十 夢の残り香


 幼い頃、アカルはよく癇癪を起した。

 上手くいかないことや、不甲斐ない自分に苛立って、よく泣きながら怒った。そんな時はいつも、鷹弥トーイが仕方なさそうにアカルを抱き上げ、頭を撫でてくれた。

 髪に触れる優しい手に慰められて、安心して微睡む────そんな懐かしい夢を見た。



 目覚めると、アカルは岩棚の下に横たわっていた。

 屋根のように張り出した岩棚の向こうに目を向けると、木々の枝や下草は真っ白な雪に覆われていた。

 すでに雪は止み、木々の梢の先には、白い雲の間に明るい薄青色の空が見えている。


 岩棚の入口には、誰かが熾した焚火がパチパチと燃えていた。岩の近くには馬がいて、木に手綱を結わえられたまま、静かに白い息を吐いている。人の気配はない。

 ぼんやりと辺りを見回してから、アカルは体に巻き付けてあった布を引き剥がした。ゆっくりと起き上がってその布を広げてみると、内側に鹿の毛皮が縫い付けられていた。


(なんだろう、これ?)


 きちんと縫製された鹿毛布はとても高価な物に見えた。少なくとも庶民の持ち物ではないだろう。

 起き上がれたものの、ずっしりと体が重かった。頭もぼんやりして、なぜ自分がここに居るのかよく分からない。現実がうまく繋がらないのだ。


 岩壁に竹の水筒が立てかけられているのを見て、アカルはとても喉が渇いていることに気がついた。

 水筒に手を伸ばし、ごくごくと飲み干す。水を飲んだ途端ブルっと寒気がして、アカルはもう一度、鹿毛布にくるまった。そうしていると、温かさと一緒に鹿の毛皮の匂いがした。よく手入れされているせいか、不快な匂いではない。その鹿毛の匂いに混じって、ふわりと、よく知った匂いがした。何の匂いだろうと考えて、気がついた。鷹弥の匂いだ。


「はっ、ばかばかしい……鷹弥がこんな所にいる訳ないのに」


 アカルは苦笑した。子供の頃の夢を見たせいで、埒もないことを考えてしまった。

 それでも、ここに自分以外の誰かがいたのは確かだ。

 昨夜眠る前、自分は何をしていたのだろう。そう思いながら、両手を後ろに回して地面に手をつくと、何かが指先に触れた。硬くてひんやりと冷たいものだ。振り返ると、岩壁の前に大振りの剣が横たわっていた。黒漆が塗られた鞘に、指先が触れていた。剣の横には、革ひもに通された美しい碧玉の勾玉があった。


 ヒュッ、と喉が鳴った。

 体が凍りついたように動かない。

 兼谷かなやの剣と、兼谷が首にかけていた翡翠の勾玉を見た瞬間、全てを思い出した。

 胸を刺し貫かれたような痛みに、アカルは呻き、両手で口を覆った。


(私の、せいだ……)


