十六 鈴釧(すずくしろ)
半分に欠けた月に、薄い雲がかかっている。静かな夜。
見張りの兵士以外、みな寝静まった
夜が明ければ、依利比古は
この安波岐の宮から逃げ出す機会は、唯一今夜だけ。そう思った途端、今の自由がとても貴重に思えた。
(やはり……今夜しかない)
脱出を決めたその夜は一旦床についた後で、腹の具合が悪いと女官に嘘をついた。彼女を
僅かな月明かりの中、アカルは乾いた土の斜面を滑り落ちた。深く穿たれた溝は足場になるような出っ張りはなかったが、水際ぎりぎりの所で藁草履が草に引っかかり、運よく不審な水音を立てずに済んだ。そのまま、水の流れに沿って進む。
自分に許された時間は、厠の前で待つ女官が、痺れを切らして小屋の中を覗くまでだ。いずれ追手がかかることは間違いない。それが早いか遅いかは、大した問題ではなかった。追手の気配がしたら、見つかる前に結界に入ってやり過ごす。それを繰り返しながら、少しずつでも進めればいい。
南国とは言え、夜の外気は冷たかった。アカルは腹痛を装い、普段より一枚多く衣を羽織って来たが、水路に落ちなかったのは幸いだった。水に濡れてしまえば体温が