八 山津波
撤収の合図である
大門まで迎えに出ていた
通された広間の床板には、一か所、水をこぼして拭き取ったような湿った染みがあった。むろん、それが血を拭き取った跡なのだと依利比古にはわかっていた。そうなるように仕向けたのは、他ならぬ自分だからだ。
「速やかな受け入れを感謝する。お陰で無用な戦をせずに済んだ」
「は……」
国輝が床に両手をつき、さらに頭を低くする。その姿に父の面影を見つけ、依利比古は艶やかな笑みを浮かべた。
「私はいずれ、この尹古麻の領地に八洲の都を築くつもりだ。それまでは、この
「すぐに、宮を用意いたしましょう」
目を伏せたまま、国輝は答えた。
「ところで、尹古麻の国主が交代されたとか。新しい国主は国輝殿か?」
「さようでございます」
「そうか。では今日より、国主ではなく王と名乗られては如何だろうか? 代々国主を戴いていた北海の大国
「はい。そのように致します」
何を言っても国輝は逆らわない。当然だ。今やこの瀬戸内で依利比古に逆らう者はいない。
「では、国輝王が即位したことを、尹古麻中の里や砦に伝令を出せ。
「は!」
勇芹が一礼して広間を出て行った。
国輝が急ぎ準備した火鑚の宮の一画に、依利比古は住まいを移した。
依利比古の宮が整うと、都萬国の武人たちも、河地湖の野営地から仮宮に荷物を移している。
ガランとしていた高宮に、見知った調度品が置かれてゆくと、依利比古の気持ちはようやく落ち着いてきた。
八洲統一の野望は着々と進んでいる。瀬戸内の国々を従え、尹古麻を手に入れた。嬉しい筈なのに、胸の底にあるこの落胆は何なのだろう。
整えられた部屋でぼんやりと外を眺めていると、庭の
赤い実に誘われるまま回廊へ出ると、冷たい風が依利比古の髪を舞い上げた。いつも肩口で切りそろえている髪は、いつの間にか背まで伸びている。
(そろそろ切るか結い上げるかしないと、鬱陶しいな)
ぼんやりと考えてから、他国を侵略した日に髪のことを考えていた自分に苦笑する。
再び赤い実に目を戻そうとした時、傍らに闇が凝った。闇は瞬く間に、月弓の姿になった。
「姫の呪いは、解いたのだろうな?」
国輝を脅すため、彼の娘に呪いをかけた。尹古麻が降伏した後は、速やかにその呪いを解くように命じてあったが、彼がそれを実行したかは疑わしかった。
依利比古が厳しい目を向けてそう問うと、彼はクスリと笑って頷いた。
「もちろん。ちゃんと解いたさ。痣が消えるまでは少し時間がかかるが、すぐにきれいな肌に戻る。それにしても、悲嘆に暮れるだけの姫君というのは、案外つまらないものだな」
辺りに人の気配がないせいか、今の彼は
「どうせ
そう言って肩をすくめる。
(まだ、朱瑠を探しに行っているのか?)
炫毘古はよく姿を消す。依利比古が命じたことや、自分から言い出したことはするが、それ以外で依利比古の傍らにいることはほとんどない。この魔物がいつ自分から離れるのか────自分の興味や快楽を追及するあまり、いつ自分にその刃を向けるのか。そう考える度に依利比古は不安になる。自分の野望に手を貸した彼の本当の目的は何なのだろう。
そんなことを考えたせいか、不意に、
嫌な予感がした。
「炫毘古、畏の谷を堰き止めた始末は、つけたのであろうな?」
依利比古が問いただすと、炫毘古は笑いながら首を傾げた。
「始末などしていないさ。だが、そろそろ堰が切れている頃かも知れないな」
「……なんだと?」
ドクンと胸に痛みが走った。
「
大声で叫ぶと、何処からか狭嶋が走って来て、庭先に跪いた。
「畏の谷を埋めた堰が決壊するかも知れん。すぐに
「は!」
一礼をして、狭嶋が駆け出してゆく。それに入れ違うように、宮の回廊に兵がやって来て膝をついた。
「申し上げます! 山頂の砦より伝令が参り、河地湖の南部一帯が泥流に覆われたと────」
「……なんだって?」
依利比古は震えた。嫌な予感が早くも的中してしまったことに、悪寒が止まらない。しかし、今は一刻の猶予もない。
「狭嶋に使いを送るよう命じたばかりだが、尹古麻の兵も使って救援に向かわせろ! 助けられる者は全て助けよ! 急げ!」
「はっ!」
伝令の兵が去ってゆくと、依利比古は動き出した。馬を引かせて、山の砦に向かう。
空は相変わらず雲が垂れこめ、今にも雨が降りそうだ。山頂に近づくにつれて気温は下がり、山裾の宮にいた時と同じ服装では凍えるように寒くなった。
山頂の砦には、国輝も来ていた。尹古麻の兵に何か指示を出している。彼は依利比古に気づくと、暗い目をしたまま深々と頭を下げたが、こちらに近づいては来なかった。
依利比古は
川に沿って田畑が広がる、豊かで美しい里があった。あの場所に確かに生きていたたくさんの命が、今は山津波の泥流の下にある。
(何故あの時、奴が土砂を取り除くまで見届けなかったのだ……)
後悔で目の前が真っ暗になった。背筋を伝う寒気が収まらない。
炫毘古の言うとおり、心のどこかでは、自分に逆らう河地の王を疎ましく思っていた。濁流に押し流されてしまっても構わない。そんな風に思っていたのかも知れない。
(私の……せいか?)
依利比古は、呆然と茶色い帯を見つめ続けた。
その視界を、月弓の長い黒髪が遮った。風に弄られ、横に靡いている。
依利比古と同じように南を見ていた月弓が、こちらへ振り向いた。にっこりと、目を細めて笑う。
「良かったじゃないですか。これで、誰もが依利比古さまを畏れ敬います。あなたに逆らう国は、天の裁きにあうと知らしめたのですよ。最早どの国も、河地国の悲劇を忘れないでしょう」
月弓の────炫毘古の言葉が胸に突き刺さる。
二度と戻れない分岐点を、自分は行き過ぎてしまったのだろうか。
櫓の柵をつかむ依利比古の指が小刻みに震えた。
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