五 楓の予言
冷え切った体を毛皮で包み、囲炉裏や手焙り火鉢で部屋を暖める。
間もなく、白装束の一団が訪ねてきた。全身を白布で覆った巫女たちの中で、ただ一人顔を出している小さな老婆が、ヨッコラショと呟きながら依利比古の傍らに座り込む。
「あなたが、宇奈利の長ですか?」
アカルは床に手をついて老婆を見つめた。皺のように細い目をした老婆は、どことなく岩の里の老巫女に似た雰囲気を纏っている。
「そうじゃ。わしが長の
老婆の皺だらけの顔がクシャリと笑う。
「はい。アカルと申します」
アカルは丁寧に頭を下げた。
「どうやら依利比古王子は、夢に囚われておいでのようじゃな」
もともと曲がっている腰を更に曲げて、楓は依利比古の顔を覗き込んでいる。
楓に倣って、アカルも依利比古の顔を注意深く見つめた。眠っている依利比古の目は、瞼の下でくるくると忙しなく動いている。
「悪夢を、見ているのでしょうか?」
痛々しげに眉をひそめ、アカルは楓に目を向けた。
依利比古は、悪夢から逃れたくてこの
よほど落胆したのだろう。気まぐれに攫って来たアカルに弱音を吐くほど、彼は追い詰められていた。
依利比古のことは嫌いだし、正直恨みしか抱いていない。けれど、目の前で眠り続ける彼の姿は痛ましく、可哀そうだった。
アカル自身も、同じ魔物に手枷を嵌められ、霊力が使えない状態だが、たぶん彼ほど心は追い詰められていない。
「────王子が倒れていたのは、
「魂の、通り道? もしかして、宇奈利の伝説にある、魂が山へ昇る時の通り道ですか?」
宵芽から聞いた伝説を思い出し、アカルはそう尋ねた。
「阿蘇に限らず、各地の霊山には大抵そういった道がある。そして霊山は、冥府に繋がっているのじゃ。王子の魂は、冥府に引かれているのかも知れん」
「……冥府に?」
アカルは、岩の巫女に返した耀珠のことを思い出した。幼い頃、何度も死にかけたアカルの為に、岩の巫女がくれた赤い珠は、魂が冥府に引かれるのを防いでくれた。
「お前さまは強いのぉ。黒き手枷に奪われた光が、わずかだが戻って来ておる」
「え、そうですか? それならきっと、
明るくて愛らしい宵芽を思い浮かべ、アカルは破顔した。
「宵芽? あの子に会うたのか?」
「はい。彼女と話したお陰で、私も気持ちが前向きになりました」
アカルが笑うと、楓もくしゃりと笑った。
「そうか。それは良かった。では、お前さまの右手を、王子の額に当てておやりなさい。僅かな光でも力になるじゃろう」
アカルは頷いて、依利比古の白い額に右手を乗せた。ほんの僅かしかない霊力を手のひらから額に送り込む。不思議な事に、霊力を身に纏っても、鈴釧に吸い取られはしなかった。
手のひらに集中するうちに、ふと疑問が湧いてきた。
「あの……宇奈利の神話を聞いて、少し疑問に思ったことがあるのですが、お聞きしてもいいですか?」
「勿論じゃ」
楓がコクリと頷く。
「神話の中で山の神が怒ったのは、人が戦をし、争い合ったからですよね?
「うむ。そうじゃのぉ」
楓は皺だらけの顔に笑みを浮かべた。
「神話というものは、ただ神代の出来事を伝えたものもあれば、人の世の出来事を、神話という形にして残したものも、あるのではなかろうか?」
「えっと……それは、どういう事でしょうか?」
アカルは額を押さえた。
「神話の中には、渡海人が来てから加えられたものもあるのではないか、という事じゃ。宇奈利の神話にも、我ら人の世の出来事が混ざり合うていると思われる箇所がある────さっきお前さまが言った、山の神が怒るくだりは、本来は火の山の噴火を表すものじゃ。しかし山神が怒った理由は、人の子の生死の数が合わなくなった為だという。そしてその後、山里を焼いた火の神が殺される。この部分は、戒めの為に後付けされたものではなかろうか?」
楓は細い目をじっとアカルに向けている。
「殺された火の神は、
「なるほど、そういう事ですか」
礼を言おうとした時、楓がそれを遮るようにしてアカルの肩をつかんだ。骨と皮しかない細腕は、驚くほど強い力でアカルの肩を締め付けた。
「お前さまならば……神話の中にある真実を探せるかも知れぬ。もしも火の神、炫毘古に隠された歴史を知ることが出来たなら、その血から生まれた
不思議な空気を纏って、楓はそう言った。
暗御神を斃す方法ならもう当てがある────とも言えず、アカルはただ、楓の皺くちゃな顔を見つめていた。
(────さっきのは、
楓と白装束の一団が帰って行くと、山に囲まれた集落にはもう薄闇が下りていた。
アカルはあれからずっと依利比古の額に手を乗せている。肌には少しだけ温もりが戻っていたが、まだ目覚めそうにない。
「火の神、炫毘古に隠された歴史……か」
ポツリと呟いてみる。
あの時の楓は不思議な空気を纏ってはいたが、神がかっているようには見えなかった。けれど、とても重要なことを言われた気がする。
カタンと音がして、戸が開いた。盆を手にした狭嶋が入ってくる。
「夕餉だ、食え」
アカルの前に差し出された盆の上には、小芋の入った汁の椀が乗っていた。
「この辺りは土地がやせているから、米はとれない。子芋ばかりだ」
言い訳のように言葉を付け足す狭嶋に、アカルは微笑んだ。
「子芋は好きだ。ありがとう」
チリンと
「大分温もりが戻っておられる。もう手を離しても大丈夫だろう」
なかなか食べようとしないアカルを気遣ったのか、狭嶋が依利比古に触れながら言う。
「そうか……そうだな」
アカルが手を離そうとした時、依利比古の瞼が僅かに揺れた。
「依利比古さま! お気がつかれましたか?」
狭嶋が身を乗り出した。依利比古の瞼がゆっくりと開く。
引っ込めようとしていたアカルの手を、依利比古の手が柔らかくつかんだ。目はアカルを見つめて微笑んでいる。
「
「え?」
何を言われたのか分からず、アカルと狭嶋は顔を見合わせる。
ハッとしたように依利比古の瞳が揺れ、その顔から笑みが消えてゆく。
凍てついたような無表情のまま、依利比古はアカルの手を放した。
(なんだろう、これは)
表情の消えた依利比古の顔を見た途端、得体のしれない不安が、アカルの心をじわりと侵食してきた。
只事ではない何かが、彼の身に起きている。
氷のような瞳をした依利比古から、アカルは目が離せなかった。
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