五 楓の予言


 依利比古いりひこが見つかったのは、日が高くなった頃だった。

 宇奈利うなりの長から「谷を探せ」と助言を受けた狭嶋さしまたちが、谷川のすぐ脇にある大きな洞穴の中で、倒れている依利比古を見つけた。幸い怪我はなかったが、出湯の集落に運び込んでも、依利比古の意識は戻らなかった。


 冷え切った体を毛皮で包み、囲炉裏や手焙り火鉢で部屋を暖める。

 間もなく、白装束の一団が訪ねてきた。全身を白布で覆った巫女たちの中で、ただ一人顔を出している小さな老婆が、ヨッコラショと呟きながら依利比古の傍らに座り込む。


「あなたが、宇奈利の長ですか?」


 アカルは床に手をついて老婆を見つめた。皺のように細い目をした老婆は、どことなく岩の里の老巫女に似た雰囲気を纏っている。


「そうじゃ。わしが長のかえでじゃ。お前さまがいにしえの巫女か?」

 老婆の皺だらけの顔がクシャリと笑う。


「はい。アカルと申します」

 アカルは丁寧に頭を下げた。


「どうやら依利比古王子は、夢に囚われておいでのようじゃな」


 もともと曲がっている腰を更に曲げて、楓は依利比古の顔を覗き込んでいる。

 楓に倣って、アカルも依利比古の顔を注意深く見つめた。眠っている依利比古の目は、瞼の下でくるくると忙しなく動いている。


「悪夢を、見ているのでしょうか?」


 痛々しげに眉をひそめ、アカルは楓に目を向けた。

 依利比古は、悪夢から逃れたくてこの阿良々木あららぎの里を訪れた。しかし、宇奈利の長ですら魔物を払うことは出来なかった。

 よほど落胆したのだろう。気まぐれに攫って来たアカルに弱音を吐くほど、彼は追い詰められていた。


 依利比古のことは嫌いだし、正直恨みしか抱いていない。けれど、目の前で眠り続ける彼の姿は痛ましく、可哀そうだった。

 アカル自身も、同じ魔物に手枷を嵌められ、霊力が使えない状態だが、たぶん彼ほど心は追い詰められていない。


「────王子が倒れていたのは、火龍窟ひりゅうのいわやという場所じゃ。あの穴は、大昔に阿蘇の山が血を流した時に出来たと言われておる。古くから神域として祀られておるが、一方では魂の通り道だとも言われておるのじゃ」


「魂の、通り道? もしかして、宇奈利の伝説にある、魂が山へ昇る時の通り道ですか?」


 宵芽から聞いた伝説を思い出し、アカルはそう尋ねた。


「阿蘇に限らず、各地の霊山には大抵そういった道がある。そして霊山は、冥府に繋がっているのじゃ。王子の魂は、冥府に引かれているのかも知れん」


「……冥府に?」


 アカルは、岩の巫女に返した耀珠のことを思い出した。幼い頃、何度も死にかけたアカルの為に、岩の巫女がくれた赤い珠は、魂が冥府に引かれるのを防いでくれた。


「お前さまは強いのぉ。黒き手枷に奪われた光が、わずかだが戻って来ておる」


「え、そうですか? それならきっと、宵芽よいめのお陰です」

 明るくて愛らしい宵芽を思い浮かべ、アカルは破顔した。


「宵芽? あの子に会うたのか?」


「はい。彼女と話したお陰で、私も気持ちが前向きになりました」

 アカルが笑うと、楓もくしゃりと笑った。


「そうか。それは良かった。では、お前さまの右手を、王子の額に当てておやりなさい。僅かな光でも力になるじゃろう」


 アカルは頷いて、依利比古の白い額に右手を乗せた。ほんの僅かしかない霊力を手のひらから額に送り込む。不思議な事に、霊力を身に纏っても、鈴釧に吸い取られはしなかった。

 手のひらに集中するうちに、ふと疑問が湧いてきた。


「あの……宇奈利の神話を聞いて、少し疑問に思ったことがあるのですが、お聞きしてもいいですか?」


「勿論じゃ」

 楓がコクリと頷く。


「神話の中で山の神が怒ったのは、人が戦をし、争い合ったからですよね? 神代かみよの八洲にはまだ渡海人は来ておらず、古の民しか居なかったはずです。古の民も戦をしたのでしょうか? 私は岩の巫女から、古の民の長は世襲ではなく、人々の諍いを収められる者が選ばれると聞きました。戦をしたとは考えにくいのですが」


