七 交錯


 狼煙のろしが消えた。

 上空で棚引いていた白い煙が、尹古麻いこま山の麓を起点に一つずつ消えてゆく。北の山頂にいた鷹弥には、合図が伝播してゆく様子がよく見えた。


「撤収の合図ですね」

「ああ。火の始末をしたら、山を下って姫比きびへ戻るぞ」


 予定通り、戦にはならなかった。裏にどんな策略があったのかは知る由もないが、これで依利比古が尹古麻を手に入れたことは間違いない。腹の底にざわりとした不安が残るが、今は兵を姫比へ帰すことが重要だ。

 兵たちを先に行かせ、鷹弥は最後に山を下りはじめた。船を隠した水際までは、しばらく歩かねばならない。昨日まで青く澄み渡っていた空は、今は一面灰色の雲に覆われている。昨日に比べると気温も格段に低い。


(降らなければいいが……)


 この寒さで雨に濡れたくはない。空を振り仰いでそう思った時、灰色の空を飛んで行く白い鳥が目に入った。


(あれは……)


 白鴉だった。見間違うはずはない。岩の里にいた時から、幾度となく目にしてきた。あの白い姿を追って旅したこともある。しかし、何故ここに────。


「あれは、朱瑠さまの白鴉ではありませんか?」


 前を歩いていた黒森が目ざとく気づき、振り返ってそう言った。


「追って行かれますか?」

 意味ありげに鷹弥を見上げる。


「いや、必要ない」


 鷹弥はかぶりを振った。

 追ったところでどうにもならない。もう二度と、アカルの前に姿を現さないと決めたのだ。


「北東の方へ飛んで行きましたね。巨椋池おぐらいけの方角ですよ」


 額に手をかざして遠くを見る黒森を、鷹弥は小突いた。


「黙って歩け」



 黙々と山を下り、河地湖かわちこの畔まで来た時、騎馬の一団が近くの川筋から姿を現した。


「どう、どーう!」


 二十騎ほどの小隊を率いてきた先頭の男が、鷹弥の姿を認め、馬を止めた。


「鷹弥殿、これから出航ですか?」


 男は依利比古の配下で、勇芹いさせりという武人だった。


「はい。貴殿はどちらに?」


「依利比古さまの命で、雄徳山の砦に行く途中です。尹古麻の国主が、国輝くにてるさまに変わったことを伝えねばなりません」


 勇芹は誇らしげな様子だったが、連れていた騎馬の半数は、身に着けた武具の違いから、尹古麻の武人のように見えた。彼らは一様にうつむいて複雑な表情を浮かべている。


「では、いずれまた」


 挨拶を交わし、騎馬の一団を見送る。向かう方角は、白鴉と同じだった。


「尹古麻の国主は、国輝と言っていましたね。だとすると、依利比古さまは?」

「さぁ、国主の上に立つつもりなんじゃないか?」


 黒森の言葉に、鷹弥は東を見つめたまま答えた。

 依利比古が一国の領主で収まるつもりがないことは、都萬つま国を放置している時点でわかっていた。そんな事よりも、今は白鴉と勇芹が向かった方角が同じことが気にかかる。


「やはり、白鴉を追った方が良いのでは?」


 そう言われて、鷹弥は黒森に向き直った。彼の瞳に浮かぶ気遣わしげな光を見て、素直に頷いた。このまま姫比へ戻っても、きっと心が残ってしまう。


「お前は兵を連れて、先に姫比へ戻ってくれ。運が良ければ針磨はりまで追いつく。何が有ろうと、必ず姫比へ帰る。心配するな」


 黒森は一瞬驚いたように目を瞠ったが、すぐに笑って頷いた。


「わかりました。姫比へではなく、と言ってくれましたね。お陰で安心して送り出せますよ。鷹弥さま、どうか、お気をつけて」


「黒森も」


 鷹弥は口を堅く引き結んだ。



 〇     〇



 門前から見る雄徳山の砦は、不穏な空気に包まれていた。

