七 救いの手


 早朝の河地かわち湖畔は、薄い霧がかかっている。

 伊那いな国の船に乗船したアカルは、船縁から湖畔の里を眺めた。霧に煙る里は薄青色に染まっている。もの悲しい風景だ。


「アカル、どうかしたの?」


 いつの間にかソナが隣に立っていた。

 アカルたちは昨夜この河口の里の入り江で一泊し、朝餉を終えてから伊那船に乗り込んだ。今日はここから川を遡上する。大型のガウロス船では川を上れないので、数人の乗組員を船に残し、アカルたちは伊那船に移った。


「何でもないよ。昨日は暗くてよく分からなかったけど、この河口の里は新しい家屋が多いなと思っただけ」

「ふぅん。神妙な顔をしてるから、タカヤのことでも考えてるのかと思ったよ」


 ソナは安心したのか、笑みを浮かべて揶揄ってくる。

 アカルがジロリと睨んでもニヤニヤ笑いを引っ込めない。


「この青絹、アカルによく似合ってる」


 アカルが身に纏う青い薄絹を、ソナは撫でるように掬い上げて恭しく口づけた。

 伊那船に乗せてもらうことになったので、アカルも他の巫女たちと同じように異国の美しい絹を頭から覆っている。中に着ているのはいつもの上衣と長袴だが、この薄絹を頭から被っているだけでたおやかな女人に見えるから不思議だ。


「……なんか軽薄だな。ソナはいつもそうやって女の人を口説くの?」


 アカルは顔をしかめた。

 好きな女が何人もいると言ったソナの、異国での様子が目に浮かぶ。


「嫌だなぁ。俺、嘘は言ってないのに」


 ソナは悪びれる様子もなく、にっこりと笑う。


 アカルとソナが不毛な会話を交わしているうちに、伊那船は河口から川を遡上し始めた。みるみるうちに遠ざかってゆく河口の里。その不自然に真新しい家屋や、草に覆われた土手に、アカルは再び目を向けた。

 この里に起きた悲劇の残滓と、それを弔う祈りの痕跡がまだ残っている。


十世とよ宵芽よいめの気配だ……)


 彼女たちがここを通ったことに勇気づけられ、アカルも船の上から祈りを捧げた。



 太陽が中天にさしかかった頃、船は大きな池に入った。川の流れを遡るのに時間がかかったが、この先は穏やかに進めそうだ。


「ソナさま」


 長身瘦躯の男、長青ちょうせいが大股で近づいてきた。


「あと一時もすれば志貴しきに着くようです。私は、美和山にある神殿に向かうつもりです」


 まるで別れの挨拶のように話しかけて来た長青を見て、アカルは黙っていられなくなった。彼が美和山へ行っても十世を煩わせるだけだ。


「巫女の神殿には、禁足地となっている場所が多いと聞きます。そこは大丈夫なのですか? まずは志貴の宮へ行き、使いを出された方が良い気がしますが」


 ソナの後ろから顔を出し、アカルはそう忠告した。

 すると、長青の無表情な顔にわずかな逡巡の色が浮かんだ。


「なるほど、確かにそうですね。あなたは美和山へ行かれたことがあるのですか?」

「いいえ。ですが、他の巫女宮には行ったことがあります。あなたは、日の巫女さまに会ってどんな話をされるのですか?」


 踏み込み過ぎかも知れないと思ったが、長青が十世に会いに行くと知った時から、アカルはその理由が知りたかった。もしも、十世を煩わせるだけの用事ならば、悪いが遠慮してもらいたい。

 そんなアカルの意図を察したのか、長青は口端に薄い笑みを浮かべた。酷薄にも見えるその笑みに、わずかに混じる悲哀。アカルは彼の笑みに心を揺さぶられた。


「私は……あの方が心配なのです。志貴の宮にいる大王おおきみさまには、良くない噂が絶えない。あの方が都萬つま国におられる時にはそれほど気にはなりませんでしたが、志貴へ呼び寄せられたと聞いた時から、嫌な予感がして心が落ち着かないのですよ」


