三 御祖神(みおやがみ)の助言
灰色の空から、小雪が舞い落ちている。
景色からは色が消え、青い海でさえ今は灰色の濃淡にしか見えない。冬の北海諸国にとっては日常の風景だ。
冬衣を持っていなかったアカルのために、
広大な
山頂まで真っ直ぐ伸びるこの階段を上れば、神域にたどり着く────忘れたことはない。二年前の夏、ここで大勢の巫女に囲まれて
ふぅ、と大きく息を吐き、アカルは階段を上った。
智至の巫女が変わったと水生比古は言ったが、アカルは信じられなかった。
階段を上りきると、しめ縄が張られた門は大きく開かれていた。
「岩の里のアカルです。御祖神さまにお会いしたくて参りました!」
門前で呼びかけると、年若い巫女がやって来た。「お入りください」と促されて後に続くと、二年前と同じように、高宮の
「よくおいで下さった。岩の里の朱瑠殿。御祖神さまとのお話が終わったら、どうかこちらへお寄りくだされ。折り入って話したいことがありますのでな」
大巫女が頷くように軽く頭を下げると、周りにいた巫女たちも頭を下げた。
「わかりました」
アカルは少々面食らいながら、御祖神が宿る大木の前まで歩いて行った。
地面に座り、予め作っておいた二つの削り花を土にさす。姿勢を正し、息を整えて、アカルは深々と頭を下げた。
「御祖神さま、お久しぶりです。岩の里のアカルです」
名乗りを上げてから見上げると、大木に宿る大きな女神がアカルを見下ろしていた。
『アカル、よく戻った。そなたが無事で何よりじゃ。辛い旅であったろう?』
慈愛に満ちた御祖神の声と共に、アカルの体の中を不思議な風が吹き抜けた。地面に触れた足から頭の先に向かって風が通り抜けてゆくと、体が軽くなり、体の奥に凝っていた疲れが一瞬で消えていた。
「これは……」
『そなたの供物のお礼じゃ。わらわがそなたにしてやれるのは、それくらいしかないのでな』
目の前を見ると、地面にさした削り花が消えていた。
「ありがとうございます……ですが、私は御祖神さまにお願いがあって来たのです。国から国へと旅をした事で、私は自分のやるべき事を見出しました────どうか私に、力を貸してください!」
アカルは再び頭を下げて懇願した。
圧倒的な速さで、八洲の
『そなたの気持ちはよくわかる。だが、わらわの力には限りがある。そなたの望むものが手に入るとは限らぬぞ。何が知りたい?』
「魔物を斃す方法を教えてください!」
アカルは女神を真っ直ぐ見つめた。
『なんとまぁ……直線的な物言いじゃの。実に、そなたらしい』
御祖神はくすっと笑った。
「八洲の大王となった依利比古は、魔物を斃せるという霊剣を持っています。あれが本当に魔物を斃せるのか、私にはわかりません。でも、依利比古が霊剣を手にしている限り、魔物を斃すことは出来ません。彼は自分の身に危険が及ばない限り、
魔物の力を借りて八洲統一を続ける彼に、その選択肢はないはずだ。
『そなたは、その霊剣の代わりになる物が欲しいのか?』
「それは……よく、わかりません。ただ、
『ふふふっ、水生比古の刀子は霊剣ではなかろう。あれは、そなたを助けたいという想いの力じゃ────なるほど、あれならばそなたにも出来よう。供物の削り花に込めるように、そなたの想いを込めれば良いのじゃ』
「私の……想いを?」
アカルは目を瞠った。削り花を作るように、霊剣を作れるのだろうか。とてもそうは思えない────。
『そなたは、削り花を作るとき、どのような思いで作っている?』
「それは……霊力を注ぐことと……神々への感謝、でしょうか?」
正直、あまり考えたことはなかった。霊力を注ぐことだけに集中していたような気もする。
『そなたの想いの力は、とても温かな光に似ている。力に溢れ、大地から若芽が芽吹くような力じゃ』
「温かな光……」
以前、依利比古にそんな事を言われた。アカル自身が温かな光を身に纏っていると。
『わかるか? 水生比古の想いも、そなたの想いも、同じ光じゃ。何かを斃したいという気持ちではない。光に属する想いで無ければ、霊剣を作ることは出来ぬのじゃ』
「では、
アカルは異を唱えるように訊き返した。
『そうじゃな。わらわは韴之剣が生まれた経緯を知らぬが、おそらく、あれは魔物を斃すために作られた剣ではない』
「え……」
言葉を失って御祖神を見上げると、大地の女神は慈愛に満ちた微笑みを浮かべてアカルを見下ろしていた。
