七 貴島(たかしま)


 よく晴れた秋の日。

 姫比きび国の穴海あなうみ湾には、数え切れぬほどの軍船いくさぶねが入港していた。

 すべて、舳先に竜の彫り物がある都萬つま国の竜船だ。

 この穴海湾にこれほどの軍船が入港することは、本来なら有り得ないことだった。────先触れの使者が来ていなかったら、よもや戦ではあるまいかと、誰もが恐怖に怯えただろう。


 新しく即位したばかりの姫比津彦きびつひこ王は、使者からの書簡を受け取るなり、穴海湾の東に浮かぶ細長い貴島たかしまという小島に仮屋を建てさせた。阿知宮あちみやの武人まで動員しての突貫工事であったが、依利比古いりひこが来訪するまでに、なんとか貴人を迎えられる形にはなった。


 依利比古を迎えた今は、小島の周りをぐるりと囲むように、竜船が停泊している。


「────ずいぶん、用意周到だな」


 真新しい貴島の高殿に佇み、依利比古は不満げに呟いた。

 南北に細長い貴島の南に、一番立派なこの高殿がある。姫比津彦が依利比古のために建てたもので、その他の将兵は島の中ほどにある大きな仮屋に宿泊するようになっていた。


 依利比古の高殿はそれなりに立派な造りだし、姫比の女官が手厚く世話をしてくれる。待遇は良いように感じるものの、確かに阿知宮から遠ざけられたという感じはある。


「あまりの軍勢に、恐れをなしたのではありませんか?」


 依利比古の警護のために高殿に詰めている狭嶋さしまは、それほど不服な訳ではない。仮屋が無ければ、ほとんどの将兵は船の中で寝起きしなければならない。それを思えば、屋根のある揺れない床で眠れるのは悪くない。依利比古が何を不満に思っているのか分からず、狭嶋はそっと主の顔を窺った。


「お前は、宇良うら王子……いや、今は姫比津彦王だったな。彼が変わったとは思わないか?」


「え? ああ、まぁ確かに、宇良王子だった時は、もっとこう……いい加減な感じがしましたね。さすがに王に即位して、変わったんじゃないでしょうか?」


「……まぁ、そうかも知れないな」


 狭嶋の言葉はもっともで、人には誰しも心を入れ替える契機はある。ただ、姫比津彦に謁見した時に感じた違和感は、とてもそれだけとは思えなかった。

 心を入れ替えただけで、ああも変われるだろうか。話し方や身に纏う雰囲気、何もかもが宇良とはまるで別人のようなのだ。


「狭嶋、阿知宮に使いを出して、姫比津彦さまに明日お会いしたい、と伝えてくれ。鷹弥という側近にも同席を願うと、重ねて伝えるように」


「は!」


 狭嶋がサッと頭を下げて退室してゆく。

 すると、依利比古が一人になったのを見計らったように、宮の隅に闇が凝り、月弓が現れた。


「相変わらず、不躾な訪問だな月弓つきゆみ。いや、炫毘古かがびこか」


 闇の中から突然人が現れても、依利比古は動じなかった。

 月弓の姿をした魔物は、依利比古の従者という職務を放棄し、ほとんど彼の傍にはいない。気が向いた時だけ従者のふりをするくらいだ。それ以外では、魔物らしい方法で突然現れる。


「ふっ、別にどちらでも良い。俺はいま、下僕の暮らしを楽しんでいるからな。そうそう、お前が固執していた古の巫女は、回復したようだぞ。泡間に伏せていた暗御神くらおかみに捕らえさせようとしたが、邪魔が入って取り逃がした」


