五 炎の首環
雄徳山の砦を朝出発し、途中で幾度か休憩を挟んだが、川沿いの山道を抜けて尹古麻谷に入る頃には、ずっしりと体が重くなっていた。
(わしも年を取ったものだ……)
今でも剣を持ち、兵を鼓舞して戦う気概はあるつもりだが、体の方は正直に悲鳴を上げている。馬から下りて宮の馬番に手綱を渡すと、長洲彦は気力を振り絞って胸を反らした。
大門をくぐった時、宮を包む空気に異変を感じた。もしや、
「長洲彦さま!」
正面にある高殿の
「どうした、国輝。鳥見池に行かせた兵が戻ったか?」
「は、はい。それが、途方もないことが起きていたのです……」
「まぁ、まずは落ち着け。座って話そうではないか」
何とか落ち着かせようと、国輝の肩をバシバシ叩きながら階を上った。しかし、国輝は一向に落ち着かず、広間に座るなり驚くべき報告をした。
「あ、兄上も、聞けば落ち着いてなど居られません。戻って来た兵の話では、
「何だと?」
俄かには信じられない話だった。確かに、畏の谷は地滑りの多い危険な場所だが、
蛇神が出るなどという話は聞いたことがなかった。
「それだけではありません。つい先ほど、山頂の砦から使いが来ました。尹古麻の山地をぐるりと囲む篝火があると言うのです。何者かが、この尹古麻を包囲しているのですよ!」
国輝は怯えていた。尋常ではないその様子に、長洲彦は内心首をひねった。彼は確かに豪胆な男ではないが、臆病でもなかったはずだ。自分の不在中、不可解なことが立て続けに起こったせいで、疲れているのだろう。そうとしか思えないほど、国輝の様子はおかしかった。
「まずは、その篝火をこの目で見なくてはな」
長洲彦は立ち上がった。疲れきった体は、山頂の砦まで行く頃には使い物にならなくなっているだろうが、そんな事を言っている場合ではなかった。
「山に強い馬を引けぃ!」
北に横たわる低い山々の頂きには、北東に向かって転々と篝火の炎が続いている。篝火と言うより、
「くっ……」
長洲彦は歯ぎしりしながら北の山地を眺めた。ついさっき、あの山を越えて来たばかりだ。烽火をつけた輩は、すぐ近くに潜んでいたはずだ。何も気づかず通り過ぎた自分に、無性に腹が立った。
しばらくの間、長洲彦は燃えるような目で北の山地を見つめていたが、不毛な怒りを振り切るよう砦の西側へ歩み寄った。
「こちらは山裾か?」
「はっ。河地湖に沿って南まで続いています」
兵の言う通り、山裾に炎の首環のような篝火が点々と焚かれていた。暗い河地湖の湖面に、炎の色を映している。闇に呑まれて兵の姿は見えないが、相当な兵力がなければこのような事は成し得ない。尹古麻の山地を半分囲むのに、一体どれだけの兵がいるのだろう。そう考えてから、長洲彦はハッと息を呑んだ。慌てて東側へ向き直り、
ホッと胸をなでおろし、国輝に向き直る。
「まずは何処の兵か知らねばならぬ。使者を出したいが、首謀者の居場所がわからぬな」
「使者を出して……どうなさるおつもりですか? 相手の兵力は相当なものです。万が一戦にでもなれば、平和な
山の上は冬のような寒さだと言うのに、国輝はその細面に汗を浮かべていた。
長洲彦は眉をひそめて国輝を睨んだ。
「何が言いたい?」
「戦になる前に、民の事をお考え下さい! 彼らは、たび重なる鳥見池の氾濫と戦いながら、田や集落を守ってきたのです。そんな鳥見の民を────」
「おぬしは、わしに降伏しろと言っておるのか? 何故だ? 遥か昔から、先住の民と共に鳥見の地を育んできたのは我らだ! それを……布告もなく戦を仕掛けるような外道の輩に、何故我らが降伏せねばならぬのだ?」
