二 身の処し方
「姫比を平定した後は、西の
「ははっ」
一斉に答えた各国の将たちが、自国の兵に命令を伝えるために散ってゆく。王の間に残ったのは、彼の副官一人だけだった。
「食料倉庫には、まだ多少の米が残っていました。夜陰に乗じて逃げた奴らは、米を持ってゆく余裕はなかったようですね」
「ああ。それに、よくぞこの阿知宮に火をかけないでくれたものだ。お陰でこの美しい宮でゆっくり姫比平定の作戦を練ることが出来る」
勇芹は上機嫌だった。
姫比は美しい国だ。この阿知宮も、都萬国にはない美しさがある。
客として滞在していた時は、王族の住まう北宮には立ち入ることすら出来なかったが、今はその北宮の、かつて王の居室であった宮を使っている。ほかの主だった将たちも北宮を使っているが、みな満足している様子だ。
ただ一つ不満を上げるとするなら、飯が不味いことだ。
女官はもちろん
毎日王の間に座り、各地からの報告を待ちながら、勇芹は食事の改善に頭を悩ませていた。
「いっそ、近くの集落から女手を借りるか?」
ぽつりとつぶやくと、副官が言い辛そうに切り出した。
「勇芹さま。探索に出た兵の報告では、この周囲の里はすべて無人だったそうです。今は少し離れた里まで探索の兵を差し向けておりますが……」
副官の言葉に、勇芹は眉をひそめた。
「ふむ。
「それも探索しておりますが、最後まで阿知宮に籠城していた騎馬隊の行方も、未だわかっておりません」
「はーっ、まったく忌々しい奴らだな。この期に及んで、まだ我らと戦う気なのか?」
勇芹は呆れたようにため息をついた。戦力の違いを見せつけられただけでなく、城を奪われたのに、姫比王は未だに降伏しない。
「まぁ、いくら戦ったところで、姫比の軍など我らの敵ではありません。勇芹さまが王になられるまで、あと僅かです。せいぜい相手をしてやりましょう」
「うむ。そうだな」
さっきまで舌打ちしていた勇芹は、副官の言葉に
阿知宮に拠点を移してから、毎日が平和だった。
姫比兵がどこかへ消えたお陰で、勇芹の仕事は毎日王の間に座り、探索に出た兵の報告を聞く事だけになった。平和過ぎて正直退屈でもある。いっそ自分も探索に出ようかと考えたが、やがて王となる御身ですと副官に止められた。
そんなある日の午後。
遠くで雷鳴がした────空がにわかにかき曇り、夕暮れ時のような薄闇が広がった。轟くような雷鳴が聞こえはじめると、やがて音を立てて大粒の雨が降り出した。
「降って来たな。ないとは思うが、奇襲を警戒しておけ」
「はっ」
副官が一礼をして王の間を出て行く。残された勇芹は、突き出し窓に歩み寄り、雨の庭園を眺めた。
見る見るうちに雨は激しくなり、庭園の景色はもはや見えない。こんな時に奇襲されれば兵は浮足立つものだが、この豪雨では敵も攻め辛いだろう。何より矢が飛ばない。勇芹は窓辺に佇んだまま、奇襲された場合の対処法などを考えていた。
副官の帰りが遅いことに気がついたのは、ずいぶん後の事だった。
「指示を出すだけで、何をぐずぐずしておるのだ?」
訝しく思って扉の方に向き直った時、副官が飛び込んで来た。
「勇芹さま!」
「どうした、奇襲か?」
「いえ、奇襲ではありません。姫比津彦がっ……姫比津彦が単騎で北門に現れ、勇芹さまにお会いしたいと!」
「何だと?」
勇芹はしばし頭が働かなかった。いったい何故、姫比津彦は現れたのだろう。しかも一人で。
(まさかこの私に、大王にとりなしてくれと頼むのではなかろうな? それとも、己の命と引き換えに、民の命乞いか?)
