八 梟
おぎゃー おぎゃー
夜風に乗って、遠くから赤子の鳴き声が聞こえてきた。
「無事に……生まれたのね」
淡々と呟いて、
十世が
立ち上がって御簾をくぐり、中庭を囲む回廊へ出る。見上げると、冴え冴えとした冬の空に細い月が出ていた。
冷たい夜風に、思わず両腕を抱いて縮こまるが、今の十世にはそれくらいの寒さが丁度良かった。
赤子を生んだのは
「男御子じゃ!」
野太い声は、愛良の父、
「よう、ございましたね」
十世の傍らにいた侍女は柔らかな笑みを浮かべたが、正直複雑な気持ちだった。
この宮で起こった惨劇を、十世は遠視で知った。本当はその前から知っていたが、誰にも話さなかった。依利比古が実の父と腹違いの兄を惨殺する。誓約の折に見た先視はあまりに恐ろしく、依利比古に問いただすことも出来なかった。先視が外れることを、ただ願っていた。
十世には、武輝王の死を悼む気持ちは少しもない。あの男は、最初から日の巫女に対する敬意を持っていなかった。都合よく使える呪術師。利用価値がなくなれば簡単に切り捨てる。そんな不敬な男は、死んで当然だった。
武輝の死後、都萬国の都はこの安波岐に移り、かつて王都として栄えていた
十世は、依利比古が心配だった。武輝殺害を決めたのは、本当に彼自身だったのだろうか。もし魔物と手を組んだ結果なのだとしたら、彼はいずれ人の心を失くしてしまうのではないだろうか。
(依利比古さま……あなたは私に、愛良姫と一緒にこの
安波岐に仕える武人の半数は、既に祖於隼人に入れ替わっている。愛良の出産を心配した祖於の王は、今後も居続けるだろう。別に不満があるわけではない。ただ、十世は自分の立ち位置に戸惑っていた。
武輝の死と共に、
(この国を守るより、私はあなたを守りたいのです……)
いっそ、依利比古を追って
(あの方の後継となるには、私の力は弱すぎる)
十世はずっと、日の巫女という役目に引け目を感じていた。
筑紫島の外までも見渡していた先の日の巫女と、筑紫の中すらろくに見渡せない自分。力の差は明らかだ。
そう思った途端、寒風に頬を打たれた気がした。
自分にやれることをしろ────いつか聞いた、アカルの声が脳裏に蘇る。
そんな幻聴を聞いた自分を笑おうとしたけれど、勝手に顔が歪んで、唇が震えた。
(朱瑠、何をしているの……どこに居るのよ……まさか、本当に死んだのではないでしょうね? 何かあったら呼べと言っておいて、私より先に死ぬなんて酷いじゃない。あの魔物を私にどうしろって言うの?)
自分が独りだと感じて、急に心細くなった。ただそれだけで、別にアカルの事なんか心配していない。そう思うのに、あのあっけらかんとした顔が無性に懐かしい。
滲んできた涙を隠すため、十世は再び空を見上げた。
細い月を見ながら白い息を吐く。風が雲を連れて来たのか、月の端に雲が懸かりはじめている。
ふいに、何かが来る予感がした。悪いモノではないが、未知のものだ。
「下がって!」
空を見上げたまま、十世は左腕を振り下ろした。傍らに膝をついていた侍女が慌てて部屋の内側に下がる。
ホー ホロッ
鳴き声がして間もなく、黒い影が庭木の枝に舞い降りた。僅かな灯火を受けて、黒々とした丸い目が光りクルリと動く。
丸みを帯びたその姿は、大きな梟に違いない。
「何者だ!」
十世は短く
光沢のある黒目がじっと十世を見つめ、僅かな間をおいてから嘴が開いた。
「筑紫の日の巫女にお伝えする。阿蘇の火の守、
梟の口から聞こえて来たのは、まだ幼さの残る少女の声だった。
「宇奈利が……」
宇奈利と言えば、悪夢に侵された依利比古が頼った隼人の巫女だ。
都萬国の王族が消え、祖於隼人が幅を利かせ始めた今、この安波岐に戻って来ようとでも言うのだろうか。
十世は唇を引き結んだ。弱気など見せられない。
「相分かった。到着はいつ頃か?」
梟は首を傾げると、再び嘴を開いた。
「明日の夕暮れには到着する。長は老齢だ。すぐに休めるよう取り計らって欲しい」
長を気遣う言葉に、十世の張り詰めていた心が僅かにほぐれた。
「お待ちしている、と伝えよ」
答えるや否や、梟は大きな翼を広げて飛び立っていった。
〇 〇
宇奈利の船は、予告通り夕暮れにやって来た。白装束に身を包んだ宇奈利たちの後から、
愛良と祖於王に了承を得て、彼らのために東の宮を用意した。来訪の意図は気になるが、今は我慢するしかない。十世は安波岐の宮の一画に、阿良々木の一行を案内した。
「では、私はこれで。話が出来るようになったら呼んでください」
宇奈利の一人にそう告げて渡殿へ向かおうとした時、強烈な視線を感じた。振り返ると、小柄な宇奈利が回廊に立っていた。他の者たちはみな宮の中へ入ってしまったというのに、立ったまま動く素振りも見えない。白布で覆われた顔から覗く黒目は、じっと十世だけを見つめている。その瞳には覚えがあった。
「お前……梟か?」
そう問うと、宇奈利の娘は目を瞬いた。
「はい!
