三 穴戸海門
筑紫島と
八洲の海一番の難所と言われる海峡だが、その流れには、どうやら一定の法則があるらしい。
「知ってるか? 潮の満ち引きの関係で、ここは日に四度流れを変えるんだぜ」
かつてはこの辺りを仕事場にしていた
北海から瀬戸内へ流れていた水が逆方向へ流れを変える時。またその反対に流れを変える時。とにかく潮の変わり目に流れが滞る潮止まりの時間帯があり、北海と瀬戸内を行き来する船は、この潮止まりを狙って通過するらしい。
ソナのガウロス船もこの潮止まりの時間を狙って、長渡国側の小瀬戸から穴戸海門に船を進めていた。
船の舳先に立つアカルの前には、穴戸海門で一番狭い場所が迫っている。
その一番の難所を通り抜けようとした時、まるで待っていたように船団が現れた。一列に並んだ船団は、あっという間に狭い海峡を封鎖した。
「止まれ! 止まらねば攻撃する! 停船し、身分と目的地を申告せよ!」
ガウロス船よりも小さな中型の快速船のひとつから声がかかる。船団には、
「おいでなすったな」
嵐が舌なめずりをしながら不敵な笑みを浮かべる。
ガウロス船の乗組員は嵐の部下がほとんどだ。海賊稼業で染みついた好戦的な雰囲気はなかなか隠せるものではない。今は金海の王子を乗せた使節船を装っているのだから、戦いは無用のはずなのに、嵐たちは敵を迎え撃つ気満々だ。
「え、戦っちゃまずいでしょ?」
アカルがハラハラしていると、雅やかな西方の衣を身に纏ったソナが船室から現れた。
「嵐! くれぐれも、丁寧にな」
「わかってるって!」
嵐はニヤリと笑うと、大きく息を吸い込んだ。
「我らは金海国より参った。ソナ王子が
嵐が大声で返答すると、やがて船長らしき太った武官が船に乗り込んで来た。
「金海の王子はどちらに?」
太った武官は、疑り深い目をキョロキョロさせている。
甲板に立つ乗組員たちの中から、青い衣を身に纏ったソナが出て行くと、彼はごくりと唾を飲み込んだ。西方の血が濃いソナの容貌や、色鮮やかな衣装に驚いているのだろう。
そんな武官に、ソナはにっこりと微笑みかけた。
「私が金海のソナ王子だ。そなたは何処の武官か?」
「わ、わしは、
「そうか伊那国か! 懐かしいなぁ。伊那に渡ったヒオク王子とは、幼い頃に遊んだことがあるのだ」
その後の仲の悪さは棚に上げ、ソナは嬉々として武官の言葉を遮る。
「なんと、ヒオクさまのご友人でしたか。これはご無礼いたしました。ちょうど我が国から
太った武官は俊敏な動きでさっと姿勢を正した。
「ああ。構わぬよ」
大仰に頷いて、ソナは片手を上げた。さっと人垣が割れ、広々とした甲板が見渡せるようになると、武官は後方にある船室に目を向けた。
「中に入っても?」
「好きにしろ」
ソナが頷くと、彼は部下の兵を数人引き連れて船室の扉を開けた。そこには、色鮮やかな薄布を頭から被った女が十人ほど、固まって座っていた。
「これは?」
「大王に友好の証として贈る奴婢でございます」
武官のすぐ後ろについていた嵐が答えた。
「あー、選りすぐりの奴婢ゆえ、お手を触れないでいただきたい!」
嵐の威圧的な声にびくりとして頷くと、武官は階下へと続く階に目を向けた。
「こ、この下には何が?」
「このすぐ下では
「お前たち、下を見て参れ。わしは船に戻っているから、戻り次第報告せよ」
「は!」
兵士たちが階を下ってゆくのを確かめて、太った武官は踵を返した。
「ソナさま。伊那国の船が出航したら後に続いて下さい。瀬戸内は流れの急な海域です。行くも止まるも、全て伊那の船に従ってください。では、わしは船に戻ります」
伊那国の兵による
「出航だ!」
ソナの声に答えるように船側の櫓が動き出し、ゆっくりと船が進み始める。
「……すごいな」
