六 怪異


 満月の夜だった。


 見張りの兵以外はとうに寝静まった深更しんこうに、志貴しきの宮に仕える年若い下女が二人、手をつないでかわやへと急いでいた。

 貴人が住まう表側には篝火があり、見張りの兵もいる。しかし、使用人が使う裏側は、人気ひとけが無く真っ暗だ。今日は月の光があるだけまだ明るい。


「ねぇ、聞いた? 昨日も一人、行方不明になったらしいよ。このところ、毎日若い女の子が消えてるんだって」

「やめてよぉ! ただでさえ暗くて怖いのに、変なこと言わないでよぉ!」


 背の高い少女の言葉を、背の低い少女が遮る。


「だって気になるじゃない。しかも昨日消えたのは奥方様の侍女なんだって。こっちじゃなくて表側で消えたのよ」

「だからそれ以上言わないでったらぁ」


 二人はきゃあきゃあ言いながら厠にたどり着き、交代で用を足した。


「さぁ、早くもどろうよぉ」

「あんたって、臆病ね」

「だって怖いじゃない!」


 揶揄われて、背の低い少女はむくれた。だから、帰りは手を繋がなかった。

 宿舎に向かって速足で歩きだすと、反省したのか、さっきまでクスクス笑っていた同僚は、急に無言になった。


「どうしたの?」


 心配になって振り返ると、厠へと続く裏庭には誰もいなかった。隠れて驚かせようとしているのかも、と思って辺りを見回してみたが、月の光で見える範囲に人影はなかった。


「やだ……ねぇ、脅かそうとしてるんでしょ?」


 声を掛けても返事はない。

 怖くなって両腕を掻き抱いた少女の前に、ボトリと、空から何かが落ちて来た。何だろうと屈みこむ。藁草履の片方だけが地面に落ちていた。


「何で……草履が?」


 そう思った時、再びボトリと音がした。もう片方の草履だったが、何故かこちらは赤黒く染まっていた。


「きゃぁぁぁぁぁー!」


 月夜の裏庭に、少女の悲鳴が響き渡った。



 〇     〇



「────毎日、この宮の中から娘が消えています。行方知れずになったのは、すべて若い娘です。体の一部などは見つかっていませんが、このままでは、尹古麻いこまのような騒ぎになる恐れがあります。依利比古いりひこさま……」


 縋るような目でそう報告したのは、尹古麻王国輝くにてるだ。

 高殿の広間には、国輝と依利比古と狭嶋さしまの三人しかいない。他国の駐在官がいない場所で進言したのは、彼なりに外聞を憚ったのだろう。


「あれは……尹古麻のように、長洲彦ながすひこさまの祟りなのでしょうか? それとも別の────」

「叔父上」


 依利比古は、国輝の言葉を遮った。安心させるように、静かな笑みを浮かべる。


「既に筑紫から、日の巫女さまを呼び寄せてある。すぐに美和山に使いを出そう。狭嶋」

「はっ」


 狭嶋が一礼して、宮の外にいる部下に命令を伝えに行く。


「日の巫女さまにお任せすれば大丈夫だ。叔父上も、あまりご心配なさらぬように」


 そう言って依利比古は立ち上がった。そのまま狭嶋を連れて高殿から出て行く。


(面倒なことになったな‥…)


 自分の離れ宮に向かいながら、依利比古は心の中で舌打ちした。

 国輝から報告を受けるまで、志貴の宮で使用人が消えていることを依利比古は知らなかった。今はまだ騒ぎにはなっていないが、尹古麻のように体の一部が見つかるようになれば、大王の都はたちまち魔都と呼ばれることになるだろう。

 自分の宮に戻った依利比古は、庭に面した部屋から護衛も使用人も遠ざけた。回廊にも、庭にも、人の姿は見えない。


「月弓、出てこい。月弓!」


 怒りを込めた低い声で呼ばわると、庭に面した回廊に闇が凝った。その闇は徐々に人型となり、やがて月弓の姿に変化した。背に垂れた長い髪が、さらさらと風に弄ばれている。


「何か用か?」

 現れた月弓はひどく不機嫌だったが、依利比古は気にしなかった。


暗御神くらおかみがこの宮で人を喰っている。どうして奴を解き放った?」

 怒りのあまり月弓の胸倉をつかみ上げ、乱暴に揺さぶった。


「どうして? そんなの考えなくてもわかるだろ?」

 月弓は平然と、しかも笑みまで浮かべて依利比古を見る。


「俺と違って、あいつは人を喰う。このところずっと泡間あわいに押し込めていたから、すっかり腹を減らしてたんだ。けど、一日に一人だけと言いつけてあるし、奴も健気にそれを守ってる。偉いだろ?」


「馬鹿を言うな!」


 依利比古は、月弓の胸倉をつかむ手に力を込めた。指先がかすめた首筋はひやりと冷たく、まるで死人のようだった。


「前にも言ったはずだ。暗御神に餌をやるなら、都から遠く離れた山里にでも行けと!」


 依利比古が凄むと、月弓はクックッと笑った。


「何がおかしい?」

「何がって……全部さ。俺は初めから言っていたじゃないか。お前の大願を短期間に叶えてやると。お前は希望通り大王の座に就いた。すでに大願は成就しているだろ? それでもまだ、俺がお前に手を貸すとでも思っているのか? まったく笑えるな」


 依利比古は、月弓の顔を凝視した。自分の顔から、少しずつ血の気が引いてゆくのがわかった。


 願った通り、自分は八洲の大王となった。八洲統一はまだ途上だが、目の前の魔物はそこまで付き合うとは言っていない。そもそも魔物の約束など、いつたがえられてもおかしくはない。ようやく手に入れた大王という地位から、今度は面白半分に蹴落とそうとするかも知れない────相手は魔物なのだから。


 依利比古は突き放すように月弓から手を放すと、一歩下がって剣の束に手をかけた。


「ふぅん。その霊剣で俺を殺す気か? 散々俺の手を借りておいて、思い通りにならなくなったら、すぐに手のひらを反すのか? 本当に、俺を消してしまっていいのか? 大王となったお前に、従わない者がいるのだろう?」


「従わない者……北海沿岸諸国のことか? それなら、小尾彦おおひこが切り崩しにかかっている。従うのは時間の問題だ」


 依利比古が答えると、月弓の口元が弧を描いた。


「俺が言ってるのは、そいつらの事じゃない────姫比きびだ」

「……姫比?」


 どくん、と心臓が跳ねた。


「姫比は、お前が進めている高志こうし攻めに参加しなかったじゃないか。なんだかんだと言い訳して、派兵を拒んでいる」


 月弓の言う通り、姫比は高志国の雪深さを理由に派兵を拒んだ。太陽の国と呼ばれる姫比の兵は、確かに雪には慣れていない。とは言え、依利比古も、姫比津彦の言葉を額面通りに信じた訳ではない。


 固まったように動かない依利比古に、月弓がゆっくりと歩み寄る。彼の耳元に口を寄せ、優しい声で囁きかける。


「姫比は背くぞ。今のうちに攻めた方が良い」


 どくっ、と再び依利比古の心臓が跳ねた。

 同じことを、考えた。だが、依利比古はその考えを切り捨てた。最初の出兵を拒んだだけで姫比を切り捨てれば、八洲の王たちの心は一層離れていくだろう。


「姫比を攻めろ」


 呪文のように繰り返される囁き。

 依利比古の心は少しずつ麻痺してゆく。


「裏切られる前に、切り捨てろ。お前は八洲の大王なのだから────」

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