 楽しそうに喋る炫毘古を、依利比古は横目で睨みつけた。


「わざわざ捕らえようとしたのか? もはやあの娘に用はない。放っておけ」


「別に、お前にやろうと思った訳じゃないさ。俺もあの娘に興味があるんだ」


 クックックッ、と楽し気に嗤う炫毘古の目が、白銀色に光る。普段は月弓の黒い瞳のままだが、興じている時には妖らしく色が変わる。

 依利比古は、用心深く炫毘古を観察した。


「ならば好きにしろ。わざわざ私に報告する必要はない。それよりも、下僕の暮らしを楽しむのなら、ちゃんと扉から出入りしろ。兵に不審がられるのは面倒だ」


「そうだな────では、依利比古さま、私はこれで」


 わざとらしく一礼して、炫毘古は扉を通って退出していった。



 〇     〇



 ────同じ頃。

 阿知宮の南にある王の間では、姫比津彦が一人、瀬戸内諸国の地図を広げていた。


「依利比古は何を狙っているのだろう? 姫比を拠点に、対岸の蘇阿紗そあさ国か、それとも東の針磨はりまでも狙うつもりか? 蘇阿紗の朱はもう掘り尽くした。蘇阿紗石など、鉄があれば不要だ。やはり針磨だろうか?」


 針磨は姫比の版図だ。姫比の領土は広く、瀬戸内に面した東西に長い土地を統べている。筑紫島に近い西の土地は、四百年前の柚冨山ゆふさんの噴火で土地がやせ旨味が薄いが、東にはそれなりの農地や外交上の要衝もある。特に針磨にある二つの川は、多罵那たばな国の土地を経由すれば北海まで抜けられる。もし自分が依利比古の立場なら、迷わず針磨を狙うだろう。


「姫比津彦、貴島から伝令だ。依利比古が明日会いたいそうだ」


 鷹弥が戻って来た。つかつかと歩み寄り、姫比津彦の前に胡坐をかく。

 姫比津彦はゆっくりと顔を上げると、首を傾げた。


「明日? 依利比古さまは、貴島に押し込められたことを不満にお思いか……」

「だろうな。俺も同席しろと名指しされた」


 不満そうな鷹弥の顔を見て、姫比津彦は目を細めた。


「ほぅ。もう私に疑いを持ったかな? そなたをつついて襤褸ぼろを出させるつもりかも知れないな。つつかれる材料もありそうだし」


 そう言って、面白がるように笑う。言葉にはしないが、暗にアカルの存在を仄めかすと、鷹弥は一瞬だけ暗い目をしてから息を吐いた。


「……お前は、心を入れ替えた宇良を上手く演じてくれ」

「わかっているよ。ところで、さかきが気になる報告をして来たんだ」

「榊が?」


 鷹弥は表情を変えた。姫比の大巫女だという榊には、未だに慣れない。岩の巫女とは全く別の不気味さを感じるのだ。


「貴島に禍々しいモノがいるそうだ。時々こちらの結界を破ろうとしてくるらしい」

「都萬国の巫女じゃないのか?」

「巫女は禍々しくはないだろう?」


 姫比津彦はきょとんとして目を瞬くが、鷹弥は榊を思い浮かべるだけで禍々しい感じがする。だが、今は己の感想などどうでもいい。


「なら、都萬国は妖でも飼っているんじゃないのか?」

「可能性はあるな。妖と対峙する覚悟はしておけ」


 姫比津彦は真剣な目でそう言った。



 〇     〇



 翌朝。

 姫比津彦は、庭の見える離れ宮に豪華な朝餉を用意して、依利比古を招待した。

 上下に大きく開いた蔀戸しとみどを通る風は、すっかり秋めいているが、まだ寒くはない。赤紫の花をつけた萩の枝が、さわさわと風に揺れている。

 朝餉の席は姫比津彦と依利比古が向かい合って座り、それぞれの主の後ろに、鷹弥と勇芹いさせりが座っている。女官は遠ざけられ、警護役が壁際に一人ずつ立っている。姫比側の護衛は黒森。都萬側の護衛は狭嶋だ。