静かに成り行きを見守っていたアカルは、感嘆の声を上げた。
志貴の宮へ向かう船がいたのは偶然だろうが、何もかもソナの言った通りに事が運んでいる。
ソナは自分の思惑通りに事が運んだことを当然だと思っているせいか、アカルの声など聞こえなかったように、じっと前を行く伊那の船を見つめている。
「どうかしたの?」
窺うようにアカルが見上げると、ソナは肩をすくめて首を振った。
「いや……船尾からこっちを見ている男がいるだろ? どこかで見た気がするんだけど、思い出せないんだよ」
そう言って、ソナは再び伊那の船に視線を戻す。
アカルも伊那船に目を向け、船尾に佇んでいる男の様子を窺った。
背の高い男だ。痩せているせいかもしれないが、全体的に細長く見える。身に着けている衣も、まわりの者たちに比べると異質な気がした。
「大陸の人?」
「たぶんね」
ソナは背の高い男を見つめたまま答えた。
「────ソナ、ちょっといいか?」
「なんだ?」
ソナは嵐の方へ向き直ると、アカルから離れていってしまった。
もう少し話を聞きたかったが邪魔する訳にもいかず、アカルは気分を変えるため、船室の様子を見に行くことにした。
船室では、奴婢役の巫女たちが変装用に被った薄布を陶酔したように眺めていた。普段は白い衣ばかり身に着けている彼女たちだ。異国の色鮮やかな色彩は衝撃だったのだろう。
「みんな、よく似合ってるよ」
揶揄い半分に声を掛けると、巫女たちは頬を染め、あたふたと布を折りたたみ始めた。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
「いえ、もう十分堪能致しました。そうそう、志貴の宮へ入る時には、朱瑠さまにも変装して頂かねばなりませんね」
小波は目を細めてフッと怖い笑みを浮かべた。
〇 〇
その夜は、伊那の船に先導されるまま、小さな入り江に船を止めた。
浜には火が焚かれ、野営の準備が着々と進んでいる。
そんな夜の浜辺で、ソナは伊那船に乗っていた男に声を掛けられた。
「金海のソナ王子でいらっしゃいますか? 私は帯方郡の
長身痩躯の男は丁寧な挨拶をしたが、ソナの前に跪きはしなかった。
「ああ……どこかで会ったような気がしていたんだ。長青殿でしたか。確かあなたが筑紫に渡られる前、
「覚えていて下さいましたか。あの時のあなた様はまだ少年らしく、ヒオク王子と喧嘩をなさっておいででしたね」
一見和やかな会話に見えるが、微笑みを浮かべるソナに対し、長青はにこりともしない。別に怒っている訳ではなさそうだし、ソナを怪しんでいる訳でもなさそうだが、とにかく彼の顔からは全く感情が読み取れないのだ。
(鉄壁の無表情というのは、こういう男のことを言うのだな)
巫女たちと共に夕餉の支度をしながら、アカルはちらちらと長青の顔に目を向け、二人の会話に聞き耳を立てた。
「────ところで、長青殿はなぜ志貴の宮に? あなたも大王に謁見するのですか?」
ソナがにこやかに質問すると、長青はいいえと首を振る。
「……もちろん大王にお目通り出来ればとは思いますが、私が志貴の宮へ行くのは、日の巫女様にご挨拶するためですので」
長青の答えを聞いて、アカルはハッとした。
(あの人、十世の知り合いなのか。でも……十世がこの時期に、わざわざ志貴に人を呼ぶかな?)
長青はきっと十世が魔物と戦って負傷したことを知らないのだ。
彼女は魔物を封じた結界を維持するために、今も必死で力を注いでいる。恐らく、人と会う余裕などないはずだ。
(十世……彼はあんたの味方なの? それとも敵?)
暗い海を見つめながら、アカルは遠い志貴にいる十世を思った。
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