四 遠い記憶


「依利比古さまぁ」


 甘い声が、依利比古いりひこを引き留めた。

 夫婦のしとねから出て立ち上がり、ため息交じりに振り返ると、妻の真津まつ姫が半身を起こしていた。彼女は訝しむように眉を寄せ、依利比古を見上げている。


「なぜ、いつも、ここでお休みにならないのですか?」


 真津の声は甘いが、そこには不満が滲んでいる。

 大王おおきみの妃となってから、今までとは比べものにならないほど多くの侍女や家臣たちにかしずかれ、真津の自尊心は天を衝くほど高くなっていた。


「私に、何かご不満がおありなのですか?」


 下唇を噛んで、悲し気な表情を浮かべている。

 彼女の言動は、ことごとく依利比古の神経を逆なでした。今まで意識して優しく接していたが、そろそろ限界がきていた。


「夜は一人で休みたい。私の成すことに不満があるのなら、いつでも河地かわちへ帰るがよい。それに、私の妻はそなた一人ではない」


 依利比古の言葉を聞くうち、真津の表情はみるみる青ざめていった。仕舞いには、両手で顔を覆いシクシクと泣き出してしまう。


(面倒な……)


 苛立ちを抑えながら、依利比古は寝屋を後にした。

 手燭を持って先導する従者の後を、護衛を従えて己の離れ宮へと急ぐ。依利比古は歩きながら、都萬つま国に置いてきた最初の妻を思い出していた。


(今思えば、愛良あいらはこんなに面倒な女ではなかった)


 いつも必要最低限の会話しかしなかったが、彼女はいつも凛としていた。国の思惑で娶せられた者同士、義務感だけで動いていたせいだろう。互いに愛情がなかったからこその関係だったのかも知れない────ならば、真津は自分を愛しているのだろうか。そう考えてから、依利比古はフッと苦い笑みを浮かべた。


(それは有り得ぬな)


 真津が愛しているのは己の地位だけだろう。娶ったからには抱くのは義務だと思ってきたが、もはや真津に子が出来ようが出来まいがどうでも良かった。何なら、国輝くにてるの娘の八須やす姫を娶ったってかまわない。妃が二人になれば、真津も少しは自重するだろう。どちらにしても、あの寝屋に通うことはもうない。

 世継ぎの問題があるのなら、叔父である国輝の息子を皇太子に据えればいい。

 依利比古が大王おおきみになったのは、自分の手で八洲を統一したいからであり、己の子孫を後継に据えたい訳ではないのだ。



 〇     〇



 梅の花が満開になる頃、高志こうし国へ向かわせた使者が志貴しきの宮に戻って来た。


「────という訳で、こちらの提案はことごとく却下され、高志国は北海の同盟国、智至ちたる国と足並みをそろえるとの一点張りでございました」


 志貴の宮に駐在する各国の代表を集めた会議の席で、高志国へ赴いた使節の長は、高座の前に跪いてそう報告した。


「なるほど。智至国が八洲に恭順しなければ、高志国も降るつもりはないということか」


 当然だな、と依利比古は笑った。


「北海沿岸諸国の結束は固い。昔から戦を繰り返してきた仲だ。互いの力はよく知っているだろう。初めから上手くいくとは思っていない。だが────攻めてみるのも

手ではないか?」


「高志国を、攻めるのですか?」


 騒めく各国の声を代表するように、尹古麻いこまの国輝王が眉をひそめて訊き返した。


「そうだ。各国から兵を募る。多雅たが国には後方支援をお願いしたい。どうか?」


 依利比古が目を向けた先、会議の末席に座る多雅王は、顔色の悪い顔をさらに青くして頷いた。


「お、仰せのままに」


「依利比古さま! 各国から兵を出すとしても、それを束ねる者を決めねば統制がとれませぬ。国々が勝手に動くようでは、戦にもなりませぬ」


 そう言ったのは、依利比古の義父でもある河地かわち王の小尾彦おおひこだ。娘の真津と同じで、すっかり八洲の重臣気取りだ。


「そうだな」


 依利比古は思案気に頷いた。このところ考えていたことだ。各地の兵を束ねる長がいる。それも一人ではまずい。方面別に何人か必要だ。


「私は八洲を統一するにあたり、地域ごとに軍事の担当官を決めたいと思っていた。軍の最高位、将君いくさぎみだ。今のところ私が考えているのは四人。その四将君の一人はそなただ、小尾彦殿────そなたを高志攻めの要、北の将君に任命する!」


