十 炫毘古(かがびこ)


 魔物の出現に、真砂島まさごしまの巫女たちは怯えていた。

 十世とよもすっかり取り乱し、落ち着くまで時間がかかった。


 夜になり、簡単な夕餉を終えた依利比古いりひこは、まだ酒を飲んでいるヒオクと別れ、ひとり夜の浜辺へ向かった。

 宙に浮かぶ黒き蛇神を見た時、今夜あたり月弓つきゆみが接触してくる気がしたのだ。

 狭嶋さしまにはついて来ないように言い含め、武人たちが野営している場所とは反対側の浜辺へ向かった。


 夜の森も、浜辺も静かだ。

 ザザン、と奇岩に打ち寄せる波の音しか聞こえない。

 冷たい風が依利比古の長い前髪を乱してゆく。

 髪を搔き上げた時、不意に、アカルの刺すような視線を思い出した。魔物が現れた時、その場にいた誰もが魔物の異様な姿に怯え、ただ見上げているだけだった。

 アカルだけが即座に動き、襲われそうになった巫女を助け出したのだ。刺すような視線を依利比古に向けたのは、その後だった。

『こんな状況でも、あんたは魔物を斃そうと思わないのか?』

 そう訊かれたが、依利比古は答えなかった。


「居るのだろう、月弓?」


 そう呟くと、まるで闇が凝ったかのように、突然目の前に月弓が現れた。

 常に首元で括っていた長い黒髪は風になびき、白い顔は月の光を受けて青白く浮かび上がっている。


「やっと呼んで下さいましたね、依利比古さま」


 丁寧な言葉とは裏腹な、嘲るような声の色。彼の何処を見ても、もはや、かつての気の優しい従者の面影はなかった。


「さっきの黒蛇はお前なのだろう? 何をしに来た? また私をそそのかしに来たのか?」


 依利比古は、静かな面持ちで月弓を見つめる。魔物に対する恐れが消えたわけではないが、今は韴之剣ふつのつるぎがある。依利比古は、腰に帯びた大剣の束に手をかけた。


「あははははっ あーはっはっはっ────」


 突然、月弓が笑い出した。腹を抱えて笑っている。


「何が可笑しい!」


 依利比古が気色けしきばむと、月弓は笑うのをやめた。


「俺を暗御神くらおかみだと思っていたのなら、残念だったな。あの蛇神なら、ほら、あそこにいる」


 月弓が夜空を指さす。そこには、月光を浴びながらざわざわと蠢く黒い影が浮かんでいた。


「……どういう、ことだ?」


 暗御神があの蛇なら、目の前に居る月弓には、何が憑いているというのだ。剣の束を握る手にぐっと力を込める。緊張のせいか、手のひらが汗ばんでいる。


「俺の名は炫毘古かがびこ。あの蛇神に起こされるまでは、ずっと、この人間の中で眠っていた」


 炫毘古と名乗った男は、月弓の顔で得意げに笑う。


「……いつから、月弓の中にいた?」


 問い返す依利比古に、さぁてと答え、炫毘古は目を細めた。


「お前こそ、随分と物騒なことを考えているじゃないか」


 そう言って口端を吊りあげた瞬間、月弓の黒い瞳がクルリと白銀しろがね色に変わった。夢の魔物と同じ白銀の瞳だ。


「楽しそうじゃないか。何なら手を貸してやってもいいんだぞ」


 依利比古の心を読んだのか、それともヒオクとの密約を聞かれたのか、炫毘古は明らかに彼の計画を知っているようだった。


「お前の手など借りぬ」


 依利比古が拒むと、炫毘古は再び笑い出した。


「俺なら、お前の大願を短期間に叶えてやれるぞ。いつでも俺を呼べ。手を貸してやる」


「誰がお前など呼ぶかっ!」


 依利比古が叫ぶと、炫毘古を宿した月弓も、宙に浮かんでいた蛇神も、瞬く間に消えてしまった。



 〇     〇



 奇岩に寄せては返す波の音が、静かな浜辺に響いている。

 依利比古が去り、誰も居なくなったその静かな浜辺に、クバの森から二つの人影がそっと這い出した。


「ちょっと、話が違うみたいじゃない?」


「うん……暗御神と月弓は別ものだったみたいだな。良かったじゃないか、壺から出てきた魔物は月弓じゃなかったんだ」


 月に照らされた浜辺に出て来たのは、アカルと十世だった。二人は、人目を忍んで高宮を出て行く依利比古を見つけ、後を追って来た。そして睨んだ通り、依利比古と魔物が接触する場面を見ることが出来た。


「どちらでも同じことだわ。だって……私が壺を開けたから、あの魔物が外に出て、月弓の中で眠っていた炫毘古を起こしてしまったのですもの」


 十世は暗い顔で嘆息する。


「それはまぁ、そうだけど。あいつはいつから月弓の中に居たんだろう? 初めて会った時から、確かに月弓の気配は恐ろしかったけど……そういえば、炫毘古って、宇奈利うなりの長の話に出てきたな」


