九 逝く者
薄暗い空からは、いつの間にか粉雪が舞い落ちていた。
まだ雪の季節には少し早いはずだが、空気は深々と冷えている。日が落ちれば更に寒さが増すだろう。
(案外、積もるかも知れないな)
鷹弥は川岸を歩きながら、粉雪の舞う空を見上げてため息をついた。白くけむった吐息が、薄闇に消えてゆく。
日没が近くなった頃、川の右手に雄徳山の輪郭が見えはじめた。
この山に向かう
(そんな場所に俺が行って、どうなるというのだろう……)
雄徳山砦が近づくにつれ、鷹弥の歩みは遅くなった。
周りを見回しても、白鴉の姿はどこにも見えない。もしも、ここにアカルがいなければ、
そう思った時、馬蹄の轟きが大地を揺らした。
薄闇を蹴散らすような勢いで、騎馬の一団が雄徳山から飛び出して来た。最初に飛び出した二騎に続き、十騎以上の騎馬が一体となり、山裾から川に向かって駆け抜けてゆく。
その後を追うように、少し遅れて別の騎馬隊が駆け下りて来た。しかし、彼らは河原の手前で急停止すると、弓を手にし、背負った矢筒から矢を引き抜いている。
一斉に弓を構える騎馬隊。その中には、ひときわ大きな弓を持つ男────勇芹がいた。
彼らの矢が狙うのは、浅瀬を選んで渡河している騎馬の一団だ。
鷹弥は、川を渡る騎馬の一団を凝視した。薄暗く、はっきりとは見えない。黒っぽい衣は馬と溶け合って一つの影になっている。しかし、その中で、一つの影だけが目に留まった。周りの者たちよりも一回り小さな人影から、目が離せない。
「アカル……」
掠れた声で呟いた瞬間、騎馬隊めがけて矢の雨が降り注いだ。
ヒヒィーン
高く
鷹弥は息を呑んで、呆然と立ち尽くした。
安堵の思いとは別に、醜い気持ちが腹の中で頭を
矢の雨の中を、男の馬が猛然と渡河してゆく。鷹弥がどんなに走っても追いつない、遠い場所だ。
枯れ草の荒野に突っ立ったまま、鷹弥は遠くなってゆく彼らを見送るしかなかった。
(黒森を……追いかけなくては)
鷹弥が小さな戦場から視線を外すと、騎手を失った馬が川下へ逃げてくるのが見えた。アカルが乗っていた馬だ。
(……そうだ、この馬で、
鷹弥は浅瀬を渡り、逃げて来た馬の轡に手を伸ばした────ひときわ大きな弓音が響いたのは、その時だった。
勇芹の大弓が、矢を放った。
逃げ惑う騎馬の一団から遅れた一騎、その騎手の背に、矢が刺さった。
その背中を見て、鷹弥は息を呑んだ。居ても立っても居られずに素早く馬の轡をつかむと、鷹弥は猛然と川を渡った。
〇 〇
棹立ちになった馬から、アカルは兼谷の馬に乗り移った。腰をさらわれて、あっという間に横乗りになっていた。
「
抗議を込めて名を呼んだ。放っておいてくれても大丈夫だった。あのくらいで落馬などしない。二人乗りじゃ速度が出ないだろう。そんな抗議は、馬上の揺れに阻まれて言葉にはならなかった。
「黙って乗れ!」
兼谷の一言で、アカルは鞍の前に跨り、馬の首につかまった。
馬は必死に川を渡りきると、なだらかな河原を駆け出した。激しい揺れと人馬の熱気で、舞い落ちる粉雪は肌に触れる前に溶けてしまう。
アカルはそっと後ろへ振り返った。背の高い枯れ葦が見えた瞬間、目の前を矢がかすめた。
「馬鹿! 伏せてろ!」
思い切り頭をつかまれて、ぐいっと馬の首に押しつけられる。
「兼谷も伏せろよ!」
そう叫んだ時、後ろからドンっと衝撃を受けた。
「兼谷?」
アカルは振り返った。後ろにいる兼谷の胸から、
「前を、向いてろ……」
苦しげな声がした。アカルは馬の首にしがみついたが、兼谷の胸から生えた鏃が頭から離れなかった。気が動転して、上手く息が出来ない。
気がついた時には、辺りは闇に包まれていた。薄っすらと積もった雪が、森の中に道があると教えてくれていた。
森の中は静かで、櫛比古たちの姿は見えなくなっていたが、追手も来なかった。
「兼谷……もう大丈夫だから、手当てを、しなくちゃ」
体を捻って振り返ると、兼谷の体がぐらりと揺れた。彼の腕に巻き込まれるように、二人一緒に落馬した。
アカルは藻掻きながら起き上がると、兼谷の傍に座り込んだ。
「大丈夫か? 兼谷!」
「うっ……朱瑠……こ、からは、一人で行け」
兼谷は顔を歪めて、苦しそうに息をしている。
「冗談言うな! こんな所に置いていける訳ないだろ!」
アカルは
「とにかく、血を止めなきゃ……」
胸を貫いた矢は抜けない。余計に出血するだろうし、医術師でもない人間が触ってはいけない気がした。