 会食は和やかに進んだ。

 高坏に盛られた食材やその産地、今年の気候や作物の出来具合などを話しながら朝餉を食べ進め、ようやく終盤にさしかかった頃に、姫比津彦が話を向けた。


「そろそろ、依利比古さまの真意を教えては頂けませんか? 同盟の話を詰めに来られたにしては、物騒な数の軍船です。瀬戸内のどこかへ進軍なさるおつもりですか?」


 にこやかな顔のまま姫比津彦が尋ねると、依利比古もにっこりと笑顔を返した。


「あれは用心のためです。太丹さまがあんな形で亡くなったせいで、瀬戸内諸国の中には、貴国を侵そうと考える国もあるのではないかと思ったのですが……どうやら杞憂だったようですね。瀬戸内は安定している。宇良さま、いえ、姫比津彦さまが王として治めておられるからですね」


「ありがとうございます。父が亡くなった折は、依利比古さまのお陰で、私も心強く在ることが出来ました。王位を継いで、ようやく国を治める大変さを実感しているところです。貴国との交易も、末永くお願いしたいと願っております」


 歯の浮くような褒め合いが終わると、依利比古はスッと表情を引き締めた。


「ところで、太丹さまを殺めた男は捕まりましたか? あなたと瓜二つの、あの男です」


 依利比古の問いに、姫比津彦は愁いの表情を浮かべたままかぶりを振った。


「あれ以来、姿を現さないのです。宮の者たちは、物の怪の仕業ではないかと考えているようです。今は巫女たちに結界を張らせていますので、物の怪などが近づくことはありません。どうかご安心ください」


「わかりました」


 依利比古は静かに頷いた。


「実はもう一つ、姫比へ来た理由があるのです。まだ伏せておりますが、都萬国の父と兄が急逝しまして、私も都萬国の王に即位する事になりました」


「え……」


 姫比津彦は顔色を変えた。すぐ後ろにいる鷹弥が、息を呑むのがわかった。


「しかし、私は姫比津彦さまと違いまだ若輩の身。諸国を廻って見聞を広げようと思っているのです。それで、まずは姫比津彦さまを頼ろうと参りました。せっかく貴島に仮宿を建てて頂いたことですし、しばらく逗留させて頂きたいと思います」


 頭を下げる依利比古を見つめながら、鷹弥は心の中で舌打ちした。

 都萬国の武人たちを姫比本土へ入れないために仮宿を建てたが、それが裏目に出てしまった。早々にお帰り頂こうと思っていたのに、逆に逗留を願い出られる結果となった。


「それは急な事で、御悔み申し上げます。もちろん、依利比古さまの好きなだけご滞在ください」


 姫比津彦は、内心の落胆を顔に出さない。


「ありがとうございます。お願いついでに、身の回りの世話を見知った者に頼みたいのですが、今いる貴島の女官の代わりに、朱瑠を側仕えにお借り出来ないでしょうか?」


 依利比古は、姫比津彦の背後に控える鷹弥に視線を移した。アカルの名を聞いた途端、彼の顔が暗く陰ったことを見逃さなかった。


「実は、その者は、もう阿知宮にはいないのです。ご希望に沿えず申し訳ありません」


「いない?」


 重ねて尋ねる依利比古に、鷹弥は淡々と答えた。


「その者は、荷物を置いたまま行方知れずになり、探しても見つかりませんでした。神隠しだとの噂もありましたが、きっと里へ帰ったのでしょう」


「そうですか。では、冬至の宴席にいた珠美たまみは?」


「ああ、朱瑠の代わりに手配した女官見習いですね」

 姫比津彦が横から口を挟んだ。

「あの娘も、里へ帰ったと聞いています。せっかく女官になる道が繋がったのにと、北宮の女官たちが噂していました」


「そうでしたか……では、我儘は取り下げないといけませんね。大人しく貴島へ戻ります。瀬戸内諸国を巡る時は、姫比津彦さまにお知らせしますので、どうか仲立ちをお願いします」


 依利比古はそう言って一礼すると、離れ宮を出て行った。

  

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