三 共闘の誓い


『────あの娘の未来さきは、どうしても読めぬ。だが、あの娘こそが一縷の望みであるように思えるのじゃ』


 宇奈利うなりの長は、アカルの事をそう評した。


(一縷の望み……か)


 依利比古は複雑な思いのまま火乃宮ひのみやを退出し、出湯の集落に向かっていた。

 かえでの言葉通りならどんなに良いだろう。いっそ、自分の抱えているこの恐れを、アカルに打ち明けてしまおうか。そんな風に思うほど、心を動かされた。

 けれどアカルは、自分のことを嫌っている。話したところで、力を貸してはくれないだろう。そもそも、鈴釧すずくしろという枷をつけられたアカルに、依利比古を助ける力などないのだ。


 アカルを解放してやれという楓の言葉が、あの枷から自由にしてやれと言う意味なら、それも無理だった。自分の悪夢からも逃れられない依利比古に、鈴釧すずくしろを外す力などない。


(……どうすればいい?)


 想いは何度も同じ所を巡るが、結論は出ない。

 見張りの兵が立つ門をくぐって、依利比古は集落に戻った。諸悪の根源と言える月弓は、出迎えに来る気配もない。昨夜から、いつの間にか姿が見えなくなっていた。


(神域を嫌ったか? いっそこのまま消えてくれればいいのに)


 そんな風に思いながら、依利比古は平宮に向かった。

 戸が開け放たれた平宮の中では、アカルは囲炉裏の前で濡れた髪を乾かしていた。今までにない柔らかな雰囲気にハッと息を呑む。


「湯屋へ行ったのか?」


 草履を脱ぐ間も待てず、戸口で声を掛けた。


「ああ……宇奈利の娘と仲良くなって、一緒に行ってきた」


 依利比古に目を向けても、アカルの柔らかな空気は少しも損なわれない。鈴釧という手枷を付けられてから、ずっと刃のように冷ややかだった瞳も、今は依利比古を許したように穏やかな光を湛えている。

 自分でも驚くほど、依利比古はホッとしていた。


「宇奈利の娘?」


 問いかけながら、依利比古はアカルの隣に座り込んだ。自分が火乃宮ひのみやにいる間に、楓の命を受けた宇奈利が、アカルを見に来たのだろうか。そんな考えが頭を過ぎる。

 髪を梳かすアカルは、なぜか得意げな笑みを浮かべた。


「宇奈利って、阿良々木あららぎの巫女なんだろ? 宇奈利の神話を教えてくれたよ。この鈴釧を外す希望も貰ったんだ」


 左手を上げて、ニヤリと笑う。


「それは……暗御神くらおかみという蛇神の話か?」

「そうだよ。その蛇神を斃せる剣があるんだって」


 弾けるような笑みを浮かべるアカルを見て、依利比古は小さく息をついた。


「きみは、いつも前向きだね。私は心が折れそうだよ」


 そう呟いても、アカルは依利比古の欲しい言葉を返してはくれない。ただ、先を促すようにこちらを見ている。


「どうしてあの時、きみの言葉を受け流してしまったのだろう。私も、月弓の異変を感じていたのに」


 あれほど悩んだのに、言葉はすっと依利比古の口から出てきた。


安波岐あわきの宮へ帰ってから、私は悪夢を見続けているんだ。起きている時も、悪夢に出てくる魔物の姿が見えるようになった」


 それが月弓のせいかも知れないと思ったこと、十世ではなく宇奈利を頼ったことを、依利比古はアカルに話した。


「────だが、宇奈利の長は、月弓に憑いたモノを祓うことは出来ぬと言うんだ。私の心が折れなければ大丈夫。一人で戦え、と」

「そうか」


 アカルの返答は短かった。

 自業自得だと突き放されるのかと思ったが、アカルは依利比古の境遇を嗤いもせず、眉を寄せて考え込んでいる。


「私は……正直自信がない。いずれ、あの魔物に憑り殺されてしまいそうだ」


 生まれて初めて、他人に弱音を吐いた。心の内を吐露すれば、相手に弱みを握られる。そんな風にしか思った事がなかったからだ。しかし、口に出してしまうと、胸のつかえが取れたような、奇妙な心地良さがあった。


「ずいぶん弱気じゃない。八洲を統一して、神になるんじゃなかったのか?」


 顔を上げたアカルは、不敵な笑みを浮かべてそう言った。

 思わぬところを突かれたが、不思議と不快ではなかった。


「まぁ、私もさっきまでは、悪い事ばかり考えて落ち込んでいたクチだから、人のことは言えないけどね。暗御神ってやつは荒神らしいね。神を払うのは確かに難しいけど、宇奈利の長が大丈夫って言ったなら、大丈夫だよ」