 アカルが考え込んでいると、十世が横から口を挟んだ。


「炫毘古なら私だって知っているわよ。火の神だわ! 彼は、産み落とされた時に母神を殺してしまったせいで、父神に殺されてしまうのよ」


「え、父親に殺されたのか? 宇奈利の神話とは違うな」


「当り前よ。私が知っているのは、日輪殿にちりんでんに伝わる神話ですもの。日輪殿には、昔から伊那いな国の巫女が多くいたのよ。韴之剣ふつのつるぎに繋がる伝説なら、日輪殿の方が正しい筈よ」


 十世は得意げに胸を張る。


「でも、神が我が子を殺すのか……その後、炫毘古はどうなるんだ?」


「どうなるって、神話にはそれきり出てこないわ。だって死んでしまったのですもの」


「なるほど……」


 アカルは腕組みをして考え込んだ。

 宇奈利の長は、火の神炫毘古に隠された歴史を知ることが出来れば、魔物を斃せると言っていた。十世の言う”父神の子殺し”が、もしも人の世の出来事ならば、月弓に憑りついているのは、殺されて魔物に転化した子供の魂という事になる。


「────依利比古さまは大丈夫そうじゃない。ちゃんと魔物の誘惑を拒んでいらしたわ」


「でも、魔物に剣を向けなかったじゃないか」


 依利比古はずっと剣の束に手をかけていた。たぶん、あれが韴之剣なのだろう。

 ヒオクから霊剣を譲り受けていたなら、なぜ魔物を斃そうとしなかったのだろう。依利比古の行動はやはり納得できない。例え今は魔物の手を拒んでも、いつかその手を借りようと思っているのではないだろうか。


「朱瑠は、依利比古さまが、魔物の手を取るかも知れないと思っているわけ?」


「そうじゃなければ良いと思うけど……私は、依利比古とヒオクの企みが気になるんだ。あいつらは何をしようとしているんだろう?」


「それは……」


 喉元まで言葉が出そうになるのを、十世は咄嗟に堪えた。依利比古との約束を破る事など出来ない。


「だ、大丈夫よ! 魔物に剣を向けなかったのは確かに気になるけど、何か考えがおありなのよ。そうに決まってる。私が依利比古さまに訊いてみるわ!」


 こぶしを握る十世を見て、アカルは表情を緩めた。


「そうだね。依利比古には十世がついている。大丈夫だ。あいつが魔物の手を取らない様に、守ってやってくれ」


「そ、そんなの、お前に言われるまでもないわよ! それより、その鈴釧すずくしろはどうするの?」


「ああ、これね。どうにかして韴之剣を借りて壊したいんだけど、無理かなぁ……」


 アカルは苦笑して肩をすくめる。

 そもそも依利比古に近づけないのに、彼の剣に手を触れる機会などある訳がない。


「私が、その機会をあげても良くてよ」


「へ?」


「だからっ! 私なら、依利比古さまの剣を見せて頂くことが出来るはずだわ」


「えっ、十世が剣を借りてくれるってこと?」


 アカルがびっくりして目を瞠ると、十世は不機嫌そうに口をすぼめた。


「だからそう言ってるでしょ。借りることは出来なくても、私の手からお前が奪えばいいのよ」


「ああ、なるほど! あんた、思ったよりも良い奴だね」


 アカルに笑いかけられて、十世は唇を尖らせる。


「も、もちろん、上手くいとは限らないわよ。その時は自分でどうにかしなさい」


「わかった。ありがとう。ついでにもう一つお願いしても良いかな?」


「なっ、何よ、厚かましいわね!」


「もしもこの鈴釧が取れたら、一瞬でいいから、この島の結界を解いてくれない? その隙に逃げ出すからさ」


「結界を? 逃げ出すって、何処へ行くつもり?」


 十世が、不安な目でアカルを見つめる。


「とりあえず、姫比きびに戻るよ。でも、何かあったら力を貸すから、いつでも呼んで。あんたの声は泡間あわいを通して聞こえるからさ」


「朱瑠……」


「まぁ、失敗したら、また依利比古の虜囚に逆戻りだけどさ。十世にしたら、私は居ない方が良いでしょ?」


「わ、私は別に……」


 パッと視線を逸らす十世の頬が赤らんでいる。

 アカルは笑った。


「そう言えば、依利比古は奥方のことも、何とも思ってないみたいだよ。がんばれ!」


「なっ、何を言うの! 私は日の巫女なのよ! お前のように、自由に生きられる訳ないじゃないわ!」


 十世がムキになって否定する。


「そうか。まだ魔物も斃してないし、やることが山積みだものね。でも、悔いの無いように生きた方が良いよ。特に、呪いはもう止めときな」


 呪詛の件をやんわりと止めると、十世が拳を振り上げる。


「何を……生意気な!」


「あははっ。ごめん! それで、いつ韴之剣を借りてくれるの?」


「今日はもう遅いから、明日の朝ね」


 十世は真剣な目で夜空を見上げた。

  

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