八 梟


 おぎゃー おぎゃー

 夜風に乗って、遠くから赤子の鳴き声が聞こえてきた。


「無事に……生まれたのね」


 淡々と呟いて、十世とよは小さなため息をつく。

 十世が真砂島まさごじまの神殿から、安波岐あわきの西の宮に居を移して、すでに半年以上が過ぎていた。


 立ち上がって御簾をくぐり、中庭を囲む回廊へ出る。見上げると、冴え冴えとした冬の空に細い月が出ていた。

 冷たい夜風に、思わず両腕を抱いて縮こまるが、今の十世にはそれくらいの寒さが丁度良かった。


 赤子を生んだのは依利比古いりひこの妻、愛良あいらだ。母子がいる産屋はここからは見えないが、喜びに沸く声は聞こえてくる。


「男御子じゃ!」


 野太い声は、愛良の父、祖於そお隼人の王だろう。


「よう、ございましたね」


 十世の傍らにいた侍女は柔らかな笑みを浮かべたが、正直複雑な気持ちだった。

 真砂島まさごしまから安波岐あわきの宮へ移ったのは、今年の春のことだ。依利比古の命だと言われ、神殿の巫女を連れて住まいを移したが、彼は既に船出した後だった。


 この宮で起こった惨劇を、十世は遠視で知った。本当はその前から知っていたが、誰にも話さなかった。依利比古が実の父と腹違いの兄を惨殺する。誓約の折に見た先視はあまりに恐ろしく、依利比古に問いただすことも出来なかった。先視が外れることを、ただ願っていた。


 十世には、武輝王の死を悼む気持ちは少しもない。あの男は、最初から日の巫女に対する敬意を持っていなかった。都合よく使える呪術師。利用価値がなくなれば簡単に切り捨てる。そんな不敬な男は、死んで当然だった。

 武輝の死後、都萬国の都はこの安波岐に移り、かつて王都として栄えていた西都さいとは、今では武輝らの墓所と成り果てている。


 十世は、依利比古が心配だった。武輝殺害を決めたのは、本当に彼自身だったのだろうか。もし魔物と手を組んだ結果なのだとしたら、彼はいずれ人の心を失くしてしまうのではないだろうか。


(依利比古さま……あなたは私に、愛良姫と一緒にこの都萬つま国を守れと言うのですか?)


 安波岐に仕える武人の半数は、既に祖於隼人に入れ替わっている。愛良の出産を心配した祖於の王は、今後も居続けるだろう。別に不満があるわけではない。ただ、十世は自分の立ち位置に戸惑っていた。

 武輝の死と共に、南那なな国への呪詛は取りやめた。今の十世には、日々祈ること以外に役目はない。


(この国を守るより、私はあなたを守りたいのです……)


 いっそ、依利比古を追って姫比きびへ向かおうかと、何度も考えた。けれど、依利比古の命もなく、武人や船を動かせるはずはない。かつての日の巫女のような威厳や力を、自分は持っていないのだ。


(あの方の後継となるには、私の力は弱すぎる)


 十世はずっと、日の巫女という役目に引け目を感じていた。

 筑紫島の外までも見渡していた先の日の巫女と、筑紫の中すらろくに見渡せない自分。力の差は明らかだ。

 そう思った途端、寒風に頬を打たれた気がした。

 自分にやれることをしろ────いつか聞いた、アカルの声が脳裏に蘇る。

 そんな幻聴を聞いた自分を笑おうとしたけれど、勝手に顔が歪んで、唇が震えた。


(朱瑠、何をしているの……どこに居るのよ……まさか、本当に死んだのではないでしょうね? 何かあったら呼べと言っておいて、私より先に死ぬなんて酷いじゃない。あの魔物を私にどうしろって言うの?)


