八 恋情
瀬戸内の覇者であり続けた
姫比津彦が国中を広く見渡し様々に差配する一方、
農作業が忙しい春の時期、農村から人手を集めるのは難しい。しかし、戦が始まってしまえば、農民も家族や田畑を守るために戦わねばならない。準備しないより、しておいた方が良いのだ。
「休憩!」
黒森の声が響くと、鷹弥は井戸へ行き、頭から水を被った。汗だくの体に、水の冷たさが心地よい。朝晩はまだ寒いが、日中は汗をかくほどの温かさだ。
「何も、鷹弥さまが相手をする必要はないのですよ」
手拭いを差し出しながら、黒森が困ったような顔をする。鷹弥は姫比の武人と一緒になって、このところずっと新兵の相手をしているのだ。
「いいんだ。動かないと体が鈍るからな」
「なら良いのですが……今のあなたを見ていると、時々不安になる。姫比津彦さまじゃないが、死に急いだりしないでくださいよ」
「あたりまえだ。死んだら姫比を守れないだろう」
鷹弥は呆れたようにそう言って、顔と頭を拭いた手拭いを乱暴に投げ返した。
黒森が心配しているのは、先日の軍議での会話だ。
────もしも
『鷹弥はまるで、死に急いでいるようだね』と。
実際、
『────そなたがいなくても、結果は同じだったろう』
姫比津彦の答えは淡々としたものだった。
『そなたはきっと、ただ消えたかっただけなのだろう? 重傷を負ったあの娘を、助けてやることが出来なかった。そんな自分が情けなくて、娘の前から消えてしまいたかったのだ。かつての罪を言い訳にしてな────』
そう言われた時、鷹弥は呆然とした。それほど姫比津彦の言葉は衝撃的だった。
確かにあの時、血まみれのアカルを見て頭が真っ白になった。自分でも情けないほど動揺した。もしも
『そなたは、良くも悪くも王子様なのだ。大切な人にとって、頼りになる男でいたい。かっこいい王子様。それが鷹弥、そなただ』
違う、と即座に否定しようとした。
そんな簡単なことではないのだと、言い返したかった。
しかし、鷹弥は姫比津彦の言葉を否定することが出来なかった。彼の言葉が、不思議なほど腑に落ちて、深い深い場所から掬い上げてもらったような気がしたのだ。
だからこそ、酒浸りの日々から抜け出せたのだと思う。
もちろん、自分のした事が許されるとは思わない。あの時の鷹弥は確かに子供だったけれど、八神の里を滅ぼした側に加担していたのは事実なのだ────ただ、いつかアカルの前に立ち、真実を話して謝罪することくらいは許されるような気がした。
「────兄さま」
木陰に腰を下ろした鷹弥の傍に、若い娘が歩み寄った。農民のように足首の見える衣を着ているが、布は上質だ。
美しい娘の登場に、兵たちの間からさざめきが起こった。
「
鷹弥は目を疑った。
「何故ここに?」
「
「は?」
余計な事を、と鷹弥は口の中で呟いた。
「俺のことなら心配はいらない。それより、万が一の時はここよりも西へ逃げろ。大王の軍だって、兵の略奪行為は止められないだろう」
「大丈夫です。富谷の里のことは心配いりません。それよりも、私が心配なのは兄さまの方です」
美咲はそう言って、鷹弥の横に座り込んだ。そして、母親とよく似た目でじっと彼を見据えた。
「朱瑠さんとのことは、姫比津彦さまから全部聞きました。兄さまが、朱瑠さんの前に立てないという気持ちも、わからなくはありません。でも、本当にそれで良いのですか? 朱瑠さんの許しを請わずに勝手に諦めて、このまま自分の気持ちを押し殺して生きていくつもりですか? それじゃあ、朱瑠さんの本当の仇である
厳しい口調でピシャリと言い放つ。
鷹弥は唖然として美咲を見つめ返した。あの儚げな妹は何処へ消えたのだろう。そう思った時、ふと、彼女の腹部に目が止まった。立っていた時は気づかなかったが、座るとやや腹がせり出しているのがわかる。
「腹に、子がいます」
鷹弥の視線に気づき、美咲は頬を染めながらそう答えた。
「そうか。幸せそうで安心した」
美咲の髪に手を伸ばすと、その手に美咲の手が重なった。
