五 岩の巫女


 雨の季節が過ぎた頃、アカルはようやく床上げすることが出来た。すっかり元通りという訳ではない。長い療養生活ですっかり肉が落ち、体力や筋力もなくなっていた。まだ自由に出歩くことは出来ず、アカルは暑い日中を避けて、早朝や夕方に離れ宮の庭先へ出ては、少しずつ体力の回復に努めた。


 そんな日が続いたある日。


「朱瑠さま! 明日、岩の里へお帰りになるというのは本当ですか?」


 小波こなみが思い詰めたような顔をして、離れ宮に駆け込んで来た。

 部屋の掃除をしていたアカルは、困った顔で小波を迎えた。


「ごめん。そうなんだ……青影さまに船を出して欲しいって相談したら、ちょうど港に快速船がいるからって、すぐに船を出してくれる事に……先に相談しなくて悪かったな」


「い、いえ……ですが、大丈夫なのですか?」


 小波は心配そうにアカルを見つめる。回復したと言っても、少し動くだけでアカルが息を切らしているのを小波は知っている。そのせいなのか、アカルは普段通りのようでいて、どこか元気がない。小波はそれが気がかりだった。


「もう少し、ここで養生なさってはいかがですか? 岩の里に戻っても、まだ里の仕事を手伝うのは、無理なのではありませんか?」


 眉宇を寄せる小波を見て、アカルは小さなため息を漏らした。


「いいんだ。長く居過ぎたくらいだよ。小波にもずっと世話になりっぱなしで、本当に悪かったと思ってるし、感謝してるんだ────ねぇ、覚えてる? 去年の今頃、智至ちたるから帰る途中で西伯さいはくに寄ったじゃない? 小波が港まで迎えに来てくれて、疾風はやてから八神やがみの里の話を聞いたよね。あれからもう、一年も経つんだね。嘘みたいだ。あの時、ここに余分な衣を置かせてもらっといて良かったよ」


 遠い昔のことのように一年前に思いを馳せてから、アカルは両手を広げて自分の衣に目を向けた。岩の里で着るには上等すぎる衣だ。


「そうでしたね────私は、朱瑠さまさえ良ければ、西伯の巫女宮に来て頂きたいと思っているんですよ。もちろん、大巫女の月音つきねさまもです」


「ありがたいけど、私はやはり、岩の里に帰るよ。今まで面倒を見てくれてありがとう」


 アカルが笑いかけると、小波は少し寂しそうに笑った。



 翌朝、アカルは小波と別れ、青影が用意してくれた船に乗った。

 夏の北海ほっかいは波がとても穏やかだ。風のない日なら、波打ち際で時おり小さな佐々波が立つくらいだ。その穏やかな海を行く船は、屈強な水主たちの力強い櫂さばきで、ぐんぐん進んでゆく。

 アカルは日よけの編み笠を被って、船の上から過ぎゆく岸辺の景色を眺めた。


 白砂の海岸が消え、突き出た岩の岬を回ると、そこはもう懐かしい岩の里の入り江だ。

 内海の浜辺でアカルが船を下りると、遊んでいた子供たちが駆け寄って来た。その中には、ほむらの城で別れたきりのイマリカたちや、姫比きびの製塩所で再会したシサムもいて、アカルは再会を喜んだ。


「みんな元気そうでよかった。ばば様は、元気になった?」

「相変わらず腰の具合は悪いみたいだけど、お口は達者よ」


 イマリカがクスクス笑いながら教えてくれる。


「そっか、良かった」


 逸る思いを持て余したまま、アカルは里の中を歩いた。今までなら、一直線に巫女の高殿まで走って行くところだが、今のアカルには歩くのがやっとだ。その代わり、里の様子をゆっくりと見ることが出来た。

 なだらかな斜面にある田畑は緑に輝き、盗賊に壊された倉もきれいに直されている。すっかり元に戻った岩の里の風景に、アカルは泣きたいほど安堵した。


 坂道を歩いたせいで少し息が上がったが、岩の巫女の高殿が近づくにつれアカルの胸は高鳴った。階を上り葦簀よしずの戸をくぐると、敷布の上に体を起こした老婆の姿が目に入った。


「ずいぶんと生死の境を彷徨ったみたいじゃないか。この年寄よりも先に逝くんじゃないかとハラハラしたよ────だがまぁ、里の子らを、四人とも無事に返してよこしたのは、大したものじゃ。よくやったな、アカル。お帰り」


