八 真砂島
夜の
その小舟から下りた数名の武人の中には、変装したヒオクが混じっている。彼の来訪は、
事前に依利比古の使鬼・
「依利比古さま、約束は守ってくれるんだよね?」
僅かな供回りだけで、こそこそと安波岐の宮へ来ることになったヒオクは、垂れ気味の大きな目に不満の色を滲ませている。
「もちろん。明日は
笑みを浮かべて依利比古が訊き返すと、ヒオクは腰に帯びていた大剣を鞘ごと外し、両手に捧げるようにして差し出した。
「
「確かに」
依利比古は探るような目で大剣を見つめ、両手で受け取った。
スンっと、何かが手のひらに伝わってきた。体の中に清涼な風が吹いて、凝っていた闇の気が祓われ、霧消してゆく。
韴之剣を見つめたまま、依利比古は満足げな笑みを浮かべた。
「きみが要らないなら、私がこの韴之剣を貰ってもいいかい? もちろん、代わりにきみの好きな剣をあげるけど」
「べつに代わりの剣はいらないよ。十世に会わせてくれるなら、韴之剣をあげてもいいよ」
「ふふ、欲がないね。本当に十世に会うだけが望みかい?」
依利比古は微笑みながら、片口の酒器を手に取りヒオクの杯に酒を注ぐ。
「もちろん、それだけじゃないよ」
ヒオクは肩をすくめた。
「義父上はさぁ、十世を、
ヒオクは普段から明け透けな物言いをするが、慣れているはずの依利比古もこれには少し驚いた。
「なるほど。今の伊那国は、確かに筑紫の中心とは言えないが、大陸との交易に関しては、伊那がこの八洲の玄関口だ。大陸の大官とのやり取りも、全て伊那国が取り仕切っている。けれど、きみはそれだけじゃ満足できない。今の伊那国のあり方では不満だということだね?」
面白い事を探して悪戯を繰り返していたあのヒオクが、初めて統治者としての欲を滲ませている。
依利比古は、己の胸が高鳴るのを感じた。ヒオクの変化に触発されるように、依利比古の内に秘めていた策謀が、動き出そうとしている。
「────ならばヒオク王子、私と協力しないか?」
普段は清楚な女を思わせる依利比古の美しい顔に、ぞくりとするような蠱惑的な笑みが浮かんでいた。
〇 〇
青空と海との間に、小さな島が浮かんでいる。山がなく平坦なその島は、真っ直ぐに続く
一面を緑の木々に覆われ、その周りを白い浜が囲んでいる。浜の周りには、ギザギザした縞模様の奇岩が平らに広がり、波に洗われている。
早朝に安波岐の宮を出た船は、島を囲むギザギザの岩を避けて筑紫側の入り江に入り、そこから三艘の小舟で島へ渡った。
島は巫女の住まう神域ということもあり、島の中へ入ったのは依利比古と
「────良かったではないか」
山吹が、アカルを励ますように声をかける。
「まぁね」
答えるアカルは、山吹ほど楽観的ではない。真砂島に連れて来てもらえたのは幸運だったが、依利比古の真意はわからない。彼は霊剣を手に入れても、アカルを解放するつもりはないと断言した。それなのに、どうしてアカルを真砂島へ連れて来たのだろう。
(まさか……私と十世の対立を面白がっている訳じゃないよな)
アカルを憎んでいるらしい今の依利比古なら、やりかねない。
もちろんアカルも、
白砂の上を歩き、クバの森に入る。冬でも緑の葉を茂らせる不思議な木々には枝がなく、樹上から手指のように分かれた大きく細長い葉を垂らしている。
森の中の小道を行くと、朱塗りの門があった。その奥には広場があり、正面に建つ朱塗りの柱の高殿を中心に、いくつかの建物が広場を囲んで建っていた。
高殿の前には、十世と数人の巫女たちが並んで待っていた。依利比古が近づくと、深々と
「よくおいで下さいました。依利比古さま、ヒオクさま。お疲れでございましょう。夕餉には早いですが、あちらでお寛ぎ下さい」
頬を染めながら顔を上げた十世が、右手を上げて客人を案内する。
その時、十世は客人たちの最後尾に、浅葱色の衣を纏った二人の女官がいることに気がついた。不審に思う間もなく、そのうちの一人がアカルだと気がついた。一瞬だけ表情を強張らせたものの、十世はすぐに穏やかな表情に戻り、他の巫女に案内を託した。
アカルは、真っ直ぐこちらに歩いて来る。十世は依利比古たちを見送ると、すぐにアカルに向き直った。
「なぜお前がここにいるの?」
眉をひそめて厳しく問うと、アカルは不敵に笑った。
「さぁ、わからない。でも、ここで会えてよかったよ。
アカルはそう言い放つなり、バチンと十世の頬を打った。
「なっ、何をするの、この無礼者!」
叫んだ十世が、アカルの頬を打ち返す。
二人が互いの手首をつかみ合い、取っ組み合いのけんかにもつれ込むと、オロオロするばかりの巫女たちを見かねて、依利比古が戻ってきた。
「何をしている!」
十世とアカルの腕をつかんで引き離すと、冷たい視線を二人に向ける。
「依利比古さま、この者を追い出してください! このような穢れた者を、聖域に入れる訳にはいきません!」
泣きそうな声で縋ってくる十世と、悪びれる様子もなく平然と佇んでいるアカルを、依利比古は見比べた。
「朱瑠、お前は浜辺に居る護衛たちの所へ戻れ」
アカルにそう命じ、すぐに十世に向き直る。
「早速で悪いが、十世には
「はい……」
十世は頬を染めると、踵を返すまでの僅かな間に、アカルに嘲るような視線を送った。クスッと嗤った顔は、依利比古に選ばれた誇りに満ち満ちていた。
人払いされた神殿の中は、ガランとしていた。
古くから神域とされていたが、十世が来るまで、ここには僅かな巫女しか住んでいなかった。手入れはされているが神殿も古く、正面にある祭壇には、美しく磨かれた銅鏡が一つあるだけだ。
十世は戸棚から鹿骨を取り出すと、依利比古とヒオクの前に座る。
「何を占いましょう?」
十世の問いに、依利比古は深く息を吸い込んだ。
「私とヒオク王子は、密かに盟約を交わした。この事は誰にも知られてはならないが、十世は秘密を守れるか?」
「も、もちろんでございます! 私は今までも、これからも、ずっと依利比古さまの味方でございます。お力になれることがあれば、何でも致します!」
必死に訴える十世の姿を見て、それまで姿勢を正して座っていたヒオクが、だらりと姿勢を崩した。
「なぁんだ、案外普通なんだね。先の日の巫女さまみたいに、仰々しく
ダラダラしながら不満を言うヒオクを、十世がキッと睨む。
「それでも伊那の巫女たちは、この十世が一番だと言っているのだろう?」
依利比古が十世を擁護する。
「まぁね」
「ならば、我らの行く末を占ってもらおうではないか」
依利比古はそう言って、十世に目を向けた。
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