十二 一撃
「では、拝見させて頂きます」
手にした瞬間、何かが十世の体の中を駆け抜けた。それは、一人で山の頂に立ち、冷たい風を浴びた時のような清々しさだった。
ほぅ────自然と吐息が漏れる。
「これは正に、霊剣と呼ぶにふさわしい剣ですね。人の命を絶つ戦道具は、恨みを吸って呪具となる事はあっても、このように、清々しい霊威を放つことなどないと思っておりました」
十世はしばしアカルとの計画も忘れ、
「お前が、物に関心を持つのは初めてだな。何故だ?」
依利比古の鋭い問いかけに、十世の体がビクッと震える。
「で、ですから、不思議な霊威を感じて、確かめてみたくなったのです」
探るような依利比古の視線は、まるで十世を疑っているようだった。
確かに十世は、アカルを助ける為にこの計画を立てたが、これは依利比古にとって何ら害になるものではない。依利比古には、日の巫女の地位を継いだ自分がいる。アカルはここにいる必要はない。あの娘は魔物のことを心配しているようだが、依利比古の為に働く気はないのだ。遠ざけたところで誰も困らない────それに、あの娘は好いた男がいると言っていた。きっと、その男の元に戻りたいのだろう。
(さぁ、早くしなければ。計画通りに進めなくては、朱瑠が痺れを切らしてしまうわ)
十世は、平静を装って立ち上がった。依利比古の視線を逃れるために、少しでも距離をあけようと、祭壇に置かれた銅鏡の前までしずしずと歩いて行く。
「正直を申しますと、この剣が依利比古さまに害を及ぼすのではないかと、少々疑っておりました。今やこの剣に邪気は無いと断言出来ますが、念のために、神の御前で確かめとうございます」
剣を片手に持ち替え、銅鏡の前でゆっくりと鞘から引き抜く。金属が擦れる音がして、煌めく剣身が現れた。
「なんて美しい……」
思わず見惚れるが、片手で持つには剣は重すぎる。十世は左手に持った鞘を銅鏡の横へ置き、衣の袖で剣先を受け止めた。
「本当に素晴らしい剣でございます!」
剣を目の高さに掲げたまま、声高に約束の
「気が済んだのなら、返してくれ」
「えっ」
十世は慌てた。
床に胡坐をかいていた依利比古が、ゆっくりと立ち上がろうとしている。
(朱瑠! 何をしているのよ! ぐずぐずしていたら、千歳一隅のこの好機を逃してしまうじゃないの!)
十世が不安と焦りを募らせたとき、神殿の外が俄かに騒がしくなった。女の悲鳴のようなものまで聞こえてくる。
「まさか!」
またあの化け物が出たのでは、という思いを込めて依利比古を見ると、彼も同じことを思ったのか、すばやく神殿の扉に駆け寄り開け放った。
遠巻きに見つめる巫女たちの視線の先には、剣を振り回すヒオクと、刃から逃げ惑うアカルの姿があった。
(あの子ったら、ヒオクさまに見つかったのね)
ヒオクの刃を躱しながらも、アカルは神殿前の広場から逃げようとしない。それは、十世との約束があるからだろう。こんな状況でも、何とかして神殿に来るつもりだったのだ。
「何をしている!」
依利比古が、怒気をはらんだ呟きを残して神殿を出て行こうとする。
(まずいわ……)
依利比古が止めに入れば、アカルはきっと、無理やり別の場所に移されてしまう。もう二度と、こんな計画を立てることさえできなくなる。
そう思った瞬間、十世は腹をくくった。
「朱瑠っ!」
大声を発した十世は、両手で剣を持ったまま駆け出した。依利比古を追い越し、
驚いたようにヒオクが立ち止まり、アカルが振り返るのが見えた。
十世は走ったまま、重い剣を振りかぶる。
アカルの目が大きく見開かれ、十世の思いを察したように左腕を顔の前に掲げる。
(神よ!)
