十三 鳴動
ほんの一瞬前まで、宵芽の意識は山の中へ飛んでいた。山や木や風と溶け合い、自然の一部になっていたはずだった。
そんな宵芽の頭に、突然、アカルの姿が浮かんだ。彼女の背中に突き立てられた剣先からは、鮮血が溢れていた。
目を開けた瞬間、宵芽の意識は体に引き戻されていた。もうアカルの姿は視えない。薄暗い祭壇が見えるだけだ。
(なんで、朱瑠が?)
宵芽は
ポロッと、大きな瞳から涙がこぼれた。息が苦しくなって、喘ぐように息を吸った。
(早く、
宵芽はよろよろと立ち上がり、神殿の扉を開け放って外へ出た。薄闇になれていた宵芽の目に、急に陽の光が差し込んで、くらりと眩暈がした。
「か、楓さまぁ」
神殿を出て、宇奈利の長が住む高宮へ飛び込むと、そこには白装束に身を包んだ宇奈利たちが集まり、楓を囲んでいた。
「楓さま、朱瑠が!」
「おお、宵芽も視たか」
白布に覆われた真っ白な宇奈利たちの中で、ひとりだけ顔を隠していない小さな老婆が、宵芽の方へ顔を向ける。皺だらけの顔は、心なしか青ざめていた。
「他にも、良くない事ばかりが視えた。王子の従者に憑いていたのは、
「そんなことはありません!」
「ここには、楓さまに並べるような宇奈利はおりません!」
宇奈利たちの中から、動揺した声が上がった。彼女たちは楓が心配でならないのだ。
宵芽も、もちろん楓が大事だ。でも、剣で刺されたアカルは、命の危機にさらされているのかも知れない。今すぐ助けに行かなければ、きっと後悔する。
「楓さま、お願いです。あたしを鳶に移してください。朱瑠を助けに行きたいの!」
宵芽は懇願した。
宵芽は、幼い頃から魂を飛ばすことが出来た。自然と一体になり、風と共にどこまでも飛んでゆくことが出来た。ただ、その力は、自分の体に戻れなくなる危険と隣り合わせだった。戻れなければ、残された体は衰え死んでしまう。それを回避するために、他の生き物の体を借りる訓練をした。楓の助力が必要ではあるが、宵芽は何度も鳶に魂を移し、阿蘇の山まで飛んだ。それは
この力を使えば、鳶のように自由に羽ばたける。アカルの居る場所へも、真っ直ぐに飛んでゆける。宵芽の頭にあるのはそれだけだった。
「宵芽、朱瑠の側へ行っても、鳶の姿では何もしてやることは出来ぬぞ」
楓に言われてハッと息を呑む。その通りだ。最悪の場合、目の前でアカルの命の火が消えるのを、成す術もなく見ることになるかも知れない。
「でも……」
宵芽はアカルの側へ行きたかった。このまま、じっとしている事など出来ない。
そう思った時、宇奈利たちに動揺が走った。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴォー
突然、地の底から、低い唸り声のような地響きが聞こえて来た。カタカタと小さな揺れが始まり、やがて、立っていられないほど大きな揺れになった。
宵芽は高宮の入口にうずくまった。恐ろしくて柱にしがみついていると、しばらくして揺れが収まった。
「楓さまっ!」
宵芽の背後から、里の男たちの声がした。
「西の空に、噴煙が上がっています!」
血相を変えた男たちが、空を指さしている。
「阿蘇じゃ! お山が目覚めてしまったのじゃ!」
楓は皺だらけの細い手で、顔を覆った。ここ数年、山は沈黙していた。それが、突然噴煙を上げたのだ。
「なぜ……こんな時に」
震える手がゆらりと下がり、皺に埋もれた楓の細い目が、宵芽を捕らえた。
「宵芽。悪いが、朱瑠の所へ行くのは諦めておくれ。今から、お前を鳶に移す。阿蘇のお山へ行っておくれ」