「きみは……他人事だからそんな事が言えるんだ!」


 突き放された気がして、依利比古は声を荒らげた。


「他人事じゃないよ。私だって暗御神の虜囚だ」


 アカルは笑って、依利比古の鼻先に左腕を突き付けてくる。銀色の鈴釧が禍々しい気配を放っている。


「そうだったな」


 依利比古はため息をついて、長い前髪を搔き上げた。

 悪夢に心をすり減らされたせいで、自分の事しか考えられなくなっている。無理やり都萬国へ連れてこられた、アカルの立場をすっかり忘れていた。


「大丈夫だよ。私がもらった希望は、あんたにも当てはまるだろ? 暗御神を斃せれば、その魔物も、あんたの悪夢も消えるんじゃない?」


 アカルはそう言ってから、きょろきょろと辺りを見回した。


「ねぇ、その魔物って、今も見えるの?」

 声を潜めてそう訊いてくる。


「いや。大抵は私が一人の時にだけ現れる。近頃は、きみが傍に居るから見ていない。夢には夜毎現れるけどね」

「ふぅん。で、その悪夢ってどんな夢なの?」


 そう訊かれて、依利比古は口を噤んだ。

 助けを請うためでも、己の過去を話すことには躊躇いがあった。出来る事なら、自分の記憶からも消し去ってしまいたい、おぞましい過去だから。


「話したくないなら、無理には聞かないよ」


 アカルは依利比古から視線を外した。途端に、見放されたような心地になる。依利比古は焦った。


「いや、きみには話すよ。魔物に関しては、私ときみの利害は一致しているからね」


 そう答えはしたものの、アカルの顔は見られなかった。依利比古は心を鎮めようと、戸口の向こうに見える山なみに目を向けた。そのまま話し始める。


「兄とは、母が違うという話はしたね?」


「確か、五歳の時に引き取られたと言ってたね」


「そうだ。王宮に来る前、私は神殿で暮らしていた。私の母は神殿の巫女だった────他の巫女は知らないが、日輪殿にちりんでんの巫女は神と交わる……正確には、神を降ろした依坐よりましの男と交わるのだ」


 アカルがハッと息を呑んだ。


「何も知らなかった五歳の私は、ある夜、母が男と交わっているのを見てしまった。神殿の老巫女に、あれは大切な神事なのだと教えられた。そして、自分に父がいないことの意味も知った────夢の内容は、その時の出来事だ。一つだけ違うのは、衝撃を受けた幼い私の前に、魔物が現れることだ。その魔物は、私の心の底にあるどす黒いモノに気づき、全てを消し去れと囁いて来る。殺してしまえと。私はその声に引きずられ、母に殺意を覚えそうになる」


 心の内の黒いものまで吐き出してしまうと、依利比古は俯いた。最後までアカルの顔は見られなかった。


「生まれた子供はどうなるんだ? あんたはどうして王宮に引き取られたの?」


 アカルは、依利比古の想いなど気にせず問いかけてくる。


「女は巫女になり、男はよほど霊力が高くない限り、ただ神殿に仕える。私は、たまたま依坐だった父に引き取られた。使い捨てできる王子としてな。これが、家臣のような扱いをされる理由だ」


 投げやりな自分の声に、嗤いそうになる。誰にも愛されなかったことに傷ついている、子供のままの自分に。


「言いにくい話をさせて悪かったな。けど、他人に話してしまった方が、楽になることもあるよ。子供の頃にそんな神事を見たら、誰だって気持ち悪くなる」


「そうだな。きみにそんな風に流されたら、大した事ではないように思えてくるよ」


 依利比古はようやくアカルの方を向いた。彼女は、先程までと変わらぬ穏やかな顔をしている。依利比古は口元に笑みを浮かべた。


「月弓も、神殿の生まれだと言っていた。どういう経緯で私の従者になったのかはわからないが、同じ過去を持つ月弓は、私にとって特別な従者だった」


「へぇ、神殿にいた時は会ってないの? 年もそんなに変わらないよね?」


「そうだな。日輪殿を放棄するまで、三年ほど先の日の巫女さまに仕えていたが、その時も月弓を見た覚えはない」


 別に不思議な事ではない。日輪殿の中でも王族の子弟が住む場所と、そこで働く者たちが住む場所は離れていた。依利比古と月弓に接点がないのは当たり前だった。


「そっか……月弓も神殿の生まれか。もともと依坐になりやすいのかもしれないな。そう言えば、月弓は? この里に来てから会ってないけど」

「いつの間にか姿を消していた。神域が近いせいかも知れないな」


 依利比古がそう言うと、アカルは口を噤んだまま頷いた。


「この鈴釧があるから筒抜けなのかも知れないけど────あんた、伊那いな国のヒオク王子とは知り合いだよね? 伊那国に韴之剣ふつのつるぎとか、羽波里はばりって呼ばれている剣があるか知らないかな? 何とかして手に入れて欲しいんだけど」


「韴之剣か。聞いたことはある。その剣で暗御神が斃せるのか?」


「宇奈利の娘はそう言っていたよ。誰かと話すと、思いがけない所から解決策が見つかるよね。まぁ、それもあんたの協力が無いと無理だけどさ」


 アカルはにっこりと笑う。


「わかった。連絡をしてみよう────葉月はづき、いるか?」


 依利比古が立ち上がって空に呼びかけると、パタパタと白い小鳥が入ってきた。


「ああっ! そいつ……」


 姫比で脅迫された事を思い出し、アカルは頭を抱えた。そのすぐ横に少年の姿で現れた葉月は、アカルの事など完全に無視して依利比古を見上げる。


『依利比古さま! 何か用?』


「悪いが、伊那国まで使いに行ってくれ。ヒオク王子を安波岐の宮へ招待する。霊剣韴之剣を見せてくれたら十世に会わせてやる、と伝えてくれ」


『わかった!』


 葉月は再び小鳥の姿に戻ると、飛び去ってゆく。

 小鳥の姿が山の上へと消え去るのを見届けると、依利比古はアカルを見下ろした。


「魔物を倒せたら、きみを解放してあげるよ」

  

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