元気な声だ。確かに、あの梟の声に極似している。
「私に話があるのね?」
「はい」
今度は神妙な様子で頷く。白布で覆われているのに、この娘がどんな顔をしているのか、十世にはわかる気がした。
「先に戻ってなさい」
侍女を先に行かせて、渡殿の中ほどまで宵芽を誘った。広大な庭の真ん中を通る渡殿ならば、邪魔される事なく気楽に話が出来る。
既に陽が落ち、宵闇に沈む中庭は、篝火の炎に薄く照らされている。
「さぁ、話してごらんなさい」
渡殿の上で向き合うと、宵芽は強い決意を瞳に滲ませた。
「十世さまは……朱瑠が刺された場所に居ましたよね?」
見えない何かに、正面から殴られたような衝撃だった。
「お前、遠見が出来るのか?」
「初めてでした。朱瑠は友達なんです。あの後、朱瑠はどうなったんですか? 生きてますよね?」
宵芽は少しも動いていないのに、まるで目の前に迫ってくるような圧力を感じた。それほどアカルを慕っているのだと思うと、急に淋しさが胸に広がった。こんな風に自分を心配してくれる人間は、この世にひとりでもいるだろうか。
「わからないの。私が結界を解いたら、アカルは姿を消したわ。私も心配しているの」
「そう、ですか」
宵芽は俯いたが、ホッとしたような気配だった。
「私の問いにも答えてちょうだい。宇奈利の長は、私に何の用があって来たの?」
十世がそう言うと、宵芽はがっくりと肩を落とした。
「
哀しそうに、ポツリと呟く。
「何ですって!」
思わず声を上げた十世は、慌てて口を覆った。
「楓さまは、魔物の正体を読めなかったことに、とても気落ちしていたんです。その時ちょうど阿蘇のお山が煙を吐いて、私は鳶になって阿蘇まで飛びました。阿蘇には山神さまがいて、神は人の子の神に非ずと、怒りを露わにしておられました。人は己の罪ゆえに滅ぶのだと言われました」
宵芽は悲しげなため息を漏らし、言葉を続けた。
「その日から、宇奈利は昼も夜も山神さまを鎮めるために祈り続けました。けれど、阿蘇のお山は噴煙を上げたまま、山神さまは二度とお姿を見せてはくれませんでした。楓さまは少しずつ弱ってしまい、今では自分の力で歩けません。長の座を譲りたいと言う楓さまの言葉を、あたしたち宇奈利は何度も退けました。誰も、楓さまのような力を持たないからです」
「だからって!」
「わかっています。でも十世さまは、朱瑠を除けば、魔物の危険を知る唯一の巫女だと、楓さまはおっしゃっていました。魔物を退けることが出来れば、山神さまの怒りが解けるのだとしたら、十世さまに宇奈利の力を使ってもらった方が良いと、楓さまが……」
十世は息を呑んで押し黙った。宇奈利の提案は一理ある。何より、十世をここから自由にしてくれるかも知れない。そんな予感がした。
「ならば……筑紫を宇奈利に任せ、私が魔物の近くへ行く事は可能か?」
「はい。十世さまならそう言うだろうと、楓さまはわかっておられます」
「では、もう一つ問う。お前は鳥になって、朱瑠を探しに行けるか?」
宵芽の大きな目が、更に大きく見開かれた。その瞳には、驚きと同じくらい歓喜の色がある。
「異論がないのなら、詳しい話をしたいと、楓さまに伝えてちょうだい」
「はい!」
弾むように答え、宵芽は渡殿を駆けていった。
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