 自分が独りだと感じて、急に心細くなった。ただそれだけで、別にアカルの事なんか心配していない。そう思うのに、あのあっけらかんとした顔が無性に懐かしい。

 滲んできた涙を隠すため、十世は再び空を見上げた。

 細い月を見ながら白い息を吐く。風が雲を連れて来たのか、月の端に雲が懸かりはじめている。


 ふいに、何かが来る予感がした。悪いモノではないが、未知のものだ。


「下がって!」


 空を見上げたまま、十世は左腕を振り下ろした。傍らに膝をついていた侍女が慌てて部屋の内側に下がる。


 ホー ホロッ


 鳴き声がして間もなく、黒い影が庭木の枝に舞い降りた。僅かな灯火を受けて、黒々とした丸い目が光りクルリと動く。

 丸みを帯びたその姿は、大きな梟に違いない。


「何者だ!」


 十世は短く誰何すいかした。

 光沢のある黒目がじっと十世を見つめ、僅かな間をおいてから嘴が開いた。


「筑紫の日の巫女にお伝えする。阿蘇の火の守、宇奈利うなりの長が日の巫女に会う為、安波岐へ向かっている。速やかな受け入れと協議をお願い申し上げる」


 梟の口から聞こえて来たのは、まだ幼さの残る少女の声だった。


「宇奈利が……」


 深更しんこうの唐突な接触は、十世の心細さに追い打ちをかけた。

 宇奈利と言えば、悪夢に侵された依利比古が頼った隼人の巫女だ。

 都萬国の王族が消え、祖於隼人が幅を利かせ始めた今、この安波岐に戻って来ようとでも言うのだろうか。

 十世は唇を引き結んだ。弱気など見せられない。


「相分かった。到着はいつ頃か?」

 梟は首を傾げると、再び嘴を開いた。


「明日の夕暮れには到着する。長は老齢だ。すぐに休めるよう取り計らって欲しい」

 長を気遣う言葉に、十世の張り詰めていた心が僅かにほぐれた。


「お待ちしている、と伝えよ」


 答えるや否や、梟は大きな翼を広げて飛び立っていった。



 〇     〇



 宇奈利の船は、予告通り夕暮れにやって来た。白装束に身を包んだ宇奈利たちの後から、阿良々木あららぎの男衆が担ぐ輿に乗って、長らしき老婆が船を下りてくる。

 愛良と祖於王に了承を得て、彼らのために東の宮を用意した。来訪の意図は気になるが、今は我慢するしかない。十世は安波岐の宮の一画に、阿良々木の一行を案内した。


「では、私はこれで。話が出来るようになったら呼んでください」


 宇奈利の一人にそう告げて渡殿へ向かおうとした時、強烈な視線を感じた。振り返ると、小柄な宇奈利が回廊に立っていた。他の者たちはみな宮の中へ入ってしまったというのに、立ったまま動く素振りも見えない。白布で覆われた顔から覗く黒目は、じっと十世だけを見つめている。その瞳には覚えがあった。


「お前……梟か?」

 そう問うと、宇奈利の娘は目を瞬いた。


「はい! 宵芽よいめといいます」

 元気な声だ。確かに、あの梟の声に極似している。


「私に話があるのね?」

「はい」


 今度は神妙な様子で頷く。白布で覆われているのに、この娘がどんな顔をしているのか、十世にはわかる気がした。


「先に戻ってなさい」


 侍女を先に行かせて、渡殿の中ほどまで宵芽を誘った。広大な庭の真ん中を通る渡殿ならば、邪魔される事なく気楽に話が出来る。

 既に陽が落ち、宵闇に沈む中庭は、篝火の炎に薄く照らされている。


「さぁ、話してごらんなさい」

 渡殿の上で向き合うと、宵芽は強い決意を瞳に滲ませた。


「十世さまは……朱瑠が刺された場所に居ましたよね?」


 見えない何かに、正面から殴られたような衝撃だった。

「お前、遠見が出来るのか?」


「初めてでした。朱瑠は友達なんです。あの後、朱瑠はどうなったんですか? 生きてますよね?」


 宵芽は少しも動いていないのに、まるで目の前に迫ってくるような圧力を感じた。それほどアカルを慕っているのだと思うと、急に淋しさが胸に広がった。こんな風に自分を心配してくれる人間は、この世にひとりでもいるだろうか。


「わからないの。私が結界を解いたら、アカルは姿を消したわ。私も心配しているの」


「そう、ですか」

 宵芽は俯いたが、ホッとしたような気配だった。


「私の問いにも答えてちょうだい。宇奈利の長は、私に何の用があって来たの?」

 十世がそう言うと、宵芽はがっくりと肩を落とした。


かえでさまは……十世さまに跡目を任せたいんだ」

 哀しそうに、ポツリと呟く。


「何ですって!」

 思わず声を上げた十世は、慌てて口を覆った。


「楓さまは、魔物の正体を読めなかったことに、とても気落ちしていたんです。その時ちょうど阿蘇のお山が煙を吐いて、私は鳶になって阿蘇まで飛びました。阿蘇には山神さまがいて、神は人の子の神に非ずと、怒りを露わにしておられました。人は己の罪ゆえに滅ぶのだと言われました」


 宵芽は悲しげなため息を漏らし、言葉を続けた。


「その日から、宇奈利は昼も夜も山神さまを鎮めるために祈り続けました。けれど、阿蘇のお山は噴煙を上げたまま、山神さまは二度とお姿を見せてはくれませんでした。楓さまは少しずつ弱ってしまい、今では自分の力で歩けません。長の座を譲りたいと言う楓さまの言葉を、あたしたち宇奈利は何度も退けました。誰も、楓さまのような力を持たないからです」


「だからって!」


「わかっています。でも十世さまは、朱瑠を除けば、魔物の危険を知る唯一の巫女だと、楓さまはおっしゃっていました。魔物を退けることが出来れば、山神さまの怒りが解けるのだとしたら、十世さまに宇奈利の力を使ってもらった方が良いと、楓さまが……」


 十世は息を呑んで押し黙った。宇奈利の提案は一理ある。何より、十世をここから自由にしてくれるかも知れない。そんな予感がした。


「ならば……筑紫を宇奈利に任せ、私が魔物の近くへ行く事は可能か?」

「はい。十世さまならそう言うだろうと、楓さまはわかっておられます」

「では、もう一つ問う。お前は鳥になって、朱瑠を探しに行けるか?」


 宵芽の大きな目が、更に大きく見開かれた。その瞳には、驚きと同じくらい歓喜の色がある。


「異論がないのなら、詳しい話をしたいと、楓さまに伝えてちょうだい」

「はい!」


 弾むように答え、宵芽は渡殿を駆けていった。


  

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