いつも礼儀正しい姫比津彦のこと、予想出来るのはそれくらいだった。
「良い。会ってやろう。武器を取り上げて連れて来い。いや、私が行こう」
王の間で待つのは飽き飽きしていた。せっかく北門に現れたのだ。姫比津彦には、かつて王族の住まいであった北宮の現況を見せつけてやりたい。
勇芹は大股で雨の回廊を歩きだした。
北宮を通り過ぎ、北の楼門まで行くと、ずぶ濡れの男が兵に囲まれて立っていた。編み笠も被らずに来たのだろう。濡れた髪が顔に張り付いている。そのせいだろうか、勇芹は僅かな違和感を覚えた。姫比津彦にいつもの柔らかい雰囲気は無く、皮肉そうに歪めた目で周りを見回している。
「これは姫比津彦さま。お一人でここまでいらしたのですか? 私に何の御用でしょう?」
わざとへりくだって尋ねると、彼は僅かに首を傾げた。
「大王の軍の責任者とは、お前の事か?」
「私に会いたいと聞きましたが……ご存知ではなかったのですか? 大王より、姫比攻めと同時に西の将君の名を賜りました」
「名は?」
「‥……勇芹、ですが」
名を名乗りながら、勇芹の違和感は増していった。姫比津彦が勇芹の名を知らぬ筈はない。なのにわざわざ訊くのは、自分を怒らせようとしているのだろうか。いっそ高圧的に出て見るかと考えた時、じっとこちらを見つめていた姫比津彦が口を開いた。
「ふぅん。お前は、冬至の祝いには来ていなかったな。まぁ、それもどうでもいいか。言っておくが、私は姫比津彦ではない。あの男に捕らえられ、今まで幽閉されていたんだ。私が真の姫比王、
目を瞠った勇芹の頭に、いつぞやの依利比古の言葉が蘇った────姫比津彦は本当に宇良王子なのか?────姫比に滞在中、彼から何度もその言葉を聞いていた。勇芹の目の前に、まさにそれを証明する男がいる。
雷に打たれたように慄いたまま、勇芹は体を硬直させた。
○ ○
大王の兵たちが驚きに打たれる様を見て、宇良は嗤った。
ふと、
好きにしろ────と、彼が言ったから好きにしたのだ。
身一つで焔の城を出て、生まれ育った阿知宮へ戻った。
同じ死ぬのなら、焔の城より阿知宮がいい。宇良の願いは、ただそれだけだった。
「────では、宇良さまは、今までずっと幽閉されていたのですか? 一体どこに?」
ようやく金縛りが解けたらしい勇芹が、尋ねてきた。
「山の中だ。姫比で開かれた冬至の祝いが終わり、依利比古さまが都萬国へお帰りになってすぐ、私は姫比津彦に捕らえられた。気がついたら山の中の地下牢に閉じ込められていた」
「それでは……あなたは二年もの間、幽閉されていたのですか? 何ともおいたわしい。いや、しかし、どうやって逃げて来られたのです?」
「進退窮まった姫比津彦が、私を解き放った。きっと、私がどこへ逃げたところで、命はないと思ったのだろうな────むろん、私とて馬鹿ではない。この願いが簡単に聞き届けられるとは思っていない。早く言え。依利比古さまにとりなしてくれるのか、それともここで殺すのか?」
宇良が言い放つと、大王の兵たちは再び騒めきだした。
その騒めきを制するように手を上げて、勇芹が口を開いた。
「これは……さすがに、私の手に余る。依利比古さまの判断を仰ぐまでは、御身をここで預かりましょう。例えその結果、あなたの命がそれまでだとしても……」
「よしなに」
宇良は唇を歪ませて、卑屈な笑みを浮かべた。
「急いで着替えを用意させよう。このままでは風邪をひく」
「……私の宮は、いま誰が使っている? お前か? まぁお前たちより前に、私の衣などは姫比津彦が片付けただろうが……まぁいい。姫比津彦の物が残っていないか見せてもらう」
勇芹を無視して、宇良は北宮の高殿に向かって歩き出した。
「ちょ、勝手に動いては困ります!」
副官の叫びも、宇良の耳には届かない。
真っ直ぐ中央の高殿へ向かい、階を上ってゆく。しかし、さすがに勝手に入ることには躊躇したのか、彼は扉の前で立ち止まった。
「ここは、お前が使っているのか、勇芹?」
宇良は扉の前で振り返ると、胸の前で腕を組み、勇芹が上って来るのを待った。
「そうだ。今は私が使っている」
不満げに宇良を睨みながら、勇芹が階を上る。副官や他の兵たちは、彼らのやり取りに遠慮して、階の中ほどに留まっている。
「中に入っても構わないか?」
「姫比津彦の衣など、ありはしません」
勇芹が宇良の前で立ち止まる。
いかにも武人らしい大柄な男を、宇良は見上げた。彼の大きな体は、後ろにいる兵たちの目から宇良を覆い隠すほどだ。
自然と口端が大きく吊り上がり、宇良は愉悦の表情を浮かべた。
「……衣など、どうでも良いわ!」
腕組みを解きながら、宇良は一瞬で勇芹の胸を衝いた。革の短甲すら身に着けていない勇芹は、隙だらけだった。
「勝者の驕りか? 油断のし過ぎだぞ!」
宇良が離れると、勇芹は呆然と自分の体を見下ろした。胸に、銀の短刀が突き刺さっている
「勇芹さま!」
一瞬遅れて、副官が動いた。血を吐きながらガクンと膝をついた勇芹の体を、必死に支えている。
さらに遅れて、兵の刃が宇良に迫った。
「見たか姫比津彦! 私はやったぞ! 勇芹を倒したぞ! ははははははははっ!」
高らかに勝利の声を上げた宇良の体に、兵士たちの剣が突き刺さった。
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