六 泡間(あわい)の魔物


 暑い夏が過ぎ、岩の里に稲刈りの季節がやって来た。

 老人から子供まで、動けるものはみな石鎌を持って稲を刈り、刈り取った稲を束ねてに干す。アカルも最初は手伝っていたのだが、すぐに息が上がってしまう。そんな様子を見かねた里人たちに、もういいから休んでいろと稲田から出されてしまった。

 今のアカルは、里にとってただのお荷物だ。


 一年以上も岩の里から離れていたせいか、里の暮らしになかなか戻れない。

 いつの間にか里長が代替わりして里は活気に満ちているのに、アカル一人がそれに馴染めないでいる。

 少し離れた木陰に座り込んでいると、大柄な男が近づいてきた。


「大丈夫か?」


 新しく里長になったシリトだ。彼はまだ若いが、狩りではトーイと並ぶほどの腕自慢で、優しく頼りがいのある男だ。先代の里長が高齢を理由に長を下りたので、人をまとめるのが上手いシリトが担ぎ上げられたのだろう。

 アカルはシリトを見上げ、小さく頷いた。


「私は、役立たずだな」

「そんな事はないぞ。里の子供を無事に戻してくれたアカルは、里の英雄だ」


 そう言って、アカルの頭を髪がくしゃくしゃになるほど撫でてくれる。


「ばば様が、岩の巫女は自分で最後にするって。里長はどう思う?」

「不安か?」

「うん。ずっと、ばば様の後を継ぎたいと思ってたから……」


「そうか。例え岩の巫女の名を継ぐことは出来なくても、俺はアカルの助言には耳を傾けるけどな」


 首を傾げて「それじゃだめか?」という風に笑いかけてくる。

 ふっと息をついて、アカルも笑った。


「ありがとう。役に立てるように頑張るよ」



 シリトが稲刈りに戻ってゆくと、アカルは久しぶりに岬の突端にある草地に足を向けた。岩の里の入り江を見下ろせる岬の草地は、アカルのお気に入りの場所で、一人になりたいときは大抵ここへ来た。トーイが里を出て行った日に、一人で泣いたのもこの場所だった。


 草地に座ると、内海の先にある大きな岬と、その先に広がる水平線が見えた。風にさわさわと草が揺れ、アカルの手足をくすぐる。

 シリトのお陰で、自分も少しは役に立つことが出来ると、思い直すことが出来た。身分や立場など関係なく、アカルは今まで通り神と対話し、里に役立つことがあれば、里長たちに知らせればいいのだ。


 胸のつかえが薄れた途端、西伯さいはくで療養中に聞いた十世とよの声を思い出した。あの時は何も出来なかったし、その後も泡間あわいへ行く事すら出来なかった。


(今は、出来るだろうか?)


 アカルは草地に投げ出していた足を引き寄せると、胡坐に座りなおした。

 背筋を伸ばして肩の力を抜く。目を閉じて、泡間へ向かって感覚の手を伸ばすと、すぐに泡間へ飛ぶことが出来た。


「あれ……?」


 泡間へは飛べたが、そこはアカルの望んだ青々とした草地の風景ではなかった。草地には違いないが、荒涼とした枯れ葉色の草地だ。しかも、丘の上から続く斜面には、白っぽい岩が点在している


「なんで、こんな……」


 間違って、誰かの結界に入ってしまったのだろうか。そう思ったが、そう易々と他人が入れる結界などありはしない。どこか不安を誘う風景は気になったが、取り敢えず、十世に呼び掛けてみることにした。


「十世! 聞こえる? ねぇ、何があったの?」


 大声で叫んでみるが、しばらく待っても答えはない。


「十世!」


 もう一度叫んだ時だった。

 丘の上に、黒い靄が現れた。得体のしれない不安に襲われて後ずさった時、声のない咆哮が、ビリビリと空間を震わせた。

 黒い霞だったものが寄り集まった瞬間、黒い蛇神が出現した。頭を上にして宙に浮かぶ細長い蛇体から、木の根のような触手を翼のように広げている。


暗御神くらおかみ……」


 咄嗟に衣の懐に手を入れて、アカルは固まった。懐にあるはずの小刀がない。


(あ……)


 都萬つま国の真砂島まさごじまで、アカルは蛇神に小刀を投げた。あの後、探したが見つからなかった。

 あの出来事から、かなりの時が経っている。怪我をしたせいもあるが、岩の里へ帰ってから随分経つのに、新しい小刀を作ることすら思いつかなかった。


(私は……今まで、何を呆けていたんだ)


 手ごわい敵を前に神経を研ぎ澄ますが、対抗するための武器はない。


(逃げるが勝ちだ!)


 泡間の出口へ向けて感覚の手を伸ばし、飛ぼうとした。しかし、それよりも一瞬早く、黒い蛇神から生えた根のような触手が、体に巻きついてきた。


「うわぁっ」


 胴に巻きついた無数の触手に持ち上げられ、アカルの体が宙を駆けた。

 もがいても両手で引き剥がそうとしても、黒い触手はビクともしない。


(こいつは……まさか、人を喰うのか?)