 涙が溢れて、止まらなかった。

 どうしてあの時、櫛比古くしひこの言葉を聞き入れ、大人しく與呂伎よろぎへ戻らなかったのだろう。そうしていれば、兼谷は命を落とさずに済んだのだ。

 アカルが尹古麻いこまへ行ったところで、長洲彦ながすひこを助けることなど出来なかったではないか。

 すべてが遅過ぎたのだ。運命の神と競争することなど、出来はしなかったのに、何の関係もない兼谷を、自分が巻き込んだ。


「……ごめん……兼谷……ごめんなさい」


 脳裏に、雪の降る闇夜が蘇った。

 幽体となった兼谷が、きらきらと光りながら空へ昇って消えてゆく。

 アカルは目を瞑ったまま、動くことが出来なかった。


 不意に、大切なことを思い出した。兼谷のむくろを放置したままだ。

 アカルはハッと顔を上げると、雪の中へ駆け出した。見つけ出して、埋葬しなければ。智至ちたるへ連れて帰ることは出来なくても、せめてそれだけは────。

 はっきりとした場所はわからない。けれど、淡海あわうみへ向かう小さな峠道だった。

 闇雲に走り、道らしき場所へ出たけれど、辺りは雪に覆われた地面が続くだけで、兼谷の躯を見つけることは出来なかった。


 とぼとぼと自分の足跡をたどって岩陰に戻ると、すでに焚火は消え、白い煙が風に細く棚引いていた。

 焚火の前に呆然と佇んでいたアカルは、雪の上に目を止めた。そこにある足跡は、自分のものしかない。アカルを助けてくれた誰かは、雪が止む前にここを去っていったのだ。


「焚火の人が、兼谷を埋葬してくれたのか?」


 剣や勾玉は、兼谷の遺品として遺してくれたのかも知れない。

 アカルは焚火の前に跪き、大地に頭をつけた。


「ありがとう……ございました」


 翡翠の勾玉を大切に懐の布袋に入れ、剣は鹿毛布にくるんで馬に乗せた。

 手綱を引いて山道を歩き、高台へ出た。そこで、アカルは思わず息を呑んだ。雪を積もらせた枝葉の先に、淡海が見えた。綺麗な青い煌めきが、ずっと遠くまで広がっている。

 美しい淡海の景色は、兼谷と過ごした與呂伎での日々に直結し、いつしか景色は涙でぼやけて見えなくなってしまった。



 〇     〇



 淡海の畔にある勢多せたの里。

 櫛比古くしひこの騎馬隊は、夜明けと共に出発の準備を始めていた。途中ではぐれたアカルたちを探す為だったが、出発する前に、峠に続く山道から馬に乗ったアカルが姿を現した。


「朱瑠! 大丈夫か、怪我はないか?」


 櫛比古は駆け寄って、馬から下りるアカルに手を差し伸べた。


「怪我はない。でも……兼谷が、死んだ」


 蒼白な顔で呟くアカルは、まるで幽鬼のようだった。

 櫛比古は、アカルの頭を胸に抱き寄せた。額に触れた手に熱を感じ、櫛比古は慌てて体を放すと、両手でアカルの顔を包んだ。


「熱があるぞ」

「……大丈夫です。與呂伎よろぎへ戻るのでしょう? 出発しましょう」


 櫛比古たちが出かけようとしていたのを、アカルは與呂伎へ戻る準備だと勘違いした。再び馬に乗ろうとするアカルを、櫛比古は止めた。


「與呂伎へは船で帰る。こっちだ」


 肩を抱いて歩き出す。細い肩は、支えていなければ倒れそうなほど、ゆらゆらと左右に揺れていた。

 船に連れて行き、風の当たらない屋形の中に座らせると、アカルはすぐに気を失った。


「可哀想なことをしてしまった……」


 昏々と眠るアカルは、いつも身に纏っている光を失くしている。櫛比古は痛ましげな眼差しで、アカルの髪をそっと撫でた。

 親しい者を亡くすのは辛いことだ。櫛比古自身、老巫女の予言通り長年の友を亡くした。彼を助けられなかった己の無力さに打ちひしがれてもいる。同じ悲しみがあるからこそ、櫛比古はアカルに深く同情した。


 眠り続けるアカルを乗せて、船は與呂伎へ向かって進んだ。



 〇     〇



「櫛比古さま、お願いがあるのですが……」


 與呂伎へ戻るとすぐ、アカルは智至ちたるへ行く船に乗りたいと願い出た。


「兼谷のことを、水生比古みおひこさまに報告しなければ……それに、一日も早く、この遺品を届けたいのです」


 そう言って、腕に抱えた剣に視線を向ける。

 櫛比古は、どうしたものかと溜息をついた。


「わかっていると思うが、この季節の海は荒れる。船が航行できる日は少ない」

「はい。でも、行き来がない訳ではないですよね? 一番早く出る船に乗せて下さい」


 心がいているのだろう。アカルは落ち着かない様子だった。


「朱瑠……そんなに思い詰めてはいけない。兼谷が死んだのはそなたのせいではない」


 櫛比古がそう言うと、アカルは目を瞠った。大きな目でじっと櫛比古を見返し、そして首を振った。


「いいえ、私のせいです」


 苦しそうに俯いてから、もう一度顔を上げた。


「でも、大丈夫です……わかっています。私が悲しんだところで兼谷は生き返らない。それに私は……自分がやらなければいけない事を、ちゃんとわかっています。それをどうやってやり遂げるかは、智至へ行ってから考えるつもりです」


 黒い瞳に悲痛な色を滲ませて、アカルは決意を示した。


「そなた……まさか?」


 恐る恐る尋ねる櫛比古に、アカルは答えた。


「はい。依利比古いりひこの傍にいる魔物は、私が必ず斃します」

  

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