「兄さまも、幸せになって下さい」
「俺は大丈夫だ。お前は自分のことだけ心配しろ」
「そう思うなら、早く私を安心させてください。姫比津彦さまはこう仰っておられました────鷹弥が朱瑠に求婚しないのなら、姫比に平和が戻り次第、私が
「なっ……」
鷹弥は絶句した。取り澄ました姫比津彦の顔が頭に浮かぶ。
「姫比津彦さまは、朱瑠さんに頬を打たれて心を入れ替えたと仰っていました。あの方は、お顔こそ宇良と瓜二つですが、とても聡明な方です。兄さまを奮起させるための戯れかも知れませんが、もしも本気だったら……」
心配そうに顔を歪ませている。
そんな美咲の肩にそっと手を添え、鷹弥は立ちあがった。
「姫比津彦と話して来る。お前は哲多の所へ行ってやれ」
ぐるぐると渦巻く想いを胸に抱えたまま、鷹弥は阿知宮の南、王の間へと急いだ。
姫比津彦の狙いは、恐らく美咲の言う通りだろう。いつまでも鷹弥がぐだぐだ悩んでいては、戦になっても使い物にならない。それでは困ると、あんな嘘を言ったのだろう。
わかっているのに、胸の中のもやもやは消えない。
この想いの正体を鷹弥は知っている────嫉妬だ。
アカルと姫比津彦がどこで出会い、どんな言葉を交わしたのか、鷹弥は知らない。
「姫比津彦!」
護衛が守る扉をくぐり、王の間に入る。呼びかけると、姫比津彦は広げた地図から顔を上げて、鷹弥を見上げた。口元にフッと笑みがこぼれる。
「美咲姫から聞いたか?」
「俺を煽るな! 俺が戦で使い物になるか心配なら、安心しろ。五人分は働いてやる」
姫比の地図を広げた文机の上に、鷹弥はバンと両手をついた。訓練後に水を浴びた髪からは水滴が滴り、衣も乱れている。
すっかり余裕を失くした鷹弥の姿を見て、姫比津彦はとうとう吹き出した。
「くっくっ……確かに、そなたを煽るのも狙いのひとつではあったが、私は本気だよ。そなたがいらないと言うのなら、私が朱瑠を貰う。周りから妃を貰えとうるさく言われて、本当に困っているんだ。長い神殿暮らしのせいか、生憎、女官に手を出す気にもなれなくてね。朱瑠なら喜んで迎えるが、そなたがはっきりしてくれないと、私も行動出来ないんだ。もちろん、全ては国が落ち着いてからの話だがな」
冷静な顔に口元だけ笑みを浮かべて、姫比津彦はさらに鷹弥を煽る。
彼の真意が何なのかはわかっているはずなのに、カッと熱くなった胸は自分でも抑えが効かなくなっていた。
「アカルには手を出すな! あいつは俺の────」
「そなたの、何だ?」
「……大切な……人だ」
答えた途端、想いが溢れた。
川底から助けた小さな女の子。
幼い頃はよく熱を出し、寝込んでいることが多かったが、元気になると四六時中鷹弥について回り、危険な狩場まで来ることもあった。
嬉しく思う反面、面倒臭いと思うこともあった。しかし、周りに心を閉ざした鷹弥にとって、アカルと一緒にいる時だけが唯一くつろげる時間だった。
一緒にいるのが当たり前。岩の里で唯一の家族。鷹弥は、姫比にいる妹の代わりに、アカルに愛情を注いだ。
その気持ちが微妙に変化したのは、アカルが十四歳になった頃だった。岩の巫女の後継と噂されるアカルに、彼女と同年代の少年が纏わりつくようになったのだ。
あの時生まれた仄かな嫉妬。鷹弥が己の恋心を自覚するのに、それほど時間はかからなかった。
「────心は、決まったようだな」
姫比津彦の声には、まだ鷹弥を
「だが、そなたが臆病風に吹かれていつまでも行動しなければ、私が先に朱瑠を貰うよ。それだけは忘れないようにね」
言葉が出て来なくて、鷹弥はただ頷いた。
自分の情けなさ加減と、姫比津彦の懐の深さを改めて思い知る。
「お前を王にして、本当に良かったよ」
鷹弥が静かな面持ちで笑みを浮かべた時だった。
バン、と乱暴に扉が開かれた。
「姫比津彦さま! 東に
悲鳴のような伝令の報告に、鷹弥と姫比津彦ははっと顔を見合わせた。
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