 櫛比古くしひこの一行は與呂伎よろぎへは戻らず、馬を集めてすぐに雄徳山砦へ向かった。アカルも櫛比古の反対を押し切って、共にこの砦まで来ていた。

 たった数日離れただけなのに、あの時とは明らかに違う空気が砦を包んでいる。

 騎乗したまま砦の門前で待たされていること自体、前とは違っていた。


「嫌な予感がする」


 アカルがそう言うと、櫛比古も無言のまま頷いた。

 巨椋池の北にたどり着いた時、白鴉からの報せを聞いた。尹古麻は多くの軍勢に囲まれて、不穏な空気が漂っていたというものだ。しかし、それよりも前から、言葉に出来ない不安が心を覆っていた。急いで駆けつけたものの、すでに遅かったのではないか。そんな最悪の予感が、アカルと櫛比古の心を苛んでいる。


「何かあれば、すぐに撤収する。はぐれても隊を探すな。単騎でも淡海あわうみを目指せ」


「は!」


 與呂伎よろぎの武人たちの声が低く響く。

 やがて、ギィーと軋む音を立てて門扉が開いた。正面には、すでに顔見知りとなった砦の長が立っていたが、その後ろには見知らぬ武具に身を固めた一団が立っていた。


「櫛比古さま……申し訳ありません。どうか、このままお引き取りください」


 砦の長は、苦悩の表情を浮かべてそう言った。火鑚ひきりの宮まで同行して欲しいという櫛比古の願いは、退けられた。


「理由を聞いても、良いだろうか?」


 落ち着いた口調で櫛比古が問うと、長の後ろにいた偉丈夫が前に進み出た。


「尹古麻はいま、国主の交代で混迷しております。とても客人を迎える余裕はございません。しかしながら、ただ追い返すのも申し訳ない。用向きをうかがってもよろしいでしょうか、與呂伎の櫛比古さま?」


 そう言って、武人は櫛比古の馬の前まで近寄ってくる。


「国主が交代……長洲彦ながすひこ殿とは先日お会いしたばかりだ。国主交代の仔細を教えて欲しい」


「私も、詳しい事は知りません。ただ、長洲彦さまが急な病に倒られた、と聞いております」


 そう言いながら、男が馬の轡に手を伸ばしてくる。

 櫛比古は素早く馬首をめぐらせると、眉をひそめて男を見下ろした。


「そなたは? 尹古麻の者とは思えぬが」

「私は、故あって尹古麻の警護を仰せつかっている、勇芹と申します」


 その名を聞いて、アカルはハッとした。顔も名前もはっきり覚えていた訳ではない。ただ、どこかで見た覚えがあった。名を聞いて、はっきりと思い出した。

 櫛比古と対峙している武人は、都萬つま国の武輝たけてる王配下の武人で、アカルを捕らえに来た男だ。忘れたい記憶までが掘り起こされて、アカルは声を上げた。


「櫛比古さま、彼は都萬国の武人です!」


 叫んだ瞬間、勇芹がアカルに振り向いた。息を呑んで、瞠目している。


「なぜ、お前がここに?」


 勇芹は怯えたように、一歩退いた。


「お前こそ……まさか、都萬王が来ているのか?」


 アカルが問い返すと、勇芹はアカルの怯えを悟ったように、口元に笑みを浮かべた。


「武輝さまは亡くなった。今の王は依利比古さまだ」

「何だって?」


 アカルが息を呑むと、勇芹が手を上げた。彼の背後に控えていた兵たちが、槍や鉾を手に殺気を放つ。


「朱瑠、走れ!」


 櫛比古が、アカルに向かって手を振った。


「はい!」


 アカルは叫んで馬首をめぐらした。そのまま前だけを見て山道を駆け下る。

 背後からは、人馬が入り乱れるような音が追って来ていた。

  

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