 口調は変わらないが、やや痩せた感じがする。さらに小さくなった老巫女を見た途端、ぶわっと目頭が熱くなった。

 アカルは老巫女に駆け寄ると、床に膝をついて老巫女を抱きしめた。


「ばばさまぁー! 元気そうで良かったよぉ……うわぁーん」

「何だいこの子は。泣き虫なのは相変わらずだねぇ」


 老巫女は憎まれ口を叩きながら、泣き出したアカルの頭を皺だらけの手で撫でた。


「……ばば様、ばば様は知ってたの? 姫比には鷹弥が……トーイが居たんだ!」


 しゃくり上げながら訊くと、老巫女はギョロリとした大きな目をスッと細めた。


「ほぉ、そうかい。そいつは知らなかったねぇ。で、あの子はどうしてた?」

「どうって……」


 アカルは俯いた。鷹弥との間にあった色々な出来事や自分の感情を、言葉にすることはとても難しかった。


「鷹弥は……たぶん、帰ってこないよ」


「そうかい。まぁ、仕方がないね。あの子には、この里を出て行くだけの理由があったのだろうしね」


 老巫女の言葉はあっさりとしたものだった。けれど、アカルは気持ちが収まらなかった。


「ばば様は……鷹弥のこと、どこまで知っているの? ばば様の先視は外れないんでしょ? 鷹弥はずっと姫比で生きていくの?」


「そんな事を聞いて、どうするんだい?」

 老巫女は険しい目をしてアカルを見上げた。

「里に帰って来ない男の事など、わざわざ知る必要などなかろう?」


「でも……」


「でも何じゃ? わしは必要があると思えば、先視の内容を話すこともある。だが、今のところお前さんに話すことは一つもないよ。どうしても聞きたいって言うなら、姫比へ行って直接本人に訊けばいいだろう?」


 老巫女にバッサリ切られて、アカルは口を噤んだ。姫比へ行って鷹弥に会う勇気はない。


「────ところでアカル。お前、幾つになった?」

「え、十六だけど?」


 アカルは眉をひそめた。


「十六か。ならば、今日からは【娘の家メノチセ】で暮らすんだね。冬至が明ければお前さんも十七になる。来年の歌垣に出て、連れ合いを探して身を固めな」


 老巫女の言葉を、アカルは呆然としたまま聞いた。


「……どうして?」


「どうしてって、わしはもう、お前を育てる気はないんじゃ。岩の巫女はわしで最後にするからな」


「え……」


 ガツンと頭を殴られたような衝撃だった。頭の中は疑問でいっぱいなのに、うまく言葉にすることが出来ない。

 確かに自分には、岩の巫女のような先視の才はない。けれど、神と話すことは出来る。未熟ではあるが、里の未来をより良くするために役立てるのではないか。漠然と、そんな風に思っていた。鷹弥の元へ戻るという希望を失ったアカルには、岩の巫女を継ぐことだけが心の拠り所だったのに────。


「この世は変化している。やがて神々は、この世から離れてゆくじゃろう。肉を持つ生き物だけが、この世界に残される。お前も薄々は感じていたのじゃないか? 力を受け継ぐ子が生まれなくなってきたのは、そういう事なのじゃ」


「ばば様……」


 再び涙をこぼし始めたアカルの頬を、老巫女の萎びた両手が包んだ。


「アカル、お前はこれから普通の里人として生きるんじゃ。すき好んで茨の道を進むことはない。【娘の家メノチセ】で暮らすうちに、きっと普通の暮らしにも慣れる。そうすれば、生死の境を彷徨うような事もなくなる。今年からイマリカも【娘の家】で暮らし始めた。いろいろ教えてもらえ」


 ギョロメの老巫女は、見たことがないほど慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。




 岩の巫女の高殿を出たアカルは、おぼつかない足取りで高台にある【娘の家】へ向かった。

 岩の里の娘たちは、初潮を迎えると親元から離れて【娘の家】に入り、歌垣で伴侶を得るまでは同世代の娘たちと一緒に暮らす。同じように、独身の男たちにも共同生活をする【青年の家オカチセ】があるが、彼らはある程度仕事が出来るようになると、家族が居なくても自分の家を持つ者が多く、【青年の家】には基本少年たちしかいない。


 巫女になるつもりだったアカルにとって、【娘の家】は縁のない場所だった。そこで暮らすという事は、いずれ伴侶を得なければならないという事だ。岩の巫女の命令だとしても、それは無理だった。どんなに忘れようとしても、鷹弥への想いは消えてくれない。


「アカルちゃん!」


【娘の家】の前でイマリカが手を振っている。


「アカルちゃんの荷物、中に入れといたよ」

「ありがとう」


 アカルはイマリカと一緒に、細長い藁葺きの建物へ入った。みんな仕事に出ているのか【娘の家】の中は薄暗くガランとしていた。囲炉裏の周りに娘たちの荷物や織りかけの布などが整然と置かれている。


「ねぇイマリカ。ばば様は、本当に自分の代で、岩の巫女を終わらせるつもりなの?」


 アカルが訊くと、イマリカは表情を曇らせた。


「そうみたい。みんな不安がってるよ。キリに力が芽生えたことは話したけど、そんなに強くないみたいで……」


「そうか。本当に神々は遠くなり、神と対話する力は必要なくなってゆくのかな?」


 アカルは、阿良々木あららぎの里で会った宇奈利うなりの娘、宵芽よいめの言葉を思い出した。彼女の里でも、力を持つ子供が生まれにくくなっているらしい。

 確かにこの世界は変わり始めているのだろう。それはここ数年の事ではなく、もうずっと前から、少しずつ変化していたのかも知れない。

 いつかそう遠くない未来に、神々はこの世から消えてしまう────そんな未来は、想像するだけで嫌だった。


  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る