二 宇奈利(うなり)の神話


 ────暗御神くらおかみ

 聞いたことのない神の名を、宵芽よいめはあっさりと口にした。アカルは喰いつくように、ぐいっと身を乗り出した。


「なにそれ?」

「暗御神は蛇神だよ。あたしは良く知らないけど、かえでさまがそう言ってた。あの男の人は、暗御神に憑かれているんだってさ」


 あの男とは、きっと月弓つきゆみの事だろう。阿良々木あららぎの里へ入る前から彼の姿を見ていないが、宇奈利たちはお見通しのようだ。


「月弓が……なるほど」


 初めて会った時から、月弓は不気味な気配を纏っていたが、安波岐あわきの宮で再会した時には、人とは思えないほど闇を深めていた。依利比古の忠実な従者という、一番人の子らしい部分が消え失せていたのだ。あの変わりようを見れば、神に憑かれていると言われても妙に納得してしまう。


「その蛇神を祓う方法は無いのか? とにかく、これを取りたいんだけど」


 宵芽の前にずいっと左腕を突き出すと、彼女はうーんと唸って腕を組んだ。


「取ってあげたいけど、あたしじゃ無理だよ。楓さまでも難しいって言ってたもん。でもね、宇奈利の神話に出てくる剣なら、斬れるんじゃないかな」


「それって、どんな剣?」


「えーとねぇ、韴之剣ふつのつるぎとか韴霊剣ふつのれいけんとか呼ばれてる剣だよ。むかーし、尹渡いと国ってとこにあった時は、羽波里はばりって呼ばれていた破魔の剣なんだって」


 宵芽は嬉々として教えてくれたが、そんな霊剣がそこらにある訳がない。アカルはあははっと笑ってしまった。


「もしかして、信じてないの?」


 アカルの乾いた笑いに気づき、宵芽はふくれた。喜んでくれると思ったのにぃ、とぶちぶち文句を言っている。


「だって、剣があればだろ? 何処にあるのかわからないなら意味ないよ」

「でも……尹渡国の後継なんだから、伊那いな国にあるんじゃないの? そりゃあ、絶対とは言えないけどさぁ────」


 宵芽は不満そうにブツブツと呟いている。顔が見えないことを差し引きても、なんとも可愛らしい仕草だ。アカルはだんだんと、宵芽の明るさに惹かれ始めた。せっかく知り合ったのに、顔が見られないのは淋しいと思うほどに。


「宵芽は、顔を見せちゃいけないのか?」


 アカルがそう訊くと、宵芽の全身からパッと歓喜の波動が放たれた。辺りを照らし、闇を払うような光の波動だ。


「あのね、温泉なら大丈夫だよ! 湯屋では布を取ってもいいんだ。一緒に入ろうよ!」


 勢いよく立ち上がりながら、宵芽がアカルの手を引いた。瞬間、ビリリッ────と火花が散る。宵芽の指先が鈴釧すずくしろに触れていた。


「これに触るな。宵芽の力まで吸い取られるぞ!」

「う、うん。気をつける……」


 呆然と頷く宵芽。想定外の衝撃だったらしく、さっきまでの明るい波動がしぼんでいる。


「大丈夫か?」

 心配になって声をかけると、宵芽はすぐさま陽の波動を取り戻した。


「うん、大丈夫。さ、湯屋へ行こう!」




 高台の河原に、藁葺き屋根と葦簀よしずで作られた簡素な小屋があった。中には小川の水を引き込んだ石積みの湯舟があり、葦簀よしずの隙間からは、段々畑や遠い山々の景色が見えた。

 アカルが湯に浸かっていると、衣を脱いだ宵芽がパシャッと湯に飛び込んで来た。白布を取った顔は、まさに快活な宵芽に相応しい、目のぱっちりした愛らしい顔だった。縮れた髪を頭のてっぺんに丸く結い上げている。


「うひゃあ、朱瑠って痩せすぎじゃない? 里の男童おのわらわみたいだよ」


 宵芽には遠慮というものがないらしく、アカルの体をじーっと見つめてくる。


「いや……いろいろあって、満足に食べられなかったんだ。普段はこんなに痩せてないよ」


 恥ずかしくなって、アカルは胸の前で腕を組んだ。

 アカルの事を痩せていると言うだけあって、宵芽は小柄だが、丸みを帯びた娘らしい体つきをしている。渡海人の血よりも、隼人の血が濃いような風貌だ。


「ねぇ、宇奈利うなりのことを教えてくれない?」

「うん、いいよ」


 宵芽はそう言って、アカルの隣に並んだ。視線は遠い山々へ向けている。


「宇奈利はね、昔は隼人の巫女だったんだ。その中でも、火の神を祀る特別な巫女のことを宇奈利って言って、阿蘇のお山を守っていたんだって」


「阿蘇の山……ああ、依利比古の地図にあった、あの大きな山か!」


「うん。筑紫の中心にある山だよ。朱瑠は知ってるのかな? 筑紫の日の巫女は、宇奈利だったんだよ」


 首を傾げながら、宵芽はアカルを見上げた。


「まだ火乃宮ひのみやが阿蘇のお山にあった頃はね、筑紫島は色んな火の山が炎を噴いて、飢饉が続いてたんだって。戦も重なって、とても大変だったらしいよ。その頃、筑紫の国々をまとめてた尹渡国は、お隣の那国を自分の国にしようとしたんだ。それに反対した那国の人は、半分以上が国を出て行ってしまうの。結局は、残った那国と尹渡国がまとまって、今の伊那国になったんだって」