「楓さま……」
宵芽の声が、小さくなって消えてゆく。
宇奈利の仕事はただ一つ。阿蘇のお山を守ること。幼い頃から叩きこまれたその教えに、逆らうことは出来ない。
バタバタと宇奈利たちが走り回り、魂乗せの準備に取り掛かる。宵芽は座り込んだまま、ぎゅっと目をつぶり、アカルの無事を祈った。
上昇気流に乗って、鳶が高く舞い上がる。
澄んだ空気に、陽の光が煌めいている。高く飛べば飛ぶほど、陽光は強くなる。谷を抜けて山の上まで飛ぶと、里の建物も木々に埋もれて見えなくなった。
鳶の中に魂を乗せた宵芽は、西の空に立ち昇る噴煙を探した。どういう訳か、思うように鳶の体を操れない。宵芽とは相性の良い馴染の鳶だというのに、上手く同調できない。獲物を見つけては、そちらへ気持ちが持って行かれる。
空腹だったのがいけなかったのだ────そう思おうとしたが、本当は違うと分かっていた。
(朱瑠、死なないでよ)
集中出来ないのは、宵芽自身のせいだった。血に染まったアカルの姿が、頭から消えてくれない。
ピィー ヒョーロロロロロロロ
宵芽の気持ちに鳶の方が同調したのか、悲しげな鳴き声を上げる。
(いけない。しっかりしなきゃ。阿蘇のお山まで飛ぶよ!)
灰色の噴煙がたなびく西の空に向かって、宵芽は飛んだ。
僅かに白い雪が残る外輪山を越えると、なだらかな草地が広がる。その向こうにある白茶けた山から、噴煙が上がっていた。
辺りに生き物の姿はない。風下に回らないように、噴煙の様子を見ながら近づいてゆく。ぽっかりと空いた火口の周りを、旋回しながら飛んだ。
噴煙を注意深く見ると、灰色の煙の中に、赤いうねりが重なって見えた。
(何だろう?)
噴煙に巻きつくように、薄っすらと赤い煙か炎のようなものが、螺旋を描いている。その先端が見えた時、深紅に光る二つの目が見えた。
(山神さま!)
初めて見たのに、宵芽はそれを神だと思った。煙に姿を変えて、地上の様子を見に来たのだと。
赤い目がこちらを向いた瞬間、息が止まるほど恐ろしかった。
ガクンという衝撃の後、旋回していた鳶が逆風に打たれたように飛ばされた。うまく羽ばたけない。必死に鳶をなだめ、体勢を立て直す手伝いをする。自分の体ではないのに、ドクドクと脈打つ血潮を、宵芽は感じていた。
赤い目をした蛇は、真っ直ぐに宵芽を見ている。自分は山神の怒りに触れてしまったのだろうか。そんな恐怖が、頭を
『────畏れを知らぬ人の子よ』
低い声が、直接頭の中に響いた。耳には大地の轟きが聞こえているが、声はとても明瞭だった。
『我ら八洲に住まう神は、人の子の神に非ず。己の罪ゆえに滅ぶと知れ』
心が冷たくなるような冷厳な声だった。宵芽は畏れるあまり、その場にひれ伏したくなった。
山神の目がひときわ赤く閃いた刹那、螺旋を描いていた火の蛇は、灰色の煙の中へ吸い込まれるように消えてしまった。
(……里に、戻ろう)
宵芽は、鳶に語りかけた。
羽ばたきを取り戻した翼が、ゆっくりと旋回しながら東へと向かう。
一刻も早く阿良々木の里へ戻り、いま視たものを、楓に伝えなくてはならない。
山神の言葉を伝えれば、宇奈利は変わるだろう。今までのような平和な日常は跡形もなく消え去り、山神の怒りを鎮めるべく必死に動くだろう。
何かが変化する、丁度その変わり目を、自分は視てしまったのだ。
(もう、朱瑠を助けに行けない……)
宵芽は絶望を胸に抱いたまま、遠い山の連なりを眺めた。
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