十二 底なし沼


 依利比古いりひこは、鳥見とみ池の南東にある志貴しきの地に王都を定めた。

 きらきらと輝く水辺を見下ろせる高台では、宮の建設が着々と進んでいる。


「依利比古さま」


 工人の仕事ぶりを眺めていた依利比古の元へ、狭嶋さしまが歩み寄ってきた。普段からあまり表情のない武骨な顔は、嫌なものを飲み込んだような不快さを露わにしている。


火鑚ひきりの宮で変事が起きたようです」

「変事?」


 眉をひそめる依利比古に、狭嶋は顔を歪めたまま言葉を続ける。


「は。宮の内で、何者かに喰われたような、人の手足が見つかったようです。国輝さまから、至急お戻りくださるよう、伝令が参っております」

「……わかった。今からでは、鳥見とみの里あたりで日が暮れるな」

「そうですね。先触れを出しておきます」


 狭嶋は急ぎ足で戻って行く。その後ろ姿を見送りながら、依利比古はこのところ姿を現さない月弓のことを考えた。

 火鑚の宮の変事は、恐らく月弓の仕業だろう。彼が操る蛇神は、真砂島まさごしまで巫女を襲おうとしていた。あの時はアカルのお陰で被害は出なかったが、火鑚の宮では防ぐことが出来なかったのだ。

 暗御神が人を襲うところを見たのはその一度きりだったが、何の為に襲ったのか、月弓に問いただしたことはなかった。ただ、何となく嫌な予感はしていた。


(あの蛇神は、人を喰うのか……)


 苦渋に満ちた表情を、依利比古は浮かべた。

 自分の失態で、河地かわちの国土を茶色い泥に埋めたばかりだ。あの泥の下に消えた命のことを考えれば、今さら一人や二人魔物に喰われたところで大したことはない────そう思う一方で、厄介なことが起きてしまったと慌てている自分もいる。


 そもそも、河地と尹古麻いこまでは立場が違う。河地が依利比古の手を拒んだことで、天の裁きを受けたと言うならば、依利比古に従う尹古麻は平和でなければならない。

 一番災いが起きてはならない場所で変事が起きれば、今までの努力が水の泡になってしまう。

 依利比古は冬枯れのくぬぎ林に入ると、月弓つきゆみに呼び掛けた。


「月弓、居るのなら出てこい」


 何度か呼びかけると、ようやく闇が凝り月弓が姿を現した。

 呼び出されたことが不満なのか、「何か用か?」と物憂げな様子で問いかけてくる。


「火鑚の宮で人が喰われた。暗御神くらおかみの仕業だろう? 今すぐ止めさせろ!」


 不満を露わにする依利比古に、月弓は嘲笑を浮かべた。


「誰のお陰で国々を従えられたと思っているんだ? 暗御神にはたくさん働いてもらったじゃないか。あいつにも褒美をやるべきだろ?」


「褒美? 尹古麻の民を蛇神の贄にしろと言うのか? 冗談ではない! お前は私の野望を叶えると約束した。これからが一番大切な時期だと言うのに……これ以上尹古麻で変事が続けば、大王として立つどころか、この計画自体が水の泡になりかねないのだぞ!」


 激高した依利比古は、月弓の衣の衿をつかみ上げた。


「はっ、俺には関係ないね。お前の望みを叶えてやろうと思ったのは、ほんの気まぐれだ。それに、あまり暗御神を我慢させるのは良くないぞ。歯止めが効かなくなれば、困るのはお前だからな」


 月弓────炫毘古かがびこは、薄笑いを浮かべたまま目を細める。

 依利比古は息を呑んで彼から手を放した。人喰いの魔物を餓えさせれば、更に人を襲いはじめる。いま小さな禍を止めれば、後に大きな禍が起こると彼は言っているのだ。


「蛇神は……人でなければだめなのか? 獣で我慢させろ。とにかく、尹古麻からは遠ざけよ!」


「わかった。とりあえず、尹古麻からは離れてやる。まっ、せいぜい頑張るんだな」


 ぽんぽんと依利比古の肩を叩き、彼は姿を消した。


(あいつは……私を困らせるために、私に手を貸したのか?)


