八 山津波


 撤収の合図である狼煙のろしが消えた頃。

 依利比古いりひこは、尹古麻いこまの使者に案内されて火鑚ひきりの宮に入った。


 大門まで迎えに出ていた国輝くにてるや、尹古麻の重臣たちは、みな一様に暗い苦悩の表情を浮かべていた。

 通された広間の床板には、一か所、水をこぼして拭き取ったような湿った染みがあった。むろん、それが血を拭き取った跡なのだと依利比古にはわかっていた。そうなるように仕向けたのは、他ならぬ自分だからだ。


 都萬つま国の武人を引き連れて、依利比古は広間の高座に収まった。正面には、国輝をはじめ尹古麻の重臣たちが跪いている。


「速やかな受け入れを感謝する。お陰で無用な戦をせずに済んだ」

「は……」


 国輝が床に両手をつき、さらに頭を低くする。その姿に父の面影を見つけ、依利比古は艶やかな笑みを浮かべた。


「私はいずれ、この尹古麻の領地に八洲の都を築くつもりだ。それまでは、この火鑚ひきりの宮に滞在したいが、如何だろうか?」


「すぐに、宮を用意いたしましょう」

 目を伏せたまま、国輝は答えた。


「ところで、尹古麻の国主が交代されたとか。新しい国主は国輝殿か?」


「さようでございます」


「そうか。では今日より、国主ではなく王と名乗られては如何だろうか? 代々国主を戴いていた北海の大国智至ちたるでも、筑紫から婿入りした武早たけはや王からは、国主ではなく王という称号を使っている。この尹古麻でも、筑紫生まれの国輝殿が玉座に着くのであれば、この機会に、他国と同じく王という称号にされた方が良いのではなかろうか?」


「はい。そのように致します」


 何を言っても国輝は逆らわない。当然だ。今やこの瀬戸内で依利比古に逆らう者はいない。炫毘古かがびこの手を借り、いささか強引な進め方をしたが、手段よりも時間を選んだのは自分自身だ。これから遠い辺境の国々をまとめ、八洲を一つにするのだ。ゆっくりしている時間はない。


「では、国輝王が即位したことを、尹古麻中の里や砦に伝令を出せ。勇芹いさせり! わが軍からも護衛を。国境の砦にはそなたも行け」


「は!」


 勇芹が一礼して広間を出て行った。




 国輝が急ぎ準備した火鑚の宮の一画に、依利比古は住まいを移した。

 依利比古の宮が整うと、都萬国の武人たちも、河地湖の野営地から仮宮に荷物を移している。

 ガランとしていた高宮に、見知った調度品が置かれてゆくと、依利比古の気持ちはようやく落ち着いてきた。

 八洲統一の野望は着々と進んでいる。瀬戸内の国々を従え、尹古麻を手に入れた。嬉しい筈なのに、胸の底にあるこの落胆は何なのだろう。


 整えられた部屋でぼんやりと外を眺めていると、庭の黐木モチノキの枝にある、宝石のような赤い実が目に留まった。雲の垂れこめた薄暗い庭が、そこだけ光輝いて見える。

 赤い実に誘われるまま回廊へ出ると、冷たい風が依利比古の髪を舞い上げた。いつも肩口で切りそろえている髪は、いつの間にか背まで伸びている。


(そろそろ切るか結い上げるかしないと、鬱陶しいな)


 ぼんやりと考えてから、他国を侵略した日に髪のことを考えていた自分に苦笑する。

 再び赤い実に目を戻そうとした時、傍らに闇が凝った。闇は瞬く間に、月弓の姿になった。


「姫の呪いは、解いたのだろうな?」


 国輝を脅すため、彼の娘に呪いをかけた。尹古麻が降伏した後は、速やかにその呪いを解くように命じてあったが、彼がそれを実行したかは疑わしかった。

 依利比古が厳しい目を向けてそう問うと、彼はクスリと笑って頷いた。


「もちろん。ちゃんと解いたさ。痣が消えるまでは少し時間がかかるが、すぐにきれいな肌に戻る。それにしても、悲嘆に暮れるだけの姫君というのは、案外つまらないものだな」


 辺りに人の気配がないせいか、今の彼は炫毘古かがびこの口調だ。


「どうせ甚振いたぶるなら、朱瑠の方がよっぽど面白いのに。残念ながら、あいつはすっかり泡間あわいに姿を見せなくなった。つまらないな」


 そう言って肩をすくめる。


(まだ、朱瑠を探しに行っているのか?)


