九 黒き蛇神
パキッ────と音を立てて、鹿骨が割れた。
『吉兆にございます! お二人の盟約は、望むがままに叶いましょう』
目に映るのは、満足げな笑みを浮かべる
それは、つい先ほど神殿で行った
占いの結果は吉だが、鹿骨が割れた瞬間、十世にはたくさんの幻視が視えた。燃える船、
何よりも恐ろしかったのは、十世にとって常に恐怖の対象であったあの男が、血を流して倒れる場面だった。そこで笑う依利比古の顔だった。
もちろん、巫女の視る未来は一つではない。起こり得る可能性が、一番高いものを視るのだと、日の巫女さまから教わった。
依利比古は、ヒオクと交わした盟約の内容を話さなかったが、十世にはもうわかっていた。これは、筑紫の中だけでは収まらない、大きな戦が関わる盟約なのだ。
初めて会った時から、十世は依利比古の中にある葛藤に気づいていた。王子であって王子ではない。そんな自分の立場を厭いながら、彼は父王や兄王子に逆らわないよう、常に緊張感をもって過ごしていた。
誓約を終え、ヒオクと談笑する依利比古を見て気がついた。彼の中から、その葛藤が消えていた。あるのは、今までにはなかった野心だ。依利比古の中で、何かが変わってしまったのだ。
それが何なのか知りたかった。居ても立っても居られず、十世は走った。それを知っている可能性のある者に、問いただすために。
クバの森を抜けると、ザァッと風が吹き、目の前に海が広がった。
野営の準備をする武人たちとは少し離れた岩場に、浅葱色の衣を着た二人の女官が立っている。強い風に、二人の長い髪が横になびいている。
十世が立ち止まると、アカルが振り返った。
「小さな島だね。あっという間に一周出来ちゃったよ」
先ほどの殴り合いなど忘れたように、アカルが話しかけてくる。
「話があるの。人払いをしてちょうだい」
十世がジロリと睨みつけると、アカルの隣にいた女官は何も言わずに離れて行った。
「ここは寒いわ。こっちへ来て」
「へぇ、いいの? 穢れた者は、神域に入っちゃいけないんだろ?」
憎まれ口を叩きながら、アカルが近づいて来る。十世は無視して、アカルを森の中にある藁葺き小屋へ連れて行った。
「ここは、私が物忌みの時に使っている小屋よ。誰も近づかないわ。教えてちょうだい、依利比古さまに何があったの?」
アカルに訊かなきゃならないのは業腹だが、依利比古の為ならそんなことは言っていられない。幸い真剣な目で訴えると、アカルも
「さっき、あんたは私を穢れていると言ったけど、これが何かわかるか?」
アカルは左腕を差し出して袖をめくった。彼女の左手首を飾っている銀色の
十世は眉をひそめた。
「この
「そう。これは、
アカルがそう告げると、十世は素っ頓狂な声を上げた。
「う、宇奈利ですって! 依利比古さまは、
日輪殿出身の十世としては、依利比古に裏切られたような気持ちだった。
宇奈利と言えば、かつて阿蘇にあった、火の神を祀る巫女集団だ。先の日の巫女さまの出身でもあるが、十世たち巫女の間では、とうに忘れ去られた、古臭い者たちだという認識だった。
「依利比古は悪夢に苦しんで、阿良々木の里へ助言を乞いに行ったんだ。でも、その日の夜に行方不明になって……それから、人が変わったように何も喋らなくなった」
依利比古に何が起きたのか、今でもわからない。それがアカルは歯がゆかった。
「最近は、元に戻ったように見えるけど、やはり前とは違う。あれほど魔物を嫌っていたのに、今は魔物と手を組むような事を言っているんだ」
アカルは眉間に皺を寄せて嘆息した。そして、視線だけで十世を見る。
「あんたはどうして、私と話す気になった?」
「……依利比古さまとヒオクさまの前で、
思いの丈をぶちまけてから、十世は自分が心細かったのだと気づいた。死ぬほど嫌いだったアカルを頼りにしてしまう程、助けが欲しかったのだ。自分一人の心に留めておくには、あの幻視は恐ろしく、大きすぎた。
十世が崩れるように床に手をつくと、その手をアカルが優しく包んだ。
