十 炫毘古(かがびこ)
魔物の出現に、
夜になり、簡単な夕餉を終えた
宙に浮かぶ黒き蛇神を見た時、今夜あたり
夜の森も、浜辺も静かだ。
ザザン、と奇岩に打ち寄せる波の音しか聞こえない。
冷たい風が依利比古の長い前髪を乱してゆく。
髪を搔き上げた時、不意に、アカルの刺すような視線を思い出した。魔物が現れた時、その場にいた誰もが魔物の異様な姿に怯え、ただ見上げているだけだった。
アカルだけが即座に動き、襲われそうになった巫女を助け出したのだ。刺すような視線を依利比古に向けたのは、その後だった。
『こんな状況でも、あんたは魔物を斃そうと思わないのか?』
そう訊かれたが、依利比古は答えなかった。
「居るのだろう、月弓?」
そう呟くと、まるで闇が凝ったかのように、突然目の前に月弓が現れた。
常に首元で括っていた長い黒髪は風になびき、白い顔は月の光を受けて青白く浮かび上がっている。
「やっと呼んで下さいましたね、依利比古さま」
丁寧な言葉とは裏腹な、嘲るような声の色。彼の何処を見ても、もはや、かつての気の優しい従者の面影はなかった。
「さっきの黒蛇はお前なのだろう? 何をしに来た? また私を
依利比古は、静かな面持ちで月弓を見つめる。魔物に対する恐れが消えたわけではないが、今は
「あははははっ あーはっはっはっ────」
突然、月弓が笑い出した。腹を抱えて笑っている。
「何が可笑しい!」
依利比古が
「俺を
月弓が夜空を指さす。そこには、月光を浴びながらざわざわと蠢く黒い影が浮かんでいた。
「……どういう、ことだ?」
暗御神があの蛇なら、目の前に居る月弓には、何が憑いているというのだ。剣の束を握る手にぐっと力を込める。緊張のせいか、手のひらが汗ばんでいる。
「俺の名は
炫毘古と名乗った男は、月弓の顔で得意げに笑う。
「……いつから、月弓の中にいた?」
問い返す依利比古に、さぁてと答え、炫毘古は目を細めた。
「お前こそ、随分と物騒なことを考えているじゃないか」
そう言って口端を吊りあげた瞬間、月弓の黒い瞳がクルリと
「楽しそうじゃないか。何なら手を貸してやってもいいんだぞ」
依利比古の心を読んだのか、それともヒオクとの密約を聞かれたのか、炫毘古は明らかに彼の計画を知っているようだった。
「お前の手など借りぬ」
依利比古が拒むと、炫毘古は再び笑い出した。
「俺なら、お前の大願を短期間に叶えてやれるぞ。いつでも俺を呼べ。手を貸してやる」
「誰がお前など呼ぶかっ!」
依利比古が叫ぶと、炫毘古を宿した月弓も、宙に浮かんでいた蛇神も、瞬く間に消えてしまった。
〇 〇
奇岩に寄せては返す波の音が、静かな浜辺に響いている。
依利比古が去り、誰も居なくなったその静かな浜辺に、クバの森から二つの人影がそっと這い出した。
「ちょっと、話が違うみたいじゃない?」
「うん……暗御神と月弓は別ものだったみたいだな。良かったじゃないか、壺から出てきた魔物は月弓じゃなかったんだ」
月に照らされた浜辺に出て来たのは、アカルと十世だった。二人は、人目を忍んで高宮を出て行く依利比古を見つけ、後を追って来た。そして睨んだ通り、依利比古と魔物が接触する場面を見ることが出来た。
「どちらでも同じことだわ。だって……私が壺を開けたから、あの魔物が外に出て、月弓の中で眠っていた炫毘古を起こしてしまったのですもの」
十世は暗い顔で嘆息する。
「それはまぁ、そうだけど。あいつはいつから月弓の中に居たんだろう? 初めて会った時から、確かに月弓の気配は恐ろしかったけど……そういえば、炫毘古って、
アカルが考え込んでいると、十世が横から口を挟んだ。
「炫毘古なら私だって知っているわよ。火の神だわ! 彼は、産み落とされた時に母神を殺してしまったせいで、父神に殺されてしまうのよ」
「え、父親に殺されたのか? 宇奈利の神話とは違うな」
「当り前よ。私が知っているのは、
十世は得意げに胸を張る。
