四 蛇の洞


『魔物を倒せたら、きみを解放してあげるよ』


 自分でも驚くほど、そう告げることに迷いはなかった。

 宇奈利うなりの長に会った直後はあれほど絶望していたのに、今の依利比古いりひこはとても穏やかな心地でとこにつき、暗い天井を見つめている。


 囲炉裏の向こうからは、アカルの静かな寝息が聞こえてくる。

 共に闘うと決めたことで二人の関係は変化した。彼女が味方になったというだけで、まだ何一つ解決している訳ではないのに、依利比古の心は不思議なほど温かかった。

 安波岐あわきの宮を出てから、起居を共にする依利比古とアカルを、周りの者たちがどういう目で見ているのかは知っていたが、彼がアカルに抱いている気持ちは、最初からその存在に対する興味だけだった。


 依利比古は、誰かを特別愛しいと思ったことは一度もない。それどころか、幼い日に母の儀式を見てからは、男女の営みに対する嫌悪感は強くなるばかりだ。妻の愛良あいらに対しても、その気持ちは変わらない。彼女を娶ったのはあくまで同盟のためで、依利比古は義務として彼女の元へ通った。むろん、彼女の方も同じ気持ちだろう。

 互いの努力の成果が見え、寝屋に通う苦痛も無くなった────悪夢を見始めたのがその後で良かったと、今頃になってホッとした。


『────古の血を引く巫女を解放してやりなされ』


 宇奈利の長、かえでは、アカルを解放する事が希望に繋がると言っていたが、そうではなかった。霊剣、韴之剣ふつのつるぎを手に入れて、暗御神くらおかみを倒す。アカルを解放するのはその後だ。それまでは、まだしばらく傍に居てもらわねばならない────そう考えている自分に気づいて、依利比古は愕然とした。


(私はそれほど、この娘に頼っているのだろうか?)


 思わず、かすかな寝息のする方に顔を向けて、依利比古はかぶりを振った。

 それは違う。ずっと心の内に秘めいていた己の弱さや、暗い思いを吐き出したせいで、少し惑っているのだ。


(馬鹿馬鹿しい)


 暗闇にかすかに見える天井の梁を見つめて、依利比古は笑った。


(葉月は、どれくらいで伊那いな国に入れるのだろうか?)


 韴之剣さえ手に入れれば、魔物など怖くはない。これ以上、阿良々木あららぎの里に滞在する必要もない。兵を休ませるためにあと一日滞在したら帰路につこう。


 疲れているのになかなか眠くならない。日ごと睡眠不足は降り積もっているのに、悪夢を恐れるあまり、無意識に眠りを拒絶しているのだろうか。

 無理にでも眠らなければ────そう思った時、不意に、この宮を囲む気配が変わった気がした。

 目を見開いて闇を凝視していると、戸が開き、御簾が揺れた。

 黒い人影が、御簾の隙間から滑り込んで来る。


「依利比古さま」


 月弓の声がした。


「お前……今まで、どこへ消えていた?」


 依利比古は体を起こすと、暗闇の中で月弓と対峙した。


「ここは不思議な気配の里ですね。面白くて、あちこち見て回っていました。川底に、なかなか見事な洞穴がありましたよ。あれは、阿蘇から流れ出た溶岩が作ったものですね」


 月弓はつらつらと物見の感想を述べる。昼間ならばまだわかるが、こんな深更しんこうに、わざわざ言いに来る話ではない。何より、月弓が戸を開ける前に、見張りの声が少しも聞こえなかった。

 依利比古は警戒を強めた。


「そんなことを言いに来たのか?」


「いいえ。あなたが心配だったので、確認しに来たのです」


 闇に包まれているのに、月弓の視線がアカルに向かうのがわかった。


「さすがに、その娘とどうにかなる心配は杞憂でしたね……だが、やっかいな娘だ。私の呪いを受けたのに、少しずつ光を取り戻している」


 月弓がため息をついた。


「その娘を信用してはいけませんよ。あなたは、その娘とのえにしを随分気にされていたようですが、それは、裏切りの記憶ですよ」


「裏切り?」


 依利比古は眉をひそめた。


「ええ。前の世で、その娘はあなたを裏切り、捨てたのです。今生では、同じ過ちを繰り返さないでくださいね」


 月弓はそう言うと、楽しそうな声でクスクスと笑う。


「……前の世だと?」


 確かに、アカルには不思議なえにしを感じていた。その縁が何なのか知りたくて、わざわざ姫比から連れて来たのだ。生まれも育ちもかけ離れ、何の接点もないのは確かだが、前の世の縁だと言われても俄かには信じられない。


