七 十世の覚悟


十世とよさま。志貴しきの宮から迎えが来ております。急ぎのようです」


 巫女頭にそう告げられた時、十世はすぐに、何が起きたのか悟っていた。

 十世は美和山へ来てから、殯家もがりやに住む幽体の長洲彦ながすひこと毎日話をした。彼は自分が殺されるまでの経緯と、尹古麻いこまで起きた変事の話をしてくれた。その変事は長洲彦のせいだとされていたが、彼は魔物から尹古麻を守るためにこの世に残ったと言っていた。

 変事は暗御神くらおかみの仕業だ。そして恐らく、尹古麻と同じようなことが志貴の宮でも起きているのだ。


「────わかりました。少し待つように伝えて下さい」


 巫女頭が去ると、十世は部屋にいた宵芽よいめ山吹やまぶきに準備を頼んで、日の巫女の正装に着替えた。白絹の上衣に深紅の裳。自分の力が先の日の巫女より劣るとしても、負けるわけにはいかない────志貴の宮を騒がせている暗御神は、十世自身が古い壺から解き放ってしまった魔物なのだ。


 あの時、醜い嫉妬心から壺を開けたことを、十世はずっと後悔していた。

 自分が壺を開けなければ、月弓の中の魔物が目覚めることはなかった。依利比古が悪夢を見なければ、霊剣を手に入れるためにヒオクを呼ぶこともなかっただろう。ヒオクが来なければ、アカルが刺されることはなかったのだ。すべての元凶は自分なのだ。


(私がこの手で、あの蛇神を斃さなければ……)


 十世は静かに決意を固め、宵芽と山吹だけを伴って、使者の待つ結界門へ向かった。



 志貴の宮に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 十世ひとりだけが、依利比古の待つ高殿の広間に通された。

 こんな時とは言え、胸が高鳴らないと言えば噓になる。ずっと恋焦がれた相手に、二年ぶりに再会するのだから。

 十世は必死に高鳴る胸を静めて、依利比古の前に平伏した。


「お久しぶりでございます。依利比古さま」


 がらんとした広間の中央で、十世は顔を上げた。

 目の前の高座に座る依利比古は、二年前と少しも変わらず、無表情に十世を見下ろしている。彼の前には、片膝立ちの狭嶋がいる。


「そなたを美和山から呼んだのは、この志貴に怪異が起きているからだ。日にひとりずつ、宮に勤める使用人が消えている。いずれも若い娘だ」


 依利比古は、挨拶もなしに本題に入った。相手が久しぶりに会った十世である事など、少しも関心がないようだ。

 込み上げそうになる気持ちを押し殺し、十世は冷静に依利比古の言葉を受け止めた。


「この怪異の原因を突き止め、それが魔物の類であるならば、それを調伏せよ。唯一の目撃者を呼んである。話を聞くなりして事に当たれ」


 それだけ言うと、依利比古は狭嶋を伴って広間から退出して行った。

 ずっとずっと恋焦がれ、願い続けた依利比古との再会は、悲しいほどあっけなく終わりを告げた。



 その夜は、厚い雲で月が隠れていた。

 魔物が動くにはおあつらえ向きの闇夜に、十世と宵芽は、使用人たちが使う裏庭の真ん中に佇んでいた。むろん、自らを囮にして魔物をおびき寄せるためだ。

 消えた娘と一緒にいた下女からは、昼間話を聞いた。音も立てずに、娘は姿を消したのだという。唯一の手掛かりは空から降って来た藁草履。


「魔物は空から現れるわ。真砂島でもそうだった。宙に浮いたまま、触手を伸ばして獲物を捕らえるのよ」


 宵芽に何度も伝えた話を、十世はもう一度口にした。隣で怯えている宵芽を力づけるためだ。


「真砂島に現れた魔物は、朱瑠が投げた小刀でたじろいだわ。その小刀で、あの子は神に捧げる供物を作っていた。きっと、知らぬうちに霊力が宿っていたのでしょうね」


 十世の言葉に、宵芽はこくりと頷く。恐怖は拭いきれないが、魔物と戦う心構えは出来ている。


「はい。朱瑠が立ち向かった魔物を、私たちでやっつけましょうね」


 肩を震わせながらも、宵芽は健気に呟く。

 二人は空を仰いだ。

 月も星も見えない漆黒の空だ。黒い魔物がいても、はたして見えるものだろうか。そんな疑問を思い浮かべた時、空の一部が揺らいだ。首の後ろから背筋にかけて、サーッと肌が粟立つ。


(来た!)


 そう思った瞬間、十世は宵芽の体を突き飛ばした。

 木の陰に宵芽が倒れ込む。その姿を確認した途端、十世の体は遥か樹上へと持ち上げられていた。


「十世さま!」


 眼下に、宵芽が駆け寄るのが見えた。


「大丈夫。計画通りよ!」


 十世は微笑んで、宵芽に声を掛けた。

 体に巻きついた触手に片腕が巻き込まれていたが、幸い右手は無事だ。懐から、あらかじめ準備しておいた、霊力を纏わせた小刀を取り出す。そして体に巻きついた触手の一部を切り裂き、左手を自由にする。冷静に動ける自分が嬉しかった。


 真砂島で初めてこの蛇神を見た時、十世は一歩も動けなかった。何も出来ない自分が、情けなくて悔しかった。今もあの時と同じように恐ろしいが、ここでは自分が一番、あの魔物の事を知っている。

 

(私だって……朱瑠のように動けるわ!)