「うむ。そうじゃのぉ」

 楓は皺だらけの顔に笑みを浮かべた。


「神話というものは、ただ神代の出来事を伝えたものもあれば、人の世の出来事を、神話という形にして残したものも、あるのではなかろうか?」


「えっと……それは、どういう事でしょうか?」

 アカルは額を押さえた。


「神話の中には、渡海人が来てから加えられたものもあるのではないか、という事じゃ。宇奈利の神話にも、我ら人の世の出来事が混ざり合うていると思われる箇所がある────さっきお前さまが言った、山の神が怒るくだりは、本来は火の山の噴火を表すものじゃ。しかし山神が怒った理由は、人の子の生死の数が合わなくなった為だという。そしてその後、山里を焼いた火の神が殺される。この部分は、戒めの為に後付けされたものではなかろうか?」


 楓は細い目をじっとアカルに向けている。


「殺された火の神は、炫毘古かがびこと言う名が伝わっている。この神はたぶん人じゃ。火の山の噴火は、神代より幾度も繰り返し起こっておる。今も阿蘇の山だけでなく、北の柚冨ゆふ玖住くじゅうの山々も時折煙を上げておる。たぶん、幾度目かに山の神がお怒りになった時、丁度人の世も乱れていたのだろう。炫毘古が殺されたのはきっとその頃じゃ。当時の宇奈利たちは、後の世に何かを伝えたくて、その出来事を神話に組み込んだのであろう」


「なるほど、そういう事ですか」


 礼を言おうとした時、楓がそれを遮るようにしてアカルの肩をつかんだ。骨と皮しかない細腕は、驚くほど強い力でアカルの肩を締め付けた。


「お前さまならば……神話の中にある真実を探せるかも知れぬ。もしも火の神、炫毘古に隠された歴史を知ることが出来たなら、その血から生まれた暗御神くらおかみの正体を見つけることが出来るだろう。さすれば、王子を脅かす魔物を祓うことも出来るじゃろう────」


 不思議な空気を纏って、楓はそう言った。

 暗御神を斃す方法ならもう当てがある────とも言えず、アカルはただ、楓の皺くちゃな顔を見つめていた。




(────さっきのは、先視さきみだったのだろうか?)


 楓と白装束の一団が帰って行くと、山に囲まれた集落にはもう薄闇が下りていた。

 アカルはあれからずっと依利比古の額に手を乗せている。肌には少しだけ温もりが戻っていたが、まだ目覚めそうにない。


「火の神、炫毘古に隠された歴史……か」


 ポツリと呟いてみる。

 あの時の楓は不思議な空気を纏ってはいたが、神がかっているようには見えなかった。けれど、とても重要なことを言われた気がする。

 カタンと音がして、戸が開いた。盆を手にした狭嶋が入ってくる。


「夕餉だ、食え」


 アカルの前に差し出された盆の上には、小芋の入った汁の椀が乗っていた。


「この辺りは土地がやせているから、米はとれない。子芋ばかりだ」


 言い訳のように言葉を付け足す狭嶋に、アカルは微笑んだ。


「子芋は好きだ。ありがとう」


 チリンと鈴釧すずくしろを鳴らしながら左手で椀を受け取るが、右手はまだ依利比古の額に乗っている。片手では食べられないが、依利比古から手を離すのも躊躇われた。


「大分温もりが戻っておられる。もう手を離しても大丈夫だろう」


 なかなか食べようとしないアカルを気遣ったのか、狭嶋が依利比古に触れながら言う。


「そうか……そうだな」


 アカルが手を離そうとした時、依利比古の瞼が僅かに揺れた。


「依利比古さま! お気がつかれましたか?」


 狭嶋が身を乗り出した。依利比古の瞼がゆっくりと開く。

 引っ込めようとしていたアカルの手を、依利比古の手が柔らかくつかんだ。目はアカルを見つめて微笑んでいる。


波海なみ、ここにいたのか……よかった」


「え?」


 何を言われたのか分からず、アカルと狭嶋は顔を見合わせる。

 ハッとしたように依利比古の瞳が揺れ、その顔から笑みが消えてゆく。

 凍てついたような無表情のまま、依利比古はアカルの手を放した。


(なんだろう、これは)


 表情の消えた依利比古の顔を見た途端、得体のしれない不安が、アカルの心をじわりと侵食してきた。

 只事ではない何かが、彼の身に起きている。

 氷のような瞳をした依利比古から、アカルは目が離せなかった。

  

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