「それほど昔の事ではありません────あなたとその娘の過去を、お知りになりたいですか?」


「私が……お前の言うことを、信じると思うのか?」


 依利比古は語気を強めた。

 例え過去に何があろうと、今は関係ない。アカルは依利比古にとって唯一の味方であり、魔物を退ける光なのだ。それに、馬鹿がつくほどお人好しな娘が、魔物に苦しめられている者を見捨てるだろうか────そう思うのに、裏切られるのではないかという恐怖に似た気持ち、心の隅にある。


「別に、私を信じる必要はありません。火龍窟ひりゅうのいわやへ行けば、過去の自分に会えるのですよ」


「過去の……自分?」


 頭の奥が痺れていた。月弓の言葉を、振り切れない自分がいる。

 依利比古は寝床から立ち上がり、上衣を羽織った。



 〇     〇



 夜明け前にアカルが目を覚ますと、依利比古は居なくなっていた。

 随分早起きだなと敷布に手を触れると、既に温もりはなくひんやりとしていた。悪夢のせいで眠れなかったのだろうか。気になって二度寝する気にもなれず、アカルはそのまま身繕いを始めた。


「おはよう。依利比古さまは?」


 戸を開けて声をかけると、見張りに立っていた二人の兵士が慌てて中を覗いた。

 依利比古の姿が見えないと分かると、見張りの男は声も出さずに兵士の詰め所まで飛んで行った。間もなくいつもの護衛、狭嶋さしまが走ってきた。彼は寝起きの乱れた髪を押さえながら、さっと平宮の中に目をやると、傍らに立つアカルに目を向けた。


「依利比古さまが出て行くのに気づかなかったのか? お休みになったのは何時ごろか?」


「知らないよ。私が寝た時は、まだ依利比古さまは起きてたから……」


「は?」


「はって……私と依利比古さまは、あんたたちが思っているような関係じゃないよ。私はほら、魔除け札みたいなものなんだ」


 そう言っても、狭嶋は胡乱な目でアカルを見る。


「私より、見張りの兵に訊けば?」


 アカルが顎をしゃくると、オロオロしていた二人の男が飛び上がった。その様子を見る限り、彼らは依利比古が出て行くところを見ていないだろう。


「し、信じて下さい! 俺たち居眠りなんかしてません!」

「そ、そうです! 眠くならないように、ずっと二人で喋ってたんです!」


 二人は懸命に言い訳するが、責任は重大だ。もしも依利比古が見つからなければ、重い罰を受けることになるだろう。


「ねぇ、月弓はいるの?」


 アカルが訊くと、狭嶋はすぐに月弓を探させた。ほどなく、「月弓の姿も見えません!」という声が返ってくる。

 嫌な予感がした。依利比古は魔物の話を誰にもしていない。何も知らない彼らに、この不安をどう伝えれば良いのだろう。アカルは縋るように狭嶋を見上げた。


「急いで里の中を探した方が良いよ。阿良々木の里の大巫女さまにも、訳を話して力を貸してもらえば?」


 アカルがそう言うと、狭嶋は素直に頷いた。お前に言われるまでもない、などと罵られる事もなかった。狭嶋はすぐ兵士に命じて、自らも動き出している。普段からほとんど喋らない彼の事を、アカルは頭かちかちの武闘派武人だと思っていたが、どうやら少し違ったようだ。


「私も探すよ」


 思わずそう言って藁草履を履こうとすると、剣を持った手で止められた。


「お前はここに居ろ。逃げようなどと思うなよ。見張りもつける」

「……わかったよ」


 アカルは大人しく平宮の中へ引っ込んだ。

 見上げた空はもう星が消え去り、山の間からは白々とした朝日が昇りはじめていた。

  

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