十一 人喰い
その朝、
ある日突然現れた醜い痣が、今朝起きると消えていたのだ。
右手首から顔へと、日に日に広がり大きくなっていった黒い痣は、昨夜までは確かにあったのに、今は跡形もなくなっている。
齢十五の少女にとって、醜い痣は死ぬよりも辛い責め苦だった。鏡の中の顔を、八須はまじまじと見つめた。傷一つない白い頬は、このところの絶食で少し肉が落ちていたが、十分美しい。
「ようございました、八須姫さま!」
侍女も泣きながら喜んでいる。
「久しぶりに外へ出たいわ」
晴れ晴れとした気持ちで、八須は立ち上がった。侍女と一緒に宮を囲む回廊へ出ると、青く晴れた空に、真綿のような白い雲が浮かんでいた。
「気持ちがいいわね」
「はい。このところ禍事ばかりが続きましたが、今日は誠に良き日でございます」
八須は草履を履いて庭に下りた。冬の庭はさして美しい草木はないが、庭の奥の垣根に赤い実をつけた木があった。
「
赤い実を取ろうと、八須は庭の奥に分け入った。手を伸ばして実に触れると、赤い実はぽろっとこぼれ落ちてしまった。
「ああっ」
落ちた実を拾おうとして下を見ると、妙なものが見えた。垣根の下から、誰かの手が見えていた。手のひらを上にして、何かをつかもうとするように指先が曲げられている。
(垣根の向こうに誰か寝ているのかしら。こんなところに手を投げ出して?)
訝しみながら、八須は垣根の奥へ目を向けた。背の高い垣根の先には、びっしりと隙間なく並べられた竹の柵があった。
「え……」
八須はふらふらと後ずさった。
どう考えても、竹の柵からこちらへ手を出すことは不可能だ。
ではこの手は────。
「や、八須姫さま、戻りましょう!」
同じく地面の手に気づいた侍女が慌てだすと、八須の視界がくらりと暗転した。自分の名を呼ぶ侍女の声も遠くなり、彼女はそのまま気を失った。
〇 〇
八須姫が発見した人の手は、若い女の手だった。何かに食い千切られたように、肘から上がなくなっている。見回りの兵によって板の上に乗せられた手は、今は広間前の回廊に置かれ、国輝や重臣たち、そして主だった警護の武人たちによって見分されている。
「報告します!
調べに出ていた見回りの兵が、階の下に膝をついてそう報告した。
「ううむ」
国輝は唸った。頭をよぎるのは、依利比古の従者の魔物だ。しかし、ここで魔物の話をすることは
「まさか‥……長洲彦さまの祟りでは」
若い武人が恐る恐るそう言うと、すぐに周りの武人たちに馬鹿馬鹿しいと一蹴された。
「しかし、宮の中に野犬が入り込むとは思えません。他の部分が見つからない以上、野犬より大きな獣に喰われたか、魔物の仕業としか思えません」
「無礼な! 長洲彦さまを愚弄する気か?」
重臣たちも怯えているのか、いつもの冷静さを欠いている。
「落ち着け」
武人たちが騒ぎ出すのを、国輝は手を上げて止めた。
「鳥見池の依利比古さまに使いを出せ」
「は」
若い武人が素早く去ってゆく。
「私は
国輝は警護頭にそう言いつけると、供を連れて
「ここで待て」
供の武人を離宮の回廊に留め、国輝は庭の殯家へ入って行った。薄暗い殯家の中には白木の寝台があり、その上に白い衣に身を包んだ長洲彦が横たわっていた。
「兄上……」
国輝はふらふらと寝台の前へ歩み寄ると、長洲彦に縋りつくように膝をついた。青白い長洲彦の顔は、今は穏やかだ。
この二十年、血のつながった兄より、長洲彦を本当の兄だと思って暮らしてきた。その兄を、娘を守るためとは言え、己の手で殺めた。本当に、これで良かったのだろうか。他に道はなかったのだろうか。長洲彦を殺したことを、心のどこかで悔んでいる自分がいる。
尹古麻の重臣たちは、長洲彦を国主として尊敬していた。しかし、長洲彦を殺した国輝を、簒奪者と罵る者は一人もいなかった。国輝が跡目を継いだことも、西から来た若造から国主を廃して王を名乗れと言われても、平然と受け入れている。
「兄上の跡目を継ぎ、私は王になりましたよ。依利比古の案ですが、どのみち恐れ多くて国主を名乗ることは出来ませんでした」
国輝の顔がくしゃりと歪んだ。
「かつて、
口をついて出るのは世迷言ばかりだ。
自分で思っているよりも、国輝は疲れ果てていた。長洲彦を失った尹古麻は、何もかもがぐずぐずだった。こんな時に、どう魔物に対抗すればいいのか、国輝にはわからなかった。
「兄上、宮の下女が、殺されました。きっと……依利比古が連れていた魔物が喰らったのです。我が娘の命は助かりましたが、このままでは尹古麻はめちゃくちゃです。私は、判断を誤ったのでしょうか? 兄上、どうか、助けて下さい。私はどうすれば……」
殺した相手に助力を懇願するなど、虫が良すぎるとわかっている。それでも、国輝には他に頼れる人がいなかった。
「あにうえ……」
長洲彦の遺体に取り縋り、国輝は涙を流した。
この殯家に入って、どのくらい時がたったのだろう。供の者が心配して見に来るかも知れない。こんな姿を下の者に見られたら、尹古麻は大変なことになる。背筋を伸ばして立ち上がらなくては。娘のために国主を死なせた自分には、尹古麻を背負って立つ義務がある。しっかりしなくては────。
白木の寝台に手をついて立ち上がりかけた国輝は、途中で固まった。ちょうど長洲彦の顔を見下ろす形になった時だった────カッと、長洲彦の両目が見開かれた。
「ひぃっ!」
国輝は、その場に尻餅をついた。腰が抜けて、立ち上がることが出来ない。
目を開けた長洲彦は、しかし、動き出すことはなかった。
国輝は床に手をつき、四つん這いになって殯家からまろび出た。
「国輝さま、どうかされましたか?」
供の武人が、離宮の回廊から慌てて下りてくる。
「だ、大丈夫だ。帰るぞ」
まだ腰には力が入らないが、国輝は何とか馬に乗った。ようやく落ち着いて周りを見ると、驚いたことに背後の山は黒く沈み、空は茜色に染まっていた。思ったよりも長く殯家に居たらしい。
夜になった火鑚の宮は、門を守る武人や、篝火の数がいつもよりも多かった。宮の警備をいつもより厳重にするよう命じたのだから当然だが、馬を降りて奥の門をくぐると、高殿前の広場に重臣たちが集まっていた。
「く、国輝さま!」
慌てた様子を見て、また何かあったのだとわかった。
「どうした?」
「そ、それが、また体の一部が見つかったのです」
「何だと……あの下女のものではないのか?」
「いえ……どうも、そうではないようです」
国輝は、重臣たちの足元に視線を落とした。地面に板が置いてある。その上に乗っていたのは、幼子のものらしい小さな足先だった。
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