第六章 都萬国(後編)
●呪縛●
一 暗御神(くらおかみ)
山の斜面に張りつくような段々畑。その中に点在する、小さな集落。山奥ではあるが雪深くはなく、冬枯れの山や段々畑の枯れ草の陰に、僅かに雪が残っていた。
山から流れ出た二つの谷川が、ちょうど里の中央で合流する。その二つの谷川に挟まれた平地に、巫女たちが住まう神域、
この小さな里は、まるで火乃宮を中心とした一つの王国のようだった。
ピーヒョー ピーヒョロロロロー
冬晴れの空に、
その声につられて、
「あのように生きられたら、私も幸せであったろうか……」
溜息のような繰り言をつぶやく。するとすぐ隣から、はぁ、と困ったような
「あの鳥のように、日々の食べ物のことだけを考え、ただ子孫を残して死んでゆく。人も獣の一つであるのに、人だけが下らぬことで相争う。そうは思わぬか?」
「ええっと……どうかなさったのですか?」
狭嶋が気づかわし気な視線を向けてくる。他人の心に疎い武骨な男だが、武人らしい真っ直ぐな視線は悪くない。
「いや、つまらぬことを言ったな」
依利比古は、狭嶋を安心させるように柔らかな笑みを浮かべた。
この阿良々木の里に着いたのは、昨夜のことだ。五日に及ぶ旅は運よく天候に恵まれ、この
よそ者である依利比古たちに宿舎としてあてがわれたのは、枯れ色の段々畑が広がる、山あいの
阿良々木の里を統べる火乃宮の大巫女に会うため、依利比古は再び歩き出した。
谷川にかかる橋を渡ると、大木に囲まれた小さな広場があり、その向こうに檜皮葺の高殿が建っていた。ここが火乃宮の中心なのだろう。どの建物も立派だが、屋根の所々には苔が生え、かなりの歳月を経て来たことがうかがえた。
依利比古は高殿の前に狭嶋を残し、一人で
「ようこそ、
古びた高殿へ入るなり、高座に座った小さな老婆が声をかけてきた。
白髪を高く結い上げ、皺だらけの顔を依利比古に向けているが、その目は皺に埋もれて殆ど見えない。
高座の両脇には、白装束の巫女が三人ずつ控えているが、みな白布で頭と顔を覆い、その隙間から目だけを出している。よそ者には顔を見せられないのか、とにかく異様な風体だ。
少々面食らいながらも、依利比古は老婆の前に座り、丁寧に頭を下げた。
「火乃宮の大巫女さまですね。仰る通り、私は都萬の依利比古です。大巫女さまに教えを請う為に参りました。私の問いに答えて下さいますか?」
この旅の間も、悪夢は依利比古を苦しめ続けた。アカルの傍で眠っても駄目だった。ただ幸いなことに、日中に現れる魔物だけは姿を現さなくなった。
依利比古の縋るような問いかけに、小さな大巫女はコクリと頷いた。
「お前さまが来た理由は知っておるよ。一つの願いは叶い、今一つは叶わぬ」
「どういう……ことでしょう?」
まだ何も尋ねていないのに、老婆はそう言った。しかも、依利比古の願いは一つしか叶わないという。
「この神域に、あの魔物は入っておらぬ。今後も火乃宮の力ある限り、魔物を寄せ付けることはない……だが、残念ながら祓ろうてやることは出来ぬ」
老婆の言葉に、依利比古は呆然とした。藁をもつかむ心地でここまで来たのに、僅かな間に唯一の希望が失われてしまった。
眩暈がして、体がぐらりと揺れた。一瞬にして支えを失った体は、前のめりに倒れた。ハッと我に返り、床に両手をついて何とか堪えはしたが、悪夢で眠れぬまま旅を続けたことで、彼の体力や気力は底をついていた。
このまま、夜毎悪夢を見続けるのか。白昼も現れるあの魔物に、いつか自分は殺されてしまうのだろうか。微かな希望すら失った今、依利比古の心に浮かぶのは暗い思いばかりだった。
「そんな……」
本当に何も手立てはないのか。問いただしたくて何度も口を開いたが、言葉にはならなかった。床についた手を、震えるほど硬く握り締める。
彼の絶望と混乱を感じ、高座の上で老婆が居住まいを正した。
「あの魔物は、お前さまの心を弱らせるために様々な手を使ってくるだろう。だが逆に、お前さまが折れなければ、あの魔物は手を出せぬ。孤独な闘いだが、己のために心を強く持って戦いなされ」
依利比古はわずかに体を起こし、老婆を見上げた。
「あの魔物の正体を、ご存じなのですか?」
「もちろんじゃ。あれは、かつて神だったモノじゃ。荒神と言えど、わしらには神を祓うほどの力はない」
「神……だと?」
ふいに、笑いが込み上げた。
太刀打ち出来ぬ大きな存在に、諦めに似た狂笑が喉元まで込み上げる。
「
ぴしゃりと、鞭のような声が飛んだ。