 炫毘古はよく姿を消す。依利比古が命じたことや、自分から言い出したことはするが、それ以外で依利比古の傍らにいることはほとんどない。この魔物がいつ自分から離れるのか────自分の興味や快楽を追及するあまり、いつ自分にその刃を向けるのか。そう考える度に依利比古は不安になる。自分の野望に手を貸した彼の本当の目的は何なのだろう。


 そんなことを考えたせいか、不意に、かしこの谷の景色が脳裏に閃いた。

 嫌な予感がした。


「炫毘古、畏の谷を堰き止めた始末は、つけたのであろうな?」


 依利比古が問いただすと、炫毘古は笑いながら首を傾げた。


「始末などしていないさ。だが、そろそろ堰が切れている頃かも知れないな」

「……なんだと?」


 ドクンと胸に痛みが走った。


狭嶋さしま! 狭嶋はいるか?」


 大声で叫ぶと、何処からか狭嶋が走って来て、庭先に跪いた。


「畏の谷を埋めた堰が決壊するかも知れん。すぐに河地かわち国へ使いを出し、避難させろ。いや、小隊を出して広範囲に使いを出せ!」


「は!」


 一礼をして、狭嶋が駆け出してゆく。それに入れ違うように、宮の回廊に兵がやって来て膝をついた。


「申し上げます! 山頂の砦より伝令が参り、河地湖の南部一帯が泥流に覆われたと────」


「……なんだって?」


 依利比古は震えた。嫌な予感が早くも的中してしまったことに、悪寒が止まらない。しかし、今は一刻の猶予もない。


「狭嶋に使いを送るよう命じたばかりだが、尹古麻の兵も使って救援に向かわせろ! 助けられる者は全て助けよ! 急げ!」


「はっ!」


 伝令の兵が去ってゆくと、依利比古は動き出した。馬を引かせて、山の砦に向かう。

 空は相変わらず雲が垂れこめ、今にも雨が降りそうだ。山頂に近づくにつれて気温は下がり、山裾の宮にいた時と同じ服装では凍えるように寒くなった。


 山頂の砦には、国輝も来ていた。尹古麻の兵に何か指示を出している。彼は依利比古に気づくと、暗い目をしたまま深々と頭を下げたが、こちらに近づいては来なかった。


 依利比古はやぐらに上った。南へ目を向けると、河地湖の南に茶色い帯が見えた。もともとあった川の流れや、その岸辺にあった集落が跡形もなく消えているのが遠目にもわかる。その場所は、依利比古が今朝まで野営していた場所でもあった。

 川に沿って田畑が広がる、豊かで美しい里があった。あの場所に確かに生きていたたくさんの命が、今は山津波の泥流の下にある。


 鳥見池とみいけの氾濫は、確かに尹古麻を追い詰めただろう。畏の谷を埋めたのは炫毘古だが、彼の弄した策を厳しく諫めたつもりで、その実、放置していた。


(何故あの時、奴が土砂を取り除くまで見届けなかったのだ……)


 後悔で目の前が真っ暗になった。背筋を伝う寒気が収まらない。

 炫毘古の言うとおり、心のどこかでは、自分に逆らう河地の王を疎ましく思っていた。濁流に押し流されてしまっても構わない。そんな風に思っていたのかも知れない。


(私の……せいか?)


 依利比古は、呆然と茶色い帯を見つめ続けた。

 その視界を、月弓の長い黒髪が遮った。風に弄られ、横に靡いている。

 依利比古と同じように南を見ていた月弓が、こちらへ振り向いた。にっこりと、目を細めて笑う。


「良かったじゃないですか。これで、誰もが依利比古さまを畏れ敬います。あなたに逆らう国は、天の裁きにあうと知らしめたのですよ。最早どの国も、河地国の悲劇を忘れないでしょう」


 月弓の────炫毘古の言葉が胸に突き刺さる。

 二度と戻れない分岐点を、自分は行き過ぎてしまったのだろうか。

 櫓の柵をつかむ依利比古の指が小刻みに震えた。

  

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