「兄上の気持ちはわかります。しかし、我が国の兵は、田や里を荒らす盗賊どもとしか戦ったことはありません! それに、時を同じくして現れた、
血を吐くような国輝の言葉に、怒りに滾っていた長洲彦の血潮は、ゆっくりと冷めていった。
「まずは、敵の言い分を聞くしかあるまい。使者を出せ」
やっとのことで、そう告げた。
国輝は、将のひとりに数人の兵をつけて、河地湖の畔に使者を出した。それを見守りながら、長洲彦は久しぶりに会った友、
(巫女の予言など信じなかったが……おぬしが、わざわざ
そう思った途端、櫛比古の後ろに侍っていた若い娘を思い出す。妃を失くしてから、櫛比古が女を伴っていたことは無かった。思えばあれが、
(わしは、もう少し、おぬしの話に耳を貸すべきだったな)
後悔の念があとからあとから湧いてくる。しかし、もう遅い。今は出来る事をするしかなかった。
(すまぬ、櫛比古殿)
長洲彦は夜空を見上げた。半分ほど欠けた月が、雲の間から覗いていた。
〇 〇
櫛比古の一行は、昨夜遅くに、
舟を漕いできた武人たちは、疲れ果ててまだ泥のように眠っているが、一人だけ早くに目覚めたアカルは、集落を出て
辺りは霧に包まれていて何も見えない。湖面は穏やかで、時おり佐々波が立つ程度だ。
アカルも疲れていたが、岩の巫女の予言が気になってあまり眠れなかった。
長洲彦は、尹古麻は大丈夫だろうか。何も起きなければいいのに。そう願えば願うほど、アカルの不安は大きくなった。
「鴉の王!」
霧で真っ白な空に呼びかけると、何処からか白い鴉が現れて、すぐ近くの細木にとまった。
『久しぶりだな、アカル!』
嬉々として答える白鴉を前に、アカルは一瞬言葉を詰まらせた。
「本当は……こんなこと頼みたくないんだ。人の子の争いに、鴉の王を巻き込むことは、してはいけないとわかっているんだ。でも……」
『尹古麻の様子を見てきて欲しいんだろ? お嬢ちゃんの考えくらい、オレにはわかるさ』
アカルは驚いて白鴉を見つめた。
「鴉の王……」
『宮の中までは入れないと思うけど、空から様子を見るだけなら行ってやるよ』
白鴉は嘴を大きく上げて、仕方ないなぁと言う。
「ありがとう、鴉の王……そうだ、これ」
アカルは懐から削り花を取り出した。手のひらに乗せて白鴉の方へ差し出す。思えば、都萬国の真砂島で自分の小刀を失くしたきり、長いこと作っていなかった。朝早く目覚めて思い立ち、
『まかせておけ!』
白鴉はアカルの手のひらから、パクリと削り花を丸呑みした。
『アカルの力は、やはり気持ちのいい光に溢れているな』
陶酔するように目をつむった後、白鴉は羽を広げて羽搏いた。
『行ってくる!』
カァー、と一声鳴いて飛び立つと、白鴉はあっという間に白い霧の中に消えていった。
「────朱瑠」
白鴉の消えた空を見上げていると、背後から声を掛けられた。振り返ると、霧の中に櫛比古が佇んでいた。
「今のは、古の神か?」
「はい……尹古麻が気になって、様子を見てきて欲しいと頼みました」
「そうか……」
櫛比古はアカルの隣に来ると、白い湖面に目を向けた。
「私は、やはり尹古麻へ行こうと思っている。今度は馬で陸路を行くつもりだ。そなたは、このまま與呂伎へ戻り、里へ帰りなさい」
「え?」
アカルは櫛比古に抗議の目を向けた。
櫛比古はゆっくりと向き直り、憐れむような目でアカルの視線を受け止めた。
「今度は戦になるかも知れぬ。そなたを危険な目にあわせる訳にはいかないのだ。聞き分けてくれ」
「嫌です! 私も行きます! どうか連れて行って下さい!」
アカルは揺るがぬ決意を込めて、櫛比古を見つめた。
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