六 地獄で・・・
夜が明けると、
「使いに出した兵は、まだ戻らぬのか?」
昨夜差し向けた使者は、まだ戻っていない。長洲彦は腕組みをしたまま、苛々と辺りを動き回っている。
「兄上、一度宮へ戻りましょう」
朝餉もまだだ。王が食べねば、将兵たちは落ち着いて朝餉を取ることも出来ない。国輝は、苛立つ長洲彦を宥めすかして山を下りた。
「遅くなり、申し訳ありませんでした。敵の総大将は
使者に出た将はそう前置きをして、懐から木簡を取り出した。細い木板を紐で連ねたものだ。
「依利比古王から、これを預かって参りました」
ゆっくりとした動作で、長洲彦に手渡す。
長洲彦は乱暴に木簡を広げた。
「なんだと!」
腹立ちまぎれに、読み終わった木簡を床に投げつける。
国輝は、長洲彦が床に打ち捨てた木簡を拾い上げると、すばやく目を通した。
「これは……」
書簡の内容に驚いて、長洲彦や広間にいる者たちを見回した。皆の目が、内容を知りたそうに国輝を見つめている。
「依利比古王は……八洲を一つの国にしたいと言っている。一つの国になれば戦も無くなり、大陸との交易も有利になる。国々の統治は各国の王に任せるが、八洲全体の統治は、各国の王から選ばれた
国輝が言葉を切ると、広間は騒然とした。依利比古を疑う声と、八洲の中心だと言われたことに喜ぶ声など様々だ。
「まだ、続きがある……依利比古王に従うなら、尹古麻の国も、王も、そのままで良い。大王の御座所として、どの国よりも繁栄するだろう。ただし、一矢でも歯向かえば、尹古麻の王族は一人残らず抹殺し、国土は都萬国の管理となる。考える時間は明日の夜明けまでとする────」
「騙されるな!」
シンと静まった広間に、長洲彦の声が響いた。
「奴の言葉が正しいのなら、何故今まで使者の一人も寄越さず、話し合いの席を持とうとしなかったのだ? そうすれば、わざわざ国を兵で囲み、脅すような真似をする必要はなかろう? 本心から戦をなくしたいと言うなら、当然そうすべきだろうが!」
長洲彦は立ち上がった。腰に帯びた鉄剣をスラリと抜き放つ。
「八洲を統一するだと? 王の中から大王を選ぶだと? 依利比古は己を大王にするつもりに決まっている! ただの侵略者だ! わしの目が黒いうちは、この尹古麻は渡さん!」
「兄上……」
国輝の顔がくしゃりと歪んだ。
長洲彦とは長い付き合いだ。国輝が数少ない供回りを連れてこの国にやって来た時から、長洲彦には本当に良くしてもらった。住む場所を与え、仕事を与え、尹古麻の民に受け入れられるよう、心を砕いてくれた。
(まさか、こんなことになるとは……)
国輝も、ゆるゆると剣を抜き放った。
若き日の国輝が尹古麻に来たのは、父王の命令だった。父は瀬戸内を狙っていたが、混乱する筑紫を離れる事が出来なかった。だから、世継ぎではない息子を尹古麻へ送った。尹古麻へ来たばかりの頃は、いつ父から密使が来るのではと毎日のように恐れていたが、兄が王位を継いでからはすっかり忘れ去られた。
もともと治水や農業に興味があった国輝には、鳥見池の豊かな水や、その周りに広がる水田は理想郷だった。彼は初めから他国を侵略するつもりなどなかった。国を出られたことや、
「兄上……」
抜き放った剣を高々と掲げた長洲彦が、お前も来いと言うように手を差し伸べてくる。それに答えるように、国輝は歩き出した。
彼の為ならどんな事でもしよう。二人で力を合わせて、尹古麻を豊かな国にしよう。そう誓い合った。その気持ちに偽りなどなかった。
「兄上……お許しください!」
国輝はそう叫ぶと、両手で剣の束を構え、そのまま長洲彦に駆け寄った。
ずぶりと、剣が体に突き刺さる感触がした。溢れる血潮にまみれた長洲彦の顔が、目が、国輝を凝視していた。
「な……なぜじゃ」
「む、娘が……魔物に呪いをかけられました。もしも一矢でも歯向かえば、命はないと……」
くしゃりと歪んだ国輝の顔は、涙で濡れていた。
縋るように、長洲彦の大きな体を力一杯抱きしめた。彼の逞しい肩に額を乗せ「許してください」と囁いた。
────二年前、
彼に会わなければ、こんな事にはならなかった。あの時、使者にさえならなければ────国輝は過去の自分を恨めしく思った。
声を掛けられた時は、何を命じられるのか気が気ではなかった。しかし甥は、兄を嫌い国輝に同情してくれた。優しい甥だと思った。
しかしその翌年、甥はすっかり変貌していた。兄を殺して来たと言った彼は、瀬戸内を、ゆくゆくは八洲を手に入れたいと言ってきた。
手を貸せば息子を世継ぎにしてやると誘われたが、国輝はことごとく断った。すると、彼が連れて来た不気味な従者が、知らないうちに娘に呪いをかけた。手首に浮かんだ黒い痣が少しずつ広がり、首から顔に這い上がると、娘は自分の宮から外へ出なくなった。悲嘆に暮れるあまり、自ら死のうとした。娘を見張り続ける妻の鳥見姫は、憔悴しきっている。
長洲彦の性格はわかっていた。彼は懐の深い男だが、この国を何よりも慈しんでいる。娘の命と引き換えに、国を差し出すような男ではない────このままでは娘が殺されてしまう。
国輝には、娘の命よりも国を選ぶことなど出来なかった。
「この償いは……地獄で、必ず」
抱きしめたまま、長洲彦の耳にそう囁く。
力を失った長洲彦の体が、ゆっくりと崩れ落ちてゆく。血に濡れた剣の束がぬるりと滑り、国輝の手から離れてカランと音を立てた。
「これより……我が国は大王の軍に
国輝はか細い声を張り上げた。
シンと静まり返った広間に、動く者は一人もいなかった。
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