第十章 大八洲
●真秀●
一 霊木の枝
早朝から、抜けるような青空が広がっている。
空を映すほど静かな
「えっ、あれがソナの船なの?」
船を見上げて、アカルは息を呑んだ。
たくさんの船の中でもすぐに見つけられるほど、その船は八洲や
強烈な異彩を放つその船から、アカルはしばらく目が離せなかった。
「船出した時は、
「そうだけど。思っていたよりも商売が上手くいったからさ、カナンの商人から譲り受けたんだ。ガウロス船ていうんだよ。惚れ惚れするだろ?」
どうだと言わんばかりに、ソナは船に向かって腕を振り上げた。
ガウロス船は、甲板の下に
「きれいな船だね」
「だろ?」
ソナは自慢の船を褒められてご満悦だ。
「
「與呂伎までじゃない。
「でも……それだと、穴戸海門を通って行くんだよね? 遠回りじゃない? 乗せてもらう身で何だけど、なるべく急いで欲しいんだ」
ソナの気持ちは有難いが、西の穴戸海門まで行ってから東へ戻るのは、どう考えても遠回りだ。
「俺の船の速さを知らないな? それに、行くのはアカルだけじゃないだろ? 俺の船なら多少人が増えても大丈夫だよ」
得意げに胸を反らすソナを見て、アカルは顔をしかめた。
昨日、鷹弥と入れ違いに、
『大巫女様より、朱瑠さまが志貴へ向かうと伺い、急ぎ参りました。私たちも同行させて頂きます。微力を尽くし、朱瑠さまの手伝いをさせていただく所存です』
西伯の大巫女には、かつて命を救われた。今回も、魔物との戦いに助力してくれるつもりなのだろう。
その気持ちは嬉しかったが、アカルはその申し出を断った。
いくら巫女でも、魔物の事をよくわかっていない者を連れては行けない。彼女たちを危険に晒すだけだからだ。
「志貴の宮がどんな状況か、彼女たちはわかってないんだ。人を喰らう化け物がいるのに……こっちは戦う方法すら見つかってないんだ!」
アカルだって自分の身を守れる訳じゃない。それでも行くのは、自分には
僅かな間に
過去視で見た蛇は、人を喰らうたびに大きくなっていた。あれが
簡単に斃せる相手ではない。だからこそ、連れて行けない。
特に小波は駄目だ。彼女はどういう訳か、盲目的にアカルを崇めている。アカルを庇って自らの命を差し出しかねない────。
兼谷の死をようやく受け入れたのに、小波にそんなことをされたら、自分は二度と立ち直れないだろう。アカルはもう、誰かが自分の為に死ぬのは絶対に嫌なのだ。
「でもさ、彼女たちは納得してなかっただろ?」
ソナの言う通り、アカルが同行を断っても、小波は素直に聞き入れてはくれなかった。何と言われてもついて行くと言い張り、今は智至の巫女宮に挨拶に行っている。
俯いたままのアカルに、ソナが屈んで目線を合わせてきた。
「本当にわかってないのかな? 俺は巫女じゃないからよくわからないけど、大変なことが起きているからこそ一緒に行きたいんじゃないのか? アカルこそ、彼女たちを
ソナの視線を追って振り返ると、白装束の一団が港に向かって来るのが見えた。先頭を歩いているのは小波だ。
「ほら、みんな行く気満々だよ。俺の船ならあれくらい乗れるから安心して。陸路はあちこちに大王の軍隊がいるらしいけど、俺の船なら絶対に邪魔されない。それどころか、金海の王子が大王に謁見しに来たと言えば先導してもらえるかもよ」
権力は有効的に使わないとね、とソナは得意げに笑う。
アカルは複雑な心境のまま、巫女たちが来るのを待った。ソナのせいで、心に迷いが生じている。
「朱瑠さま。西伯の巫女五名に智至の巫女五名。志貴の宮までお供いたします。何度断られても、絶対について行きますからね!」