 難しい顔をしながら、宵芽は国の興亡を語ってくれた。


「伊那国が出来た後にね、王の軍隊が火乃宮にやって来たんだって。よほど飢饉を畏れたんだろうね。王は天候を読む巫女が欲しくなって、宇奈利の娘を無理やり連れて行って、日の巫女の位につけたんだ。その時に、火乃宮は王の軍にめちゃくちゃにされて、小さかった楓さまたちは、この阿良々木に逃げて来たんだって」


「へぇ、そんな事が……それからは、ずっとここにいるのか?」


「うん。ここは阿蘇にも近いし、神域だからね。でも……あたしは同じ年頃の子がいなくてつまらないんだ。年々、宇奈利の力を受け継ぐ子供が生まれなくなっているんだって」


 宵芽の言葉にアカルはハッとした。


「岩の里も同じだよ。と言っても、岩の里は代々一人の巫女が継いでいくんだけど、次の岩の巫女は決まっていないんだ」


「へぇー」


 同じ思いを共有したせいか、宵芽はちょっと嬉しそうに目をぱちぱちさせている。


「それじゃあ朱瑠は、岩の巫女の後継じゃないの?」

「うん。正式な巫女でもないんだ。岩の巫女の手伝いみたいなもんかな」


 アカルはギョロ目の老巫女を思い浮かべた。あれから体の具合は良くなったのだろうかと、ぼんやりと山の景色に目を向けて故郷を思い描く。

 そんなアカルを、宵芽はキラキラした目で見上げた。


「やっぱりそうだ! あたしね、楓さまから言われてたことがあるんだ。おまえはいつか、この里を出て行く人間だって」


「それ……私もばば様から、似たようなこと言われた!」


 呆然とアカルが呟くと、宵芽は満面の笑みを浮かべた。


「でしょでしょ! 思った通りだよ。あたしはきっと、朱瑠と一緒に行くんだ! 朱瑠が来るって聞いてから、何かこう、運命が近づいて来るようなドキドキがしてたんだ!」


 宵芽があまりにも嬉しそうなので、アカルは慌てて手を振った。


「そう言ってくれるのは嬉しいけど、それは違うよ。私は今のところ依利比古の虜囚だし、こんなものを付けられてるし────」


「大丈夫だよ、それはきっと取れるって!」


 宵芽はどこまでも前向きだ。彼女の顔を見ていると、思い悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。アカルはうーんと唸ってから、無理やり気持ちを切り替えた。


「そうだね。悪いことばっかり考えてたらいけないよね。さっきの宇奈利の神話ってやつ、もう一度教えてくれる?」


「いいよ。宇奈利になるとね、みんな最初に火の神話を習うんだ」


 宵芽はそう前置きすると、湯舟の中で姿勢を正した。


『宇奈利の仕事はただ一つ、阿蘇のお山を守ること。

 高き霊山阿蘇の山、魂集まり冥府へ向かう。

 冥府におわす山神さまは、命の満ち干を司る。

 しかし人の子争いはじめ、多くの命が消え去ると

 人の満ち干が狂いだし、命の均衡破られる。

 山と大地が大きく揺れて、山は炎を噴き上げた。

 火から生まれた荒ぶる神は、森と里とを焼き払う。

 神を畏れた人の子は、争いやめて祈りを捧ぐ。

 祈りに応えた大地の神と、人が作った破魔の剣

 荒ぶる神を討ち払う。

 血から生まれし蛇神は、暗き谷間へ消え去りぬ────』



 宇奈利の神話は、子供に聞かせる昔歌のようなものだった。

 歌うように語った宵芽は、ふぅっと息を吐くと、両手を伸ばして伸びをした。


「ホントはもっと続くんだけど、朱瑠が知りたいのはこの辺りだと思うよ」


 そうだね、とアカルが頷くと、宵芽が補足をしてくれた。


「最後の蛇神が暗御神だよ。斃された火の神の血から生まれたんだって」

「ありがとう。なんか、希望が湧いてきたよ」


 まだ何も解決していないのに、宵芽から陽の気を貰ったせいか心が温かかった。

 久しぶりに穏やかな気持ちになって、アカルは外の景色を眺めた。冬枯れの山々を、大きな鳥が円を描くように飛んでいた。

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