「ははっ!」


 小尾彦が満面の笑みを浮かべてひれ伏し、他の代表たちはシンと静まり返った。


「任地はまだ決めていないが、都萬国の勇芹いさせり、そなたも将君に任命する。弟の狭嶋さしまは、王都守護将君だ」


「はっ!」

「ありがたき幸せ」


 兄弟が打ち揃って頭を下げる。


「今は私の信頼する者を任命しているが、将君の地位は永久ではない。失策があれば他の者に替えるし、身分が低くとも功ある者は取り立てる。皆、心して努めよ」


 シンとなった広間に、「ははっ!」という声が一斉に響いた。



 会議の場から自分の宮に戻ると、依利比古はぼんやりと庭の紅梅を眺めた。

 大王となってそろそろ三月みつきが経つ。瀬戸内とその周辺諸国を手中に収め、今はその外側へ版図を広げようとしている。依利比古に逆らう者はなく、国造りは順調に進んでいる。それなのに、なぜが空虚なものを感じてしまう。心が湧き立たないのだ。


(何が足りないのだろう)


 これ以上望むものはない筈だ。それなのに、満たされない想いが確かにある。不満や気懸りな事はあるが、それとは違うのだ。

 自分が望んだ大王とは、これほど虚しいものだったのだろうか。


(やはり、魔物の力を借りたことが間違いだったのか?)


 時間と効率を優先した結果、周辺諸国に遺恨を残す結果となった。おそらく面従腹背の者は少なくないだろう。そういう意味で言えば、依利比古は魔物の力を借りたことを後悔していた。


『────なぜ魔物を斃そうとしない!』

 いつか聞いたアカルの言葉を思い出し、依利比古は苦笑した。

 あれは、ちょうど今頃の季節だったはずだ。


(真砂島から、もう、二年が経つのだな)


 アカルの事は、なるべく思い出さないようにしていた。思い出せば、漏れなく不愉快な記憶が呼び起こされるからだ。けれど、この日の依利比古は、その不愉快な記憶に身を委ねた。



 ────今からおよそ百年前、筑紫で王を名乗れるのは、宗主国である尹渡いと国だけだった。依利比古は、その尹渡国の王子豊比古とよひこだった。

 豊比古には、子供の頃から許嫁がいた。隣国、国の波海なみ姫。彼女は外洋を縄張りとする海人族あまぞくの頭領の娘で、自らも船を操る勝気な少女だった。


 あの頃、豊比古の父は那国を取り込もうとしていた。大陸との交易港である那の津を有する那国は、王のお膝元である尹渡国よりも栄えていたからだ。

 豊比古と波海を娶せようとしたのもその一環だったに違いない。しかし、父のせいで那国は二つに割れた。尹渡国に従う者と、離反する者とに────。


 波海の父である海人族の頭領は、一族をまとめて離反する道を選んだ。


「波海! きみだけでも残ってくれ。私が必ずきみを守るから!」


 そう言って差し出した豊比古の手を、波海は取らなかった。


「ごめん。もう行くね。豊比古も、元気で……」


 そう言って身を翻し、駆け出してゆく。

 豊比古は、波海の後を追うことが出来なかった。丘の上から那の津を見下ろし、港を出て行く船団を、ただ見送った。

 淋しさや悲しさよりも、屈辱が胸を焼いた。波海を愛した分だけ、憎しみも大きくなった。


(波海……私はきみを取り戻すために、あの戦を始めたのだろうか? それとも、復讐するために始めたのだろうか?)


 依利比古は遠い記憶を手繰り、かつての許嫁の面影を思い浮かべた。

 いつの間にか日が落ちて、庭の紅梅も見えなくなっていた。

  

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