 無表情な男の口から、まるで恋人を心配するような言葉が紡がれてゆく。

 アカルは不思議でならなかった。違和感はめちゃくちゃあるのに、彼の言葉に嘘偽りは感じない。


(初めて会う男なのに、不思議だな……)


 彼の想いは本物だ。

 ならば、今この時、彼が十世に会いに行くのは運命なのかも知れない。


「それなら尚更、使いを出した方が良いですよ。そうだ。もしも日の巫女さまにお会い出来たら、こう伝えてくれませんか? 救いの手はある、と」


「ほぅ?」

 長青は細い目を見開いた。

「あなたのお名前を聞いてもよろしいですか?」


「アカルと申します。無事に日の巫女さまにお会いできるよう、お祈りしています」


 十世に伝言が届くことを祈りながら、アカルはゆっくりと頭を下げた。



 〇     〇



 謁見の間から追い出された十世は、護衛の武官に連れられて、控えの間へ戻されていた。部屋の中で待っていた二人の巫女が、心配そうな顔で十世を見つめている。


依利比古いりひこさまは、考える時間が欲しいそうよ」


 十世は内心の憤りを押さえてそう言った。

 本当はこの僅かな時間さえ惜しいが、今の依利比古は八洲の大王だ。彼を守る護衛はたくさんいる。十世がここを抜け出したとしても、彼の前までたどり着けはしないだろう。


(この控えの間の扉にも、見張りがいるみたいだしね)


 十世は、閉ざされた木の扉を横目で睨んでから、ツンとそっぽを向いた。

 その時────。


「日の巫女さま。お目通りしたいと言う者が参っておりますが、如何いたしましょう?」


 扉の向こうから声がした。先ほど十世を無理やりここへ連れ戻した武官の声だ。


「目通り? 誰なの?」

「帯方郡の武官、長青と名乗っております」

「えっ……」


 十世は目を瞠った。


(何故、長青がここに?)


 考えられるのは一つしかない。都萬つま国に何事か起こったのだ。


「すぐに通しなさい!」


 十世が答えると、ややあって静かに扉が開いた。

 扉を開ける武官の後ろに、深緑色の長衣を着た背の高い男が立っていた。いつも通りの無表情な顔。その冷たい色を宿した細い目が、一瞬だけ驚いたように瞬いた。


「……都萬国に、何かあったのね? だからあなたが来たのでしょう?」


 十世は勢いよく長青の方へ一歩踏み出した。自由のきく左手を伸ばし、彼の胸倉をつかもうとした────が、十世の手は長青の大きな手に取られてしまった。


「お久しぶりでございます。日の巫女さま」


 長青は十世の手を押し頂きながらその場に跪いた。伏せていた顔をゆっくりと上げ、その細く鋭い目で十世を見上げた。

 彼の体から放たれる無言の圧力に、十世は思わず口ごもってしまう。


「ところで、そのお手はどうされたのですか?」


 十世の問いかけなど聞こえなかったように、長青は十世の右手に目を向けた。白布で包まれた右手は、肩から帯布で吊るされている。


「あ、あなたには関係のない事です。手を放しなさい!」


 強く掴まれている訳ではないのに、長青の手の中から指先が引き抜けない。


「あなた様がその布に覆われたお手の訳を教えてくださるまで、離しません。いつまでも立っていないで、お座りになったら如何ですか? お茶でも頂きながらゆっくり話しましょう。着いたばかりで喉が渇いているのです」