「我らの力で祓うことは叶わぬが、望みがない訳ではない。まずは、お前さまが連れて来た
「朱瑠を?」
依利比古は眉をひそめたまま、出湯の集落に置いてきたアカルの姿を思い浮かべた。
〇 〇
チリ チリチリチリ────
アカルが身動きするたびに、左腕から鈴の音が聞こえる。
もういい加減慣れたとはいえ、鬱陶しいことに変わりはない。日に数回は、重苦しいため息をついてしまう。
銀色の
脱出計画は、一旦棚上げした。月弓に捕まった時点で、あの魔物をどうにかしない限り、逃げ道はないと悟ったのだ。それに、依利比古の様子も気にかかっていた。
阿良々木の里へ向かう道中、依利比古は常にアカルを手元に置いた。初めは逃げないように監視するためだと思っていたが、どうも理由は他にあるような気がした。
「でも……今日は一人で出かけたんだよな」
依利比古の一行はこの出湯の集落に留め置かれ、アカルは昨夜泊まった簡素な平宮で無為に過ごしている。
この阿良々木の里の中心は神域であり、許された者しか入れないと聞いた。アカルが置いて行かれたのは、おそらくこの鈴釧のせいだろう。こんな禍々しい釧を身に着けた者が、神域に入れる訳がない。
カサ カサカサ
また、部屋を囲む
風も無いのに、時おり御簾が揺れる。人の気配や視線も感じる。この里の者が覗き見しているのだろうと思ったが、気配に悪意がないので放置していた。
「用があるなら、入ってくれば?」
いい加減気になって声をかけると、御簾の揺れはピタリと止まり、辺りはシンとした静寂に包まれた。
「遠慮するなよ。私も退屈しているんだ」
さらに声をかけると、パサッと御簾が開き、ヒュンっと勢いよく白い影が入ってきた。
「あたしは
アカルの前にちょこんと座り、馴れ馴れしい口調で話しかけてきたのは、白装束を身に着けた娘だった。娘と言っても、頭の上からつま先まで白装束に包まれていて、顔は見えない。袖口から出ている手も、白い
他国の巫女には慣れているつもりだったアカルも、さすがに目の前の娘には面食らった。
「……あんた、何者?」
「だーからぁ、宵芽だってばぁ!」
物覚えが悪いなぁとばかりに名前を繰り返されて、アカルは眉をひそめた。確かに人の名前を覚えるのは苦手だが、今問題なのはそこではない。
「私が知りたいのは、あんたが何者かってことだ。突然、白ずくめの人間が現れたら、まずは何者か知りたいと思うのが普通だろ?」
ただでさえ、鈴釧のせいで苛立っていたアカルは、不機嫌丸出しで聞き返した。
「え……そうなの?」
返ってきたのは、ぽかん、としたような声だった。小柄な体つきもあるが、話し方にどこか幼さがある。
「そうなのって……一体何なんだよ。あんたは阿良々木の巫女なのか? それとも別の何かか?」
「ああ、うん。そう。あたしたちは巫女じゃなくて、宇奈利って言うけど、同じだよ」
宵芽の返答は、変わらず惚け惚けしている。
「ウナリ?」
「巫女のことを、ここではそう呼ぶんだ」
「ふぅん。で、用は何なのさ?」
眉をひそめたまま問うと、宵芽の纏う気配がパァと明るくなった。
「そりゃあ、会いたかったからに決まってるじゃん! 都萬国の王子が古の巫女を連れて来るって聞いてから、あたし、もう、待ち遠しくてじっとしてられなかったんだ! どんな子が来るんだろうって、色々と想像してたんだ。ねぇねぇ、朱瑠はあたしと同じくらいの年なんだって? 宇奈利には年の近い子がいなかったから、ホントに、すっごく会いたかったんだよ!」
宵芽は嬉しそうに、早口でまくし立てた。もともとお喋りな性格なのだろう。内容はたいして無いのに、アカルに会いたいという熱意だけは伝わってきた。
(外の巫女に歓迎されたのは、初めてだな)
見も知らぬ誰かが、自分が来るのを待っていてくれたなんて、何だか照れ臭い。
「……あれ? 私が来るって、いつから知ってたんだ?」
アカルは首を傾げた。宵芽の口ぶりでは、まるでかなり前からアカルが来ることを知っていたように聞こえる。
「いつだったかな? うーん、結構前だよ。楓さまが幻視を見て教えてくれたんだ。あたしはそれからずーっと、朱瑠に会うのを楽しみにしてたんだよ」
にこにこ、にこにこ、宵芽は嬉しそうに笑う。
「そうか‥…そんなに待っていてくれたのに悪いんだけど、今の私は、巫女の業など何も使えないよ」
「うん。
宵芽はそんなこと知ってるよ、と笑った。
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