『あれは恐らく、人と神とを繋ぐ神事のために作られた剣じゃ。神事によって知らぬうちに霊力が溜まったのだろう────アカル、破魔の剣をつくることは、言葉で言うほど簡単ではなかろう。しかし光の想いを込める事が出来れば、そなたにも韴之剣に比するものが作れるはずじゃ。これは、わらわからの
霊木に重なるように見えていた女神の姿が消えた瞬間、カランと音を立てて霊木の枝が地面に落ちた。
「これは……」
それは、長さも太さもアカルの腕よりも大きな枝だった。
アカルは急いで霊木の枝を拾い上げ、胸に掻き抱いた。
この枝をどうすればいいのか、まだわからない。魔物を斃したいという気持ちでは、霊剣に代わるものは作れない。だとしたら、どんな気持ちでこの霊木に相対すれば良いのだろう────わかっている事は一つだけ。この霊木の枝を無駄にしてはいけない。
「ありがとうございます。御祖神さまの宿り木を、必ず使わせて頂きます」
深々と頭を下げてから、アカルはふと、もう一つ聞きたいことがあったのだと思い出した。
「御祖神さま。二年前、兼谷の剣から逃げ惑う私を、ソナの所まで逃がしてくれたのは、御祖神さまですか?」
空間を飛び越えて別の場所に出たことは、一度もなかった。泡間へ飛ぼうとして失敗し、偶然結界を張ったことはあるが、アカルが泡間へ飛んでも、同じ場所にしか帰れない。
『わらわの助力ではない。あれはそなたの力だ』
「私の力? ですが、あれから一度も別の空間に飛べたことはありません」
あの時のことはずっと心に引っかかっていた。時おり思い出しては試してみたが、やはり同じ空間にしか出られなかった。
『それは、必要に迫られたからではないか?』
「ですが」
アカルは唇を噛んだ。
必要に迫られたことは何度もあったはずだ。都萬国で武輝に組み伏せられた時も、安波岐の宮から脱走した時も、別の場所に出られたら逃げ出すことが出来たはずだ。
『そなたの中に眠る力が、命の危機を察知して発動したものだろう。その力を使えるようになるかどうかは、そなたの修練しだいじゃ』
御祖神の声は、愉快そうに弾んでいる。
「修練……」
アカルは釈然としないまま、そう呟いた。行儀作法を叩きこまれたのも、泡間へ飛ぶ修練をはじめたのもこの智至だった。ここはまるで、アカルの修行場のような国だ。
『そなたにやる気があるならば、この斐川の宮の結界内でも修練は出来る。毎日そなたの仮宿から、この巫女宮へ飛んで参れ』
にっこりと微笑む女神は、案外鬼教官になれそうだ。アカルは密かに女官長の顔を思い出した。
「わかりました。明日から毎日、修練に励みます」
アカルはもう一度お礼を言ってから、女神の前を辞した。
高宮の前に戻ると、待っていた巫女に宮の中に入るように促された。
広間に入り、大巫女の前に座ると、アカルは霊木の枝を自分の前に置いた。
「これは、御祖神さまから頂いた枝です。一応、あなたにも許可を頂きたい」
神木の枝を折ったなどと思われたら、以前と同じように命を取られかねない。そんな思いで切り出したのだが、大巫女は頷いただけだった。
「え?」
アカルが驚くと、大巫女は短く笑った。
「御祖神さまの思し召しに、我らが口を挟むことはない」
「そう……ですか」
未だに信じられないが、智至の巫女が変わったというのは本当だったらしい。
「それで、話というのは何でしょう?」
アカルが居住まいを正して問いかけると、大巫女はもう一度頷いた。
「朱瑠殿がこの智至を離れた後、我らは
大巫女の顔の前には白布が垂れていて、どんな表情をしているのかはわからなかったが、きっと苦笑しているだろう。
「朱瑠殿のように、神のお姿やお声をはっきりと見聞きできる訳ではないが、おぼろげに御祖神さまの意思を感じる者は出て来た。それは、誓約しか出来なかった頃に比べれば、遥かに多くの情報をもたらしてくれた。我らはやっと、己の過ちに気づいたのだ。朱瑠殿、申し訳なかった」
目の前で大巫女が床に両手をつき、深々と頭を下げると、周りにいたすべての巫女がそれに倣った。
「や……もういいよ。そんな風に頭を下げられても気持ち悪いし。話がそれだけなら、もう帰っていい? 御祖神さまに言われたことを色々考えたいんだ」
アカルがそう言うと、ようやく大巫女は頭を上げた。
「朱瑠殿が何をしようとしているのかは、水生比古さまより聞いている。我らも力になりたい。朱瑠殿が起つときは、我ら智至の巫女も加勢しよう!」
空気を震わせるように、大巫女はそう言い放った。
(私が……起つ?)
アカルはきょとんとしたまま、首をひねった。
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