 小刀をぎゅっと握りしめ、左右に腕を振って、周りで蠢いている触手を斬りつける。触手は小刀で切れるが、後から後から湧いて出るのか少しも減らない。

 裏庭にいる宵芽と、建物から出て来た山吹が、同じく霊力を纏わせた刀子を投げている。

 攻撃にひるんだのか、ビリビリ、と声の無い咆哮が空気を震わせた。

 

 十世は、体に巻きついた触手はあえて傷つけなかった。本体に近づき、喰われる前に頭部を切り裂くのが目的だからだ。

 もちろん、この簡単な計画が、恐ろしく難しい事だとわかっていた。


 周りから触手が引いた直後、蛇の鎌首が降下してきた。十世の頭上でグワッと大きく口が開く。

 漆黒の体に燃えるような瞳。黒光りする牙と、そこだけ紅く長い舌。


(今だ!)


 蛇神の口腔目掛けて、十世は小刀を突き出した。しかし思ったよりも大きな口腔に刃は空を切る。仕方なしに横に薙いだ小刀が、片方の黒き牙を斬り飛ばした。


(やった!)


 成功に気を取られた瞬間、もう一つの牙が、十世の右手を貫いていた。


「あぁぁー!」


 鋭い痛みに、十世は悲鳴を上げた。物理的な痛みとともに、傷口から闇が侵入する気配に体が震える。しかし、十世の右手を貫いた牙はすぐに引き抜かれ、再び大きく口が開いた。

 十世を喰らおうと、蛇神の赤黒い口腔が頭上に迫る。噛まれた右手は震え、もはや使い物になりそうもない。


(食べられる!)


 恐ろしさに目を背けようとした時、力強い腕が蛇神の口を押さえつけた。十世と蛇神の間に体を滑り込ませてきたのは、半透明の屈強な戦士だった。


「な……長洲彦さま!」


『わしが押さえておるうちに逃げよ!』


 蛇神の鎌首につかみ掛かる長洲彦に、十世は頷くのが精一杯だった。

 左手に小刀を持ち替え、体に巻きついた触手を切り裂く。支えを失った体は落下し、木の枝にぶつかりながら地面へと落ちた。山吹が手を差し伸べてくれなかったら、きっと大怪我をしていただろう。二人重なって地面に倒れた際に、打ち身や切り傷を作ったくらいですんだ。しかし、蛇神の牙が貫いた十世の右手だけは、黒く変色していた。


「十世さま……」


 泣きそうな顔で駆け寄ってきた宵芽に頷いて、空を見上げる。そこにはもう、暗御神と長洲彦の姿はなかった。


「長洲彦さまは、暗御神をたおせるのでしょうか?」

「わからない……でも、あの方の尹古麻に対する想いは強いわ」

「はい」


 こくりと頷く宵芽に、十世は厳しい目を向けた。


「宵芽……難しいのはわかってる。でも、お前の力だけで魂乗せ出来るかやってみてちょうだい。朱瑠を、探して欲しいの」

「……わかりました」


 宵芽はもう一度、力強く頷いた。



 〇     〇



 翌朝。

 高殿の広間で、依利比古は眉をひそめていた。

 国輝の報告は、あまり芳しいものではない。昨夜は被害が出なかったことと、十世が怪我を負って美和山に帰ったということだけだった。


「日の巫女さまから、報告はないのか?」

「はい。負傷したせいでしょう。追ってご報告申し上げる、とのことでした」


 深々と一礼して国輝が退出したあと、依利比古は少し考えてから、勇芹を呼び寄せた。

 暗御神の件とは別に、このところ彼が考えていたのは、姫比きびのことだ。月弓にそそのかされたからではなく、姫比の反意は薄々感じていた。もちろん、ここで姫比を攻めることは本意ではない。姫比は高志攻めに兵を出さなかっただけで、まだ依利比古に刃を向けたわけではないからだ。


(だが────今は正直、志貴の宮から諸国の目を遠ざけたい)


 しばらくして勇芹が現れた。依利比古の前に膝をつく。


「お呼びでしょうか?」

「勇芹。そなたを西の将君いくさぎみに任命する────姫比を落とせ」

「は?」


 依利比古の前に跪いたまま、勇芹は目を瞠った。

 姫比は、瀬戸内掌握の本拠地だった。姫比津彦王との関係も悪くはない。それどころか、依利比古にとって一番近しい国のはずだった。


「姫比を落としたあかつきには、そなたに姫比の土地と、姫比津彦の名を与えよう!」


 躊躇いも見せずに宣言する依利比古を、勇芹とそのすぐ傍にいた弟の狭嶋は呆然と見つめた。

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