 嫌な考えが頭に浮かぶ。大地を踏んだ足が、ずぶずぶと沈んでゆく気がした。

 山津波に襲われた河地国を見た時は、もう引き返せないと思った。けれど今は、底なし沼に飲み込まれるような恐怖がある。例え八洲の国々を統べたとしても、このままでは自分は正道に立ち戻れない。やがて臣下や民から、闇の大王と呼ばれることになるだろう────わかっているのに、目に見えない縄にがんじがらめにされたように、依利比古は身動きが出来なくなっていた。




 慌ただしく志貴を出発した依利比古たちは、鳥見池の畔を馬で駆けた。

 予想通り、鳥見の里あたりで日が暮れた。

 依利比古の為に屋敷を明け渡した鳥見の里長は、まるで畏れるようにびくびくしながら一行を歓待した。


「依利比古さま、実は、あなた様にお目通りしたいと言う者がいるのですが、こちらにお通ししてもよろしいでしょうか?」


 夕餉を済まし、手焙り火鉢の前でくつろいでいた依利比古の元へ、里長がやって来た。


「里の者か?」

「いえ……それが、河地の王、大江丸おおえまるさまの弟君、小尾彦おおひこさまでございます」

「河地王の弟か」


 一瞬、泥流にのまれた河地国の姿が蘇り、眼光鋭い大江丸の厳めしい顔を思い出した。都萬と尹古麻の軍を出し、出来得る限りの命を助けたが、その中に大江丸の姿はなかったと報せを受けている。


「構わん。通せ」


 依利比古が頷くと、ややあって、壮年の偉丈夫とほっそりした少女が連れ立ってやってきた。回廊から一歩入った所で跪き、深々と頭を下げる。


「小尾彦にございます。これは我が娘、真津姫まつひめです。依利比古さまがお越しと伺い、ご挨拶だけでもと思い参上いたしました。山津波の折は、迅速な救援をありがとうございました」


 濃紺の質素な衣を着た小尾彦とは対照的に、傍らに座る娘は薄紅色の衣の上から牡丹色の上衣を纏っている。少女はそっと顔を上げてにっこりと笑った。


「真津でございます」


 年の頃は、国輝の娘、八須やすと同じくらいだろうか。美しい娘だ。


「大江丸殿の弟君とその娘か……無事で何よりだった。河地国の復興までは、私も出来る限り援助はするつもりだ」


「ありがとうございます」

 小尾彦は額を床につける。


「瀬戸内の国々から、初代大王は依利比古さまに決まったと聞きました。私は兄とは違います。依利比古さまを大王と仰ぎ、お仕え致します。私の心に偽りがないという証に、我が娘をあなたさまに差し上げます。どうかお受け取り下さい」


「え……」


 依利比古は唖然として、小尾彦の横に座る真津に目を向けた。すると、真津は先ほどと同じように、にっこりと依利比古に笑いかける。


「真津姫は、お幾つか?」

「十六にございます」


(朱瑠よりも、ひとつ年下か……)


 無意識に、アカルと真津を比べていた。その白い手や白い顔は、真綿にくるむようにして大切に育てられた証に見えた。


「父君の話には、そなたも同意しているのか?」

「はい。もちろんでございます」


 真津は、何のためらいもなく答える。

 その警戒心のなさを、依利比古は嗤った。自ら進んで、魔物に魅入られた者に嫁ごうとするなど自殺行為だ。それとも、父と同様に、自分にすり寄ることで権勢を誇れるとでも思っているのだろうか────どちらにしても、これで河地の離反はなくなる。


「私は、新年に即位式を行う。もし、その時になっても心が変わらなければ、我が王都、志貴の宮に来るがよい」


 依利比古がそう言うと、小尾彦親子は再び平伏した。



 〇     〇



 結局、依利比古が尹古麻山の裾野、火鑚の宮に戻ったのは、翌日の昼を大分過ぎた頃だった。宮の中は騒然としていて、依利比古が門をくぐると、みな一様に暗い目を向けて来た。


「依利比古さま……」

 重臣たちの中から、国輝がまろび出る。

「伝令を出した後、更に被害が増えたのです」


 宮の下女、宮に近い尹古麻の里の子供や少女が、十五人も姿を消していた。そのうち体の一部が発見されたのは先の二例だけだったが、姿を消した者には、年若い女という共通点があった。


「それだけではないのです……実は、殯家もがりや長洲彦ながすひこさまの遺体が、め、目を開けたのです」


 国輝の言葉は驚くべき事だったが、依利比古は心の中でほくそ笑んだ。


「なるほど。長洲彦殿の荒魂がこの変事の元凶であったか……」


 いかにも死んだ国主が子供を喰らったような空気を作り、依利比古は悲し気に嘆息する。

 ややあって、彼は意を決したように腰に帯びていた剣を抜き放ち、尹古麻の重臣たちを見回した。


「恐れるな! この破魔の剣にかけて、これ以上の被害は出さぬ!」


 陽の光を受けて青白く光る剣身に、皆の目が引きつけられる。


「狭嶋、都萬国より十世を呼び寄せろ。日の巫女に、長洲彦の荒魂を鎮めさせる!」

「は!」


 長洲彦には悪いが、魔物の代わりに悪者になってもらう。依利比古には、もう躊躇ためらう気持ちはなかった。

 自分の足が、一面黒い泥に覆われた沼の深みにはまり、ずぶずぶと沈んでゆくような錯覚を覚えた。それでも依利比古は、もう後ろを振り返ることはしなかった。

  

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