けんか腰の小波に、アカルはため息をついた。
「……一応、それぞれの目的を聞いておこうか? 志貴の宮へ行く目的はなに?」
アカルが試すように巫女たちを見回すと、智至の巫女から一人が進み出た。年かさの、たぶん巫女頭だろう。
「それぞれ、と言われたが、我らの思いは一つじゃ。
真っ直ぐアカルを見つめる巫女たちの目には気迫が漲っていた。その迫力に圧倒された。
ソナの言う通り、自分は彼女たちを見縊っていたのかも知れない。
彼女たちにも、巫女としての使命がある。そんな事にも気づかず、自分たちだけが魔物の事をよく知り、その存在に憂いているのだと思い込んでいた。自分の勝手な想いまで彼女たちに押しつけた。
アカルには、彼女たちを拒否する資格などないのに────。
「異論はない」
アカルは肩をすくめると、背負っていた荷を下ろして布に包んだ霊木を取り出した。
「これは
アカルは霊木の細い一枝を、腰に帯びていた
「それだけで、よろしいのですか?」
霊木を受け取りながら、小波が戸惑っている。
「これだけで十分だ。みんなわかってるだろうけど、志貴へ行くのに必要なのは死ぬ覚悟じゃない。何があっても生き残る覚悟だ。出来る限り、自分を守る準備をして欲しい」
「わかりました」
こうして、巫女たちを乗せたガウロス船は、智至の港を出航した。
船は内海を出て、そのまま西へと向かっている。大きな帆は東からの風を受けて、海の上を滑るように進んでゆく。
アカルは少し高くなった船尾から、広がる青い海を見つめていた。すぐ隣には、舵を握るソナがいる。
舳先に近い甲板では、日よけの編み笠を被った巫女たちが、各々に霊木の枝と向き合っている。
アカルの手元にある霊木はまだ枝のままだが、作るものは決めていた。剣でも小刀でもなく、削り花を長く伸ばしたような
(
アカルは青い海を見つめながら、過去視で見た小さな
泡間にいた矢速はとても淋しそうだった。両親との関係に傷ついた彼は、自分の居場所を求めて泡間へ飛ぶことを覚えたのかも知れない。
友と呼べるのはあの灰色の小蛇だけ。きっと泡間の
そう思うと胸が痛んだ。
あの場所が泡間ではなく、ただの森ならば良かった。餌を与えたのがただの小蛇だったなら、その後の悲劇は起こらなかっただろう。
彼の中に潜んでいた無自覚の異能が、不幸の発端だったのかも知れない。
餌を取りに戻った矢速を追って、暗御神はこちらの世にやって来た。
アカルはその先を視ることは出来なかったが、霊剣
(矢速は……父親に殺されたのだろうか?)
かつて
(……
伝説の通り、矢速を殺したのが彼の父親なら、それは
(
遥か前の世で、彼の異母兄弟だった矢速の死を────。
矢速の存在を知った今なら、彼を救いたいという気持ちで戦いに臨める気がした。
アカルは胡坐に座りなおすと、懐から鷹弥の小刀を取り出し、蔦模様が彫られた鞘を丁寧に引き抜いた。
丹念に研がれたであろう石の刀身は、滑らかな光沢を放っている。
(鷹弥。使わせてもらうね)
アカルは口元に笑みを浮かべ、霊木の小枝を削りはじめた。
一削り一削り、霊力を込める。
大地の女神の宿り木は、驚くほどアカルの霊力を吸い込んでゆく。
恐らく、この霊木に毎日倒れるほど霊力を注ぎ込んでも、簪を完成させるには何日もかかるだろう。
幸い、ここは船の上だ。霊力を使い果たして倒れたところで、目的地までは船が運んでくれる。この上なく理想的な旅だ。
(ソナに、感謝しなくちゃな)
アカルは微笑みを浮かべて、舵を握るソナと、その背後にある青い海原を見つめた。
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