九 開戦の狼煙
「
山頂の物見から、伝令兵が駆け込んでくる。
日々刻々と変化する
最初の狼煙が上がった後、針磨からの伝令兵が阿知宮に到着し、敵の勢いを生々しく語った。彼の報告によると、軍勢の規模はおそよ五千。それを纏める将は、西の
針磨が落ちたくらいだ。小さな里は抵抗する事すら出来ないだろう。
報告を聞く度に、姫比津彦の眉間には深い皺が刻まれてゆく。
「勇芹か……鷹弥は大丈夫だろうか?」
大王の軍が針磨を攻撃したとの一報が届いてから、姫比津彦は兵を三つに分けた。
第一隊は針磨へ向かう峠道へ。第二隊は穴海湾の入口へ。第三隊はこの阿知宮の警備に当てた。第一第二の両隊は姫比の精鋭部隊だが、第三隊のほとんどは農兵だ。精鋭部隊が大王軍を追い返せないのなら、阿知宮だけ守ったところで意味はない。
鷹弥には第二隊の指揮を任せた。
勇芹は海から来ると彼が言い、それを大巫女の
「頼むぞ、鷹弥」
〇 〇
「何重にも縄をかけろ! きつく結べ!」
穴海湾の水門に、大型船が何艘も横並びに渡された。船と船を縄で繋ぎ、それを両岸に固定する。火矢や体当たりで突破される可能性は高いが、鷹弥は竜船を穴海湾に入れたくはなかった。
「ここを通してしまえば、平城の阿知宮はすぐに落ちるぞ! 気を抜くな!」
兵を叱咤し、防衛線を敷く。この中に一艘でも入られたら、姫比津彦を
(……いや、それでは遅いな。万が一にも、姫比津彦を失う訳にはいかない)
鷹弥は狼煙の準備をさせると、水門の両側へ兵を分け、交代で休ませた。
船影が見えたのは、翌日の早朝だった。
「狼煙を上げろ!」
鷹弥の号令で、初夏の澄んだ青空に黒い煙が上がった。すぐ近くでは、黒森の指示が飛んでいる。
「火矢の準備だ! よく引き付けてから射ろ!」
増えてゆく船影の数に息を呑んだが、鷹弥は平静を装って矢筒から矢を引き抜いた。油を浸み込ませた布を巻きつけた矢に、火をつける。先頭の船めがけて火矢を射ると、それを合図に次々と火矢が放たれた。
波よけ板や床に刺さった火矢から、船体に火が移る。慌てた
鷹弥の
「あの船を止めろ!」
入れ替わりに先頭となった竜船に向けて、再び火矢が放たれる。しかし、後ろから別の船も次々と突出して来る。狙う的が増えると、たちまち船に届く火矢の数は分散されてしまう。
中には燃え移った火によって沈んだ船もあったが、鷹弥たち姫比の射手の目をかいくぐり、水門を塞ぐ横並びの船に体当たりする竜船があった。
その竜船の屋形の上には、男が立っていた。腕を振り上げ、大声で指揮する男の姿には見覚えがあった。背負った大弓は、勇芹のものに間違いない。雄徳山の砦で、アカルたちの乗った馬に矢を射た────あの男を殺した大弓だ。
「勇芹!」
鷹弥は普通の矢をつがえ、勇芹めがけて放った。
矢は鷹弥の狙い通りに飛んだ。間違いなく勇芹の胸に刺さるかと思われた時、おもむろに抜き放った勇芹の剣が、鷹弥の矢を真二つに薙ぎ払った。
〇 〇
「
穴海湾からの狼煙で、姫比津彦は追い立てられるように焔の城まで移動した。
あれから数日が経っている。前もって女官や巫女、先祖から受け継いだ宝や兵糧など、失いたくないものは全て運んでおいたが、まさか自分がここまで下がるとは正直思っていなかった。
「良くはありませぬな」
榊の眉間に刻まれた皺からも、戦況が
「この焔の城には結界が張ってあります。大王の軍が押寄せても、山で迷うだけでしょう」
大巫女は安心させるために言ったのだろうが、姫比津彦の苛立ちは増すばかりだ。王を守るのは当然の事だとしても、彼としては、その力で民を守って欲しいと思ってしまう。
「……少し、外に出てくる。戦況が変わったら知らせてくれ」
姫比津彦は護衛を連れて、一番大きな屋敷から出て行った。
かつて、謎の化け物により焔の一族が壊滅した後、姫比津彦は焔の残党を解体し、姫比の兵に組み入れた。その時改修されたこの焔の城は、今は臨時の王都と化している。
外へ出た姫比津彦が足を向けたのは、北の建物にある半地下の牢だった。改修に伴い小奇麗な座敷牢に生まれ変わったこの場所は、彼の双子の片割れである
彼を阿知宮から攫った時は、こんなに長く投獄し続けるとは思っていなかった。すぐにでも始末するつもりだった。しかし、姫比津彦は己の片割れを殺すことが出来なかった。
「宇良」
声を掛けると、格子戸に背を向けて座っていた男が、面倒臭そうにゆっくりと振り返った。
「元気そうだな」
「は、別に変わらぬ。姫比津彦殿こそ、私の代わりに王位を継いでご活躍じゃないか。ついでに姫比を窮地に立たせて、満足か?」
毒を含んだ笑みを浮かべる顔は、王子であった頃とは違い濃い髭に覆われている。
「不甲斐ないと思っているよ。姫比を守るつもりが、今や大王の軍に責められている」
姫比津彦は自嘲の笑みを浮かべた。
「万が一、姫比をとられたら、そなたはどうする? 私たちと共に落ち延びるか、それとも、大王の軍に降るか?」
そう問うと、宇良は肩を震わせてクックックっと笑った。そして手元にあった何かをつかみ上げると、それを姫比津彦めがけて投げつけた。格子にあたってバラバラと床に落ちたのは、竹の矢柄だった。中には茶色い羽のついたものも交じっている。
「この私に矢羽根つけなどさせておいて、戦に負けるつもりか? 情けないな。お前たちなどと一緒に落ち延びるくらいなら、
「依利比古が……使い道を失くしたそなたを受け入れると思うのか? 彼は、魔物を使って諸国の王を脅し、服従させてきた男だぞ!」
姫比津彦が怒りを露わにすると、宇良は心底可笑しそうに笑った。
「そう怒るな。冗談だ。私とて馬鹿ではない。ここに来てから、考える時間だけは有り余るほどあったからな。だが、身の振り方はもう少し考えさせてくれ」
「わかった……」
地下牢を出ると、強い日差しに目が眩んだ。
久しぶりに会った宇良は、不思議な落ち着きを身に着けていた。彼が今後、何を選び取るつもりなのか、姫比津彦にはわかったような気がした。
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