四 遠い記憶
「依利比古さまぁ」
甘い声が、
夫婦の
「なぜ、いつも、ここでお休みにならないのですか?」
真津の声は甘いが、そこには不満が滲んでいる。
「私に、何かご不満がおありなのですか?」
下唇を噛んで、悲し気な表情を浮かべている。
彼女の言動は、ことごとく依利比古の神経を逆なでした。今まで意識して優しく接していたが、そろそろ限界がきていた。
「夜は一人で休みたい。私の成すことに不満があるのなら、いつでも
依利比古の言葉を聞くうち、真津の表情はみるみる青ざめていった。仕舞いには、両手で顔を覆いシクシクと泣き出してしまう。
(面倒な……)
苛立ちを抑えながら、依利比古は寝屋を後にした。
手燭を持って先導する従者の後を、護衛を従えて己の離れ宮へと急ぐ。依利比古は歩きながら、
(今思えば、
いつも必要最低限の会話しかしなかったが、彼女はいつも凛としていた。国の思惑で娶せられた者同士、義務感だけで動いていたせいだろう。互いに愛情がなかったからこその関係だったのかも知れない────ならば、真津は自分を愛しているのだろうか。そう考えてから、依利比古はフッと苦い笑みを浮かべた。
(それは有り得ぬな)
真津が愛しているのは己の地位だけだろう。娶ったからには抱くのは義務だと思ってきたが、もはや真津に子が出来ようが出来まいがどうでも良かった。何なら、
世継ぎの問題があるのなら、叔父である国輝の息子を皇太子に据えればいい。
依利比古が
〇 〇
梅の花が満開になる頃、
「────という訳で、こちらの提案はことごとく却下され、高志国は北海の同盟国、
志貴の宮に駐在する各国の代表を集めた会議の席で、高志国へ赴いた使節の長は、高座の前に跪いてそう報告した。
「なるほど。智至国が八洲に恭順しなければ、高志国も降るつもりはないということか」
当然だな、と依利比古は笑った。
「北海沿岸諸国の結束は固い。昔から戦を繰り返してきた仲だ。互いの力はよく知っているだろう。初めから上手くいくとは思っていない。だが────攻めてみるのも
手ではないか?」
「高志国を、攻めるのですか?」
騒めく各国の声を代表するように、
「そうだ。各国から兵を募る。
依利比古が目を向けた先、会議の末席に座る多雅王は、顔色の悪い顔をさらに青くして頷いた。
「お、仰せのままに」
「依利比古さま! 各国から兵を出すとしても、それを束ねる者を決めねば統制がとれませぬ。国々が勝手に動くようでは、戦にもなりませぬ」
そう言ったのは、依利比古の義父でもある
「そうだな」
依利比古は思案気に頷いた。このところ考えていたことだ。各地の兵を束ねる長がいる。それも一人ではまずい。方面別に何人か必要だ。
「私は八洲を統一するにあたり、地域ごとに軍事の担当官を決めたいと思っていた。軍の最高位、
「ははっ!」
小尾彦が満面の笑みを浮かべてひれ伏し、他の代表たちはシンと静まり返った。
「任地はまだ決めていないが、都萬国の
「はっ!」
「ありがたき幸せ」
兄弟が打ち揃って頭を下げる。
「今は私の信頼する者を任命しているが、将君の地位は永久ではない。失策があれば他の者に替えるし、身分が低くとも功ある者は取り立てる。皆、心して努めよ」
シンとなった広間に、「ははっ!」という声が一斉に響いた。
会議の場から自分の宮に戻ると、依利比古はぼんやりと庭の紅梅を眺めた。
大王となってそろそろ
(何が足りないのだろう)
これ以上望むものはない筈だ。それなのに、満たされない想いが確かにある。不満や気懸りな事はあるが、それとは違うのだ。
自分が望んだ大王とは、これほど虚しいものだったのだろうか。
(やはり、魔物の力を借りたことが間違いだったのか?)
時間と効率を優先した結果、周辺諸国に遺恨を残す結果となった。おそらく面従腹背の者は少なくないだろう。そういう意味で言えば、依利比古は魔物の力を借りたことを後悔していた。
『────なぜ魔物を斃そうとしない!』
いつか聞いたアカルの言葉を思い出し、依利比古は苦笑した。
あれは、ちょうど今頃の季節だったはずだ。
(真砂島から、もう、二年が経つのだな)
アカルの事は、なるべく思い出さないようにしていた。思い出せば、漏れなく不愉快な記憶が呼び起こされるからだ。けれど、この日の依利比古は、その不愉快な記憶に身を委ねた。
────今からおよそ百年前、筑紫で王を名乗れるのは、宗主国である
豊比古には、子供の頃から許嫁がいた。隣国、
あの頃、豊比古の父は那国を取り込もうとしていた。大陸との交易港である那の津を有する那国は、王のお膝元である尹渡国よりも栄えていたからだ。
豊比古と波海を娶せようとしたのもその一環だったに違いない。しかし、父のせいで那国は二つに割れた。尹渡国に従う者と、離反する者とに────。
波海の父である海人族の頭領は、一族をまとめて離反する道を選んだ。
「波海! きみだけでも残ってくれ。私が必ずきみを守るから!」
そう言って差し出した豊比古の手を、波海は取らなかった。
「ごめん。もう行くね。豊比古も、元気で……」
そう言って身を翻し、駆け出してゆく。
豊比古は、波海の後を追うことが出来なかった。丘の上から那の津を見下ろし、港を出て行く船団を、ただ見送った。
淋しさや悲しさよりも、屈辱が胸を焼いた。波海を愛した分だけ、憎しみも大きくなった。
(波海……私はきみを取り戻すために、あの戦を始めたのだろうか? それとも、復讐するために始めたのだろうか?)
依利比古は遠い記憶を手繰り、かつての許嫁の面影を思い浮かべた。
いつの間にか日が落ちて、庭の紅梅も見えなくなっていた。
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