「でも、神が我が子を殺すのか……その後、炫毘古はどうなるんだ?」
「どうなるって、神話にはそれきり出てこないわ。だって死んでしまったのですもの」
「なるほど……」
アカルは腕組みをして考え込んだ。
宇奈利の長は、火の神炫毘古に隠された歴史を知ることが出来れば、魔物を斃せると言っていた。十世の言う”父神の子殺し”が、もしも人の世の出来事ならば、月弓に憑りついているのは、殺されて魔物に転化した子供の魂という事になる。
「────依利比古さまは大丈夫そうじゃない。ちゃんと魔物の誘惑を拒んでいらしたわ」
「でも、魔物に剣を向けなかったじゃないか」
依利比古はずっと剣の束に手をかけていた。たぶん、あれが韴之剣なのだろう。
ヒオクから霊剣を譲り受けていたなら、なぜ魔物を斃そうとしなかったのだろう。依利比古の行動はやはり納得できない。例え今は魔物の手を拒んでも、いつかその手を借りようと思っているのではないだろうか。
「朱瑠は、依利比古さまが、魔物の手を取るかも知れないと思っているわけ?」
「そうじゃなければ良いと思うけど……私は、依利比古とヒオクの企みが気になるんだ。あいつらは何をしようとしているんだろう?」
「それは……」
喉元まで言葉が出そうになるのを、十世は咄嗟に堪えた。依利比古との約束を破る事など出来ない。
「だ、大丈夫よ! 魔物に剣を向けなかったのは確かに気になるけど、何か考えがおありなのよ。そうに決まってる。私が依利比古さまに訊いてみるわ!」
こぶしを握る十世を見て、アカルは表情を緩めた。
「そうだね。依利比古には十世がついている。大丈夫だ。あいつが魔物の手を取らない様に、守ってやってくれ」
「そ、そんなの、お前に言われるまでもないわよ! それより、その
「ああ、これね。どうにかして韴之剣を借りて壊したいんだけど、無理かなぁ……」
アカルは苦笑して肩をすくめる。
そもそも依利比古に近づけないのに、彼の剣に手を触れる機会などある訳がない。
「私が、その機会をあげても良くてよ」
「へ?」
「だからっ! 私なら、依利比古さまの剣を見せて頂くことが出来るはずだわ」
「えっ、十世が剣を借りてくれるってこと?」
アカルがびっくりして目を瞠ると、十世は不機嫌そうに口を
「だからそう言ってるでしょ。借りることは出来なくても、私の手からお前が奪えばいいのよ」
「ああ、なるほど! あんた、思ったよりも良い奴だね」
アカルに笑いかけられて、十世は唇を尖らせる。
「も、もちろん、上手くいとは限らないわよ。その時は自分でどうにかしなさい」
「わかった。ありがとう。ついでにもう一つお願いしても良いかな?」
「なっ、何よ、厚かましいわね!」
「もしもこの鈴釧が取れたら、一瞬でいいから、この島の結界を解いてくれない? その隙に逃げ出すからさ」
「結界を? 逃げ出すって、何処へ行くつもり?」
十世が、不安な目でアカルを見つめる。
「とりあえず、
「朱瑠……」
「まぁ、失敗したら、また依利比古の虜囚に逆戻りだけどさ。十世にしたら、私は居ない方が良いでしょ?」
「わ、私は別に……」
パッと視線を逸らす十世の頬が赤らんでいる。
アカルは笑った。
「そう言えば、依利比古は奥方のことも、何とも思ってないみたいだよ。がんばれ!」
「なっ、何を言うの! 私は日の巫女なのよ! お前のように、自由に生きられる訳ないじゃないわ!」
十世がムキになって否定する。
「そうか。まだ魔物も斃してないし、やることが山積みだものね。でも、悔いの無いように生きた方が良いよ。特に、呪いはもう止めときな」
呪詛の件をやんわりと止めると、十世が拳を振り上げる。
「何を……生意気な!」
「あははっ。ごめん! それで、いつ韴之剣を借りてくれるの?」
「今日はもう遅いから、明日の朝ね」
十世は真剣な目で夜空を見上げた。
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