されていた宇良王子として、助けを求めに行ったのです」
「ああ、確かに、嘘は一つも無いな」
そう答えたが、鷹弥はとても信じられなかった。自分の事しか考えない腑抜けだった男が、いつの間に、姫比の為に動くような人間になったのだろう────己の死を覚悟し、自らの作戦をたった一人で実行するほどに。
「あの方も、座敷牢で暮らすようになって随分経ちます。色々考えたのではないでしょうか?」
黒森は同情的だった。宇良を疑った者たちほど、罪悪感からか、彼の功績を讃えている。彼が総大将の勇芹を討ったお陰で、
「大王の軍に動きは無いのか?」
「はい。勇芹の亡骸は、どうやら宮の東にある丘陵に葬ったようです」
「そうか」
鷹弥が疲れたように座り込むと、黒森は彼の前に跪いた。
「智至への急使の任務、完遂おめでとうございます。鷹弥さまの無事な姿を拝見してホッと致しました」
「いや。智至国と友好を結べてよかった」
姫比津彦が王に立った後も、黒森は変わらず鷹弥を王族として気遣ってくれる。しかし、今の鷹弥には、それが少し重かった。
「黒森……実は、智至でアカルに会った」
「え?」
「平和になったら、岩の里に戻ると約束した」
「そう、ですか。それは、良かったじゃないですか!」
神妙な顔から一転して笑顔になった黒森は、両手でバシバシと鷹弥の肩を叩いた。
がっかりされると思っていた鷹弥は、黒森の反応に面食らった。
「おや、私が反対するとでも思っていたのですか? とんでもない! 鷹弥さまが死にそうな顔をしている間、私がどれほど心配したと思っているんですか? もちろん本音を言えば、年の半分くらいは姫比に居て欲しいとは思いますよ。でも、姫比津彦さまの御許しがあるなら、私に否やはありません」
「ありがとう……お前には、本当に心配をかけたな」
鷹弥が苦笑すると、黒森も笑った。
「安心するのはまだ早いですよ。敵もこのまま引いたりはしないでしょう。阿知宮から大王の軍を追い出すまでは、必ずもう一波乱あります。依利比古の護衛についていた武人を覚えていますか?」
「ああ。彼は確か、勇芹の弟だったな」
鷹弥は、自分といくらも変わらない若い武人の顔を思い出した。
依利比古について瀬戸内諸国を廻った時に、彼とは何度か言葉を交わした。名は狭嶋と言っていた。あの時は実直で好ましい武人だと感じたが、次に会う時は一変しているだろう。彼にとって姫比は、兄の仇になったのだ。
「────失礼いたします!」
若い兵士が戸口に膝をついた。
「姫比津彦さまがお呼びです。敵に動きがあった模様。すぐに軍議の間へお越しください」
鷹弥は黒森と視線を交わすと、素早く立ち上がった。
〇 〇
穴海湾に、新たな竜船が到着した。
その日から、大王の軍に占拠された阿比宮は、活発に動き始めた。
「────兵は僅かだが、糧食は十分に補充したようじゃな」
姫比の大巫女である
連日、主だった将を集めた軍議では、焔の城にこのまま籠城を続けるか、多勢に無勢でも打って出るかで紛糾していた。
巫女による結界のお陰で、この焔の城が大王の軍に見つかることはない。けれど、いつまでも隠れている訳にはいかない。姫比軍が沈黙を守っている間に、大王軍は実質的に姫比の支配を始めるだろう。
焔の城に身を寄せている民たちも、田の作物が心配で落ち着きを失い始めている。里に戻る者が一人でも出れば、他の者たちも後を追ってしまうだろう。
日に日に憔悴してゆく姫比津彦を見つめながら、鷹弥は打開策を考えた。
数で劣る姫比軍では、正面から戦っても勝機はない。少数の兵を効果的に使って戦う方法はないだろうか。
「……榊殿。焔の城を護る結界は、形を変えられるのか?」
鷹弥が質問すると、姫比津彦がハッとしたように顔を上げた。
「出来ないことはないが、具体的にどんな形にしたいのじゃ?」
榊が問い返すと、軍議の間に居る全ての目が鷹弥に注がれた。
「俺が一番避けたいのは、正面から戦って兵の数を失うことだ。だから、効果は薄くとも、一撃離脱の形を取りたい。我が軍の攻撃により大王軍が阿知宮から出て来ても、正面からは戦わず、同じように一撃離脱を繰り返す。大王軍には馬がない。我が軍の騎馬隊を追撃しようとしても機動力に欠ける。それに加え、巫女の結界が騎馬隊に連動出来れば、効果は絶大だと思うのだが────」
「なるほど。敵から見れば、我が兵が消えたように見える訳だな」
姫比津彦が鷹弥の言葉を補足すると、将たちからおぉーという声が漏れた。
「出来なくはないが、戦場に近づき過ぎれば、大王軍の兵を結界内に取り込む恐れがある。ある程度は離れなければ無理じゃぞ」
榊がくぎを刺すと、鷹弥は頷いた。
「それでも、戦場近くの結界内から敵の様子を探れれば、二度目三度目の攻撃も可能になる」
「よし。巫女との連携をした上で鷹弥の案を採ろう。指揮も、そなたに任せて良いか?」
姫比津彦は、真っ直ぐ鷹弥を見つめた。
「ああ。俺が指揮を執る。すぐに騎馬隊の編成に入る」
軍議の席から、鷹弥は立ちあがった。
この翌日から、姫比の騎馬隊による奇襲攻撃が始まった。
寄せては返す波のような攻撃は、大王軍を阿知宮から誘い出し、戦場は次第に山中へと移って行った。
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