アカルは首に巻いていた布を折りたたんで、兼谷の胸を押さえた。止血しながら必死に霊力を注ぎ込む。
「あんたは、こんな所で死ぬような奴じゃないだろう? 元気になって、また私の悪口を言ってくれなきゃ!」
月も星も出ていない夜なのに、何故か兼谷の顔が青ざめているのがわかった。
濃紺の衣は血に濡れて重くなっている。助かる傷ではないことは、頭ではわかっていた。それでもアカルは、その考えを頭から追い出した。
「聞いて、くれ────お前と……過ご……の一年……俺は、幸せ……た」
「やめろ! 聞きたくない!」
アカルは猛然と頭を振った。両手で耳を塞ぎたかったが、生憎両手は使えない。
「そう……わめくな」
兼谷の声に、かすかな苦笑が滲む。
「
「そんな昔の話! いいから、もう喋らないで!」
「これで、心……きなく逝ける」
「何言ってるんだよ! 馬鹿野郎! 死ぬなんて考えるな! 兼谷っ!」
「ア、カル……俺は……お前が────」
虚ろだった兼谷の目が、一瞬だけ光を取り戻し、ゆっくりと瞼が閉じてゆく。
「兼谷っ! 嫌だ……死ぬな、兼谷、兼谷ぁっ!」
アカルは傷口から手を放し、兼谷の頭を抱き起こした。彼の体を必死に揺さぶり、手のひらで彼の頬を叩いた。しかし、どんなに揺り動かしても、兼谷の瞼が開くことはなかった。まだ暖かい彼の体に、粉雪が降り積もってゆく。
アカルが呆然としていると、兼谷の体から光が溢れ、何かがふわりと立ち上がった。それは半分透き通った兼谷の幽体だった。生きている時と寸分違わぬ兼谷が、皮肉そうな笑みを浮かべてアカルを見つめている。
アカルは兼谷の頭を腕に抱いたまま、幽体の兼谷を見つめた。
熱いものが込み上げて、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「なんで……ずっと、側にいてやるって言ったじゃないか。嘘、つくなよ。あんたまで……私を一人にするのか?」
泣きながら問い詰めると、兼谷はやれやれ、とでも言うように首を振る。彼は手を伸ばしてアカルを抱きしめたが、その腕はアカルの体をすり抜けてしまう。そして、ふわりと浮き上がった。
「兼谷?」
アカルと重なっていた兼谷の幽体が、少しずつ上に引っ張られるように浮かび上がってゆく。すぐにアカルの背よりも高くなり、差し伸べた手すら届かない。
「嫌だ! 逝かないでよ……兼谷!」
アカルの懇願は聞き届けられず、兼谷の姿はどんどん高く遠くなってゆく。
やがて、その身に帯びた光さえも見えなくなった。
「いやだっ……いやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
暗い森の中に取り残されたアカルは、兼谷の亡骸を抱きしめて号泣した。
彼にはもう二度と会えない。そう思うだけで、身を斬られるように痛かった。
やがて長い時が過ぎ、アカルの泣き声が途切れた。
辺りは静まり返り、粉雪が降り積もる密やかな音だけが聞こえる。
さらさら、さらさら、静かに降り積もる。
その僅かな静寂を、粉雪を踏む足音が破った。
馬を引き、松明を手にした男が、うつぶせに倒れたアカルに近づいて行く。
キュッ キュッ
踏みしだかれる度に、粉雪が音を立てる。
彼────鷹弥は、意識のないアカルの傍に膝をつき、そっと抱き上げた。
雪を避けられる岩陰に運び、火を焚いた。
体を温めるために腕に抱いたアカルは、記憶していたよりもずっと軽く、細くなっていた。あの時、背に受けた傷が原因なのだろう。
過酷な逃走と愛する者を失った衝撃からか、アカルは発熱していた。目じりから頬にかけて、幾重もの涙の痕が痛々しい。
「アカル……」
鷹弥は指先で涙の痕を拭った。
「あの男を、愛していたのか?」
馬蹄を追っていた時、アカルが泣き叫ぶ声を聞いた。男が死んだのだと、その声を聞いてわかった。とても立ち入ることが出来ないほど、悲痛な声だった。
自分が死んでも、アカルはこんな風に泣き叫んでくれるだろうか。そんな虚しい問いが心に湧いてくる────いっそ、自分が死ねば良かった。
そんな風に考えている自分を、鷹弥は嗤った。
「アカル……お前は、どうか、生きてくれ」
焚火の炎が、アカルの頬を朱く照らしている。
鷹弥は腕の中で眠るアカルの体を、そっと抱きしめた。
さらさら、さらさら、粉雪は一晩中降り続いた。
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