 恐ろしい考えが浮かび、背筋が冷えた。

 見上げると、黒蛇は上下に伸びていた体をゆるゆるとくねらせ、鎌首がアカルの方を見下ろしている。


(絶対に喰う気だ……)


 全身に冷たい汗が浮かんだ。

 チロチロと燃える赤い炎のような目。大きな口がクワッと開き、鋭い牙がむき出しになる。声のない咆哮が、再び空間を振動させた時だった。


『────殺すな、殺さずに連れてこい』


 どこからか声が聞こえた。

 その声に従うように、鎌首が遠ざかる。しかし、空に向けて放った不満げな咆哮は、さっきよりも大きく長く空間を振動させた。

 何者かの介入によって、取り敢えず喰われる心配はなくなったが、このままではどこかに連れて行かれてしまう。アカルは仕方なく、黒い触手にガブリと嚙みついた。


 ビリビリビリ────と声のない咆哮が響いて、噛みついた触手がパッと離れていく。しかし、他の触手がすぐに絡みついて来るので解放されはしない。


(化け物のくせに、痛みを感じるのか?)


 アカルは手あたり次第、触手に噛みついてやったが、その都度触手が交代するだけだった。

 埒が明かない───そう思った時、遠くから声が聞こえたような気がした。


『動くな!』


 先ほどの声とは明らかに違うその声に、アカルは自分でも訳がわからないまま従った。

 次の瞬間、光の矢が勢いよく目の前を通り過ぎた。その鮮やかな軌跡に、アカルは体を硬直させたまま目を瞠った。

 光の矢が蛇神の体に突き刺さる。胴に巻きついていた触手が緩むのを感じた瞬間、アカルは一気に泡間から脱出した。


 どさりと草地に倒れ込むと、瑞々しい草の匂いがした。


「ああ……助かったぁ」

「───助かったじゃないよ! お前はこの年寄を殺す気かい?」


 杖を突いた老巫女が、息を切らしながらアカルを見下ろしていた。

 アカルは慌てて体を起こした。


「ばば様! 助けてくれたのは、ばば様だったの?」


「馬鹿をお言いでないよ。わしは導いただけで、その刀子とうすを投げたのは水生比古みおひこじゃ」


「え、水生比古さま? 刀子?」


 見ると、アカルのすぐ横の草地に、小さな白銀の小刀が落ちていた。光の矢に見えたものは、この刀子だったようだ。


「アカル! どうして、あんな場所へ行ったんだい? お前があの魔物に襲われていると知った時、わしは寿命が縮まるかと思ったんだぞ!」


「ごめん。今のが、この前話した都萬国の魔物だよ。ばば様はあれを知ってるの?」


「知るもんかい! あんなの見たこともないよ!」


 ギョロメの老巫女は、吐き捨てるように言った。そして、見たこともないほど必死な形相でアカルにつかみ掛かると、そのままぎゅっと抱きしめた。


「頼むから、もう無茶な真似はしないでおくれ。何もかも自分で背負う必要はないんだ。運命など変えても構わないんだよ。お前を死なせたら、わしはリムに申し訳が立たないよ!」


 アカルは老巫女の肩を抱き返しながら、耳慣れないその名前に首を傾げた。


「ばば様…………リムって誰?」

「は? 誰だって? そんなものは知らないね」


 老巫女はサッとアカルから離れると、杖をつかんで立ち上がろうとする。


「え? いま、ばば様が自分で言ったんじゃない」

「わしゃ、そんな事を言ったかね? お前の耳がおかしいんじゃないかい?」


 アカルに背を向けて帰ろうとする老巫女の白い衣を、アカルはむんずと掴んだ。


「ばば様! リムって誰?」


 衣をぎゅうぎゅう引っ張ると、老巫女は諦めたのかこちらへ振り向いた。


「あーあ、我ながら余計な事を口走ったもんだね。リムっていうのは、わしの孫で、お前の母親だよ」


「孫? ばば様って子供がいたの────じゃなくて、私の母親? それじゃ私は、ばば様の……曾孫?」


「そうじゃ。けれど、これは誰も知らんことじゃ。わしの子供はとうに亡くなっているし、リムは外へ出て行った。その後の事は誰も知らぬ。余計なことは喋らんでいい。お前は今までのまま、岩の里のアカルでいい」


「……わかった」


 どうしてなのか、理由はわからない。けれど、アカルはそれでいいと思った。

 八神やがみの里へ嫁いだ母が、リムという名だとわかった。意地悪だけど大好きな岩の巫女が、自分の曾祖母なのだとわかった。それだけで、アカルは嬉しかった。


「帰ろうか」


 アカルは白銀の小刀を懐にしまうと、老巫女を支えながら岬の草地を後にした。

  

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