十世は、振りかぶった剣をアカル目掛けて振り下ろした。
周りの者たちが驚愕の声を上げているのは分かったが、実際には、十世の耳には何も聞こえてはいなかった。
ガキンッ
禍々しい気を放っていた
「やった」
消えた釧に目を瞠りつつ、十世は呆然とつぶやいた。
初めての謀りごとが上手くいったせいか、不思議なほど清々しい。胸には歓喜の思いが溢れてくる。
「十世、ありがとう。結界を頼む」
囁くようなアカルの声が聞こえて、ハッと我に返る。
(そうだ、結界を解かなければ────)
剣を持ったままよろめいた十世の体を、後ろから依利比古が支える。
そんな十世に笑いかけ、アカルが身を翻す。もう神殿に用はないとばかりに、今度こそ海の方へ向かって駆け出してゆく。
(よかった)
ホッとした十世の視界に、アカルを追って駆け出したヒオクの姿が映った。走るアカルの背に、剣を手にしたヒオクが肉薄する。
「ああっ!」
悲鳴を上げた十世の手から、霊剣が滑り落ちた。
まるで世界の時が速度を落としてしまったように、ゆっくりと、ヒオクの剣がアカルの背中に振り下ろされるのが見えた。
首には僅かに届かず、肩骨のあたりから背中へと滑った剣先が、肩甲骨の下にずぶりと突き刺さる。
カアァァァァァァー!
けたたましい鴉の鳴き声が聞こえた。
刺された瞬間、アカルはわずかにうめき声を発して体を反らした。背中から、赤い血が流れ落ちる。がくりと膝が沈みかけたが、それでもアカルは走り続けた。
ヒオクが再び剣を突き出した時、アカルの姿がフッと宙に消えた。
(朱瑠……)
十世は初めて、アカルの身を案じた。あれほど憎く、殺そうとまでした相手を、いつの間にか志を同じくする友のように思いはじめていた。
呆然とする十世の傍らで、依利比古が霊剣を拾い上げた。
剣先をアカルの血で濡らしたヒオクが、肩を落として戻って来る。
「ごめん。仕留め損ねてしまったよ」
緊張感のない垂れ目の王子が、肩をすくめる。
「いや、構わない。あの深手では、そう遠くへは逃げられないだろう」
淡々と依利比古が答える。
二人の王子の会話に、十世の心はズキンと痛んだ。
(そんな……深手を)
もしもアカルが死んでしまったら、どうすればいいのだろう。あの魔物から、たった一人で依利比古を守り通さねばならないのか。途轍もない不安が、十世の心に芽生えた。ついさっきまで、アカルなど必要ないと思っていたのに、今は心細くて仕方がない。
呆然としている十世の顔を、依利比古が覗き込んだ。
「お前が朱瑠に斬りかかるとは思わなかった。どうかしたのか? 顔が青ざめているよ」
ハッと顔を上げると、依利比古の視線が飛び込んで来た。
「あの……いえ、少し考え事を。朱瑠のしていた鈴釧は、何だったのでしょう? 割れた瞬間に消失してしまいましたが?」
十世は自分の不安を隠すために、疑問を口にした。あの禍々しい鈴釧も恐ろしかったが、今は目の前に居る依利比古の方が恐ろしい。
「あれは、私にもわからないよ。私の従者に訊いてみなくてはね」
本当なのか嘘なのか、曖昧な笑みを浮かべて、依利比古は十世を見る。
「そうですか」
十世は自分の中の怯えを振り捨て、必死に微笑みを浮かべた。
(朱瑠のことなど……気にしては駄目。あの子が友だなんて、私の不安な心が生み出した気の迷いだわ。だって、私の一番は、いつも依利比古さまなのですもの)
かつての雅やかで美しい依利比古も、すっかり変わってしまった今の依利比古も、これから更に暗さを増してゆくであろう未来の依利比古も、十世にとっては同じ光なのだ。
「依利比古さま、どうかその剣は、肌身離さずお持ちになって下さいね」
アカルに言われたからではない。もともと十世の願いはひとつだ。
この後どんなことが起ころうと、十世はいつまでも依利比古の傍に居る。どんなことが起ころうが、彼を守るのは自分なのだ。
十世は改めて、そう心に誓った。
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