 言葉遣いや慇懃な態度は、都萬国で幾度となく交渉していた時の長青と変わらない。けれど、触れ合った指先からは、有無を言わさぬ覇気のようなものが伝わって来る。


「くっ……あなたたち、悪いけど、炊屋かしきやへ行ってお茶を頂いて来てちょうだい」

「はい」


 二人の巫女は慌てふためきながら、控えの間を出て行く。その姿を目で追う十世は、彼女たちと一緒に今すぐこの場から逃げ出したい気分だった。


「さて、先ほどのご質問ですが、私が日の巫女さまに会いに来たのは、志貴の宮へお移りになったあなた様が心配だったからです。都萬国には何も起きておりませんのでご安心下さい」


「……私が心配?」


 十世は眉をひそめて長青を見返した。彼の無表情な顔からは、相変わらず感情を読み取ることが出来ない。


「はい。あなた様の使鬼しきから、大王の都へ呼び寄せられたとの連絡を受けた時、私は戦慄しました。筑紫にいる私の元へは、依利比古さまの良くない噂ばかり聞こえて来るのです。帯方郡の武官としてではなく、私個人が、あなた様の身を案じてここまで参りました────案の定、あなた様は怪我を負われていた。ここで何があったのか、私に全てお話し下さい」


 十世の左手は、今は長青の両手に包まれている。その大きな手の乾いた感触と温もりに、十世は居心地の悪さを感じていた。


「か、炊屋で……火傷をしたのよ。慣れない事はするものじゃないわね」


 十世が偽りを口にした途端、長青の手が伸びた。

 彼はほんの一瞬で、白布に覆われた十世の右手を暴き出した。あまりの早業に、十世は声を上げることも出来なかった。

 だらりと垂れ下がった黒い右手は、長青の手の中に納まっている。


「なっ……何をするの!」


 我に返った十世は、長青の手から自分の右手を取り戻し、左手で隠すように胸の前に掻き抱いた。


「やはり、ただの怪我ではありませんね」


 氷のような目で見つめられ、ゾクリと背筋が冷えた。

 ヒオク王子の傍にいる長青には、出来るだけ魔物の事は伏せておきたかった。八真都やまとで起きたことは、依利比古の醜聞となりかねないからだ。しかし、この手を見られてしまっては、もはや誤魔化すことは出来ない。

 十世は覚悟を決めて、ツンと長青から視線を逸らせた。


「魔物を退治しようとして失敗したのです。そういう訳で、私はあなたと話をしている暇は無いのです。さっさと────」


 言い終わらないうちに十世の視界が陰った。

 目の前にあるのが深緑色の衣だと気がついた瞬間、優しく抱き寄せられた。

 人の温もりと焚き染めた香の香りに呆然とする。自分が長青に抱きしめられているのだと気づいたのは、数舜あとのことだった。


「……長青?」


「大王のとがを、何故あなた様が受けねばならぬのです。もういいでしょう? 依利比古さまから離れなさい。私と一緒に筑紫へ帰りましょう」


 耳元で囁く低い声に体が震えた。考えの読めない長青を恐ろしいと思うのに、不思議な安心感に身を委ねてしまいそうになる。

 十世は体の力を抜こうとしている自分に気づき、ハッと我に返った。長青の胸を押し返そうとしたが、腕が動かせない。


「筑紫へなど……帰れる訳がない。いい加減に放してちょうだい!」


「嫌です。闇の傷を負っても、あなた様は大王から離れようとしない。そんな方を、一時でも自由に出来るとお思いですか? ああ……本当に、あの娘の助言に従って良かった。もしも美和山へ向かっていたら、行き違いになっていたかも知れない────そうだ、あなた様に伝言を頼まれていたのです」


「伝言?」


「河地湖から、金海の王子の一行と同じ船に乗り合わせたのです。おかしな気配の娘に、あなた様への伝言を頼まれました。救いの手はある、と伝えて欲しいと。その娘はアカルと名のって────」


「朱瑠ですって?」


 十世は勢いよく長青の顔を見上げた。

 彼の衣をつかみ、噛みつきそうな勢いで口を開く。


「朱瑠は? どこにいるの?」


「ソナ王子と一緒に、大王に謁見している筈です────」


  

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