「あんたは、本当に依利比古が好きなんだね。今の依利比古に必要なのは、あんたみたいに心から彼を想ってくれる人だ。あんたとは不幸な行き違いがあったけど、依利比古は私を巫女にするつもりはないし、互いのことは何とも思ってない。私には他に好きな男がいるしね。あんたの敵にはならないよ。だから、これからは協力しよう」
「協力って……」
おずおずと顔を上げ、十世はアカルの顔を見た。
「宇奈利から、魔物を斃せる霊剣のことを聞いたんだ。依利比古が
「魔物を斃せる霊剣を持っているなら、安心なんじゃないの?」
十世が首をひねると、アカルは口ごもった。その顔には、濃い不安の色がある。
「……霊剣を手に入れても、依利比古は、魔物を斃さないかも知れない」
「ど、どういうこと?」
「もう悪夢を見なくなったこともあるが、依利比古には野心があるんだ。その野心のために、魔物の手を取るか、迷っているんだと思う。もちろん、霊剣で自分の身を守ることは出来るだろう。でも、このままなら、元の依利比古には戻らないよ」
「なるほど……そういう事ね」
十世は握った手を口元にあてて考え込んだ。誓約の幻視を見た十世には、依利比古の野心がどんなものかわかっていた。
「この鈴釧が取れない限り、今の私は只人と同じだ。依利比古が心配なら、あんたの力を貸してくれ」
「そんな……」
十世は怖気づいたように身を引いた。
「あんたにとって、一番大事なのは何だ? 武輝の怒りを買わないことか? そうじゃないだろう?」
「も、もちろん、依利比古さまよ!」
十世が答えた時だった。
ギャアァァァァァァァ────耳をつんざくような、鋭い悲鳴が響き渡った。
「な、なに?」
十世は体を抱くように衣の袖をつかみ、アカルは身構えるように片膝を立てた。
「神殿の方じゃないか? 行って見よう」
二人は連れ立ってクバの森を走った。すでに日は傾き、薄闇が下り始めている。
人ひとりがやっと通れるだけの小道から、神殿前の広場に出ると、高御膳を投げ出した女が、腰を抜かしたように地面に座り込んでいた。
彼女は、震える指を中空に向けている。
「なんだ、あれは!」
悲鳴に驚いて外へ出てきた者たちが、みな恐怖に固まっている。
木の根のような触手を体からたくさん伸ばした黒い大蛇が、広場の中央に浮かんでいた。高殿の屋根ほどの高さから、ゆらゆらと触手を伸ばしている。
「あれが────
アカルの呟きに、十世の全身に
「十世?」
ぶるぶる震える十世を、叱るようにアカルが叫ぶ。
「どう……しよう、私のせいだ」
膝から力が抜けた。立っていることすら出来なくて、十世は地面にへたり込む。
「私が、あの壺を開けたから……」
「何だって? もう一度ちゃんと言って!」
アカルが屈んで耳を寄せてくる。
「
罪悪感と恐ろしさで立ち上がれない十世を、アカルがつかんで引き上げる。
「そんなことはどうでもいい! 見ろ、あんたの仲間が危ないぞ!」
化け物の触手がぶわっと四方に伸びて、そのひとつが、地面に座り込んだ女に向かってゆく。
「無理よ! 私にどうしろと言うの?」
十世は叫んだ。
いつもの使鬼狩りとは違う。日の巫女の位を継いだとは言え、こんな桁違いの化け物を前にした時、どうすればいいのか誰も教えてはくれなかった。
「何でもいい! 出来ることをしろ!」
アカルがそう叫び、走り出すのが見えた。
十世は立ち上がることすら出来ないのに、彼女は野生の鹿のような身のこなしで神殿前の広場に駆け込むと、触手に向かって何かを投げた。
ぷつり、と分断された触手が霧となって消え、その隙に座り込んだ女の手を引いて建物の陰に隠れる。あっという間の出来事だった。
宙に浮いた黒蛇が悔しそうに身をくねらせると、声のない雄たけびにビリビリと空気が震えた。
依利比古とヒオクが高宮から出て剣を抜くと、黒蛇は再び空気を振動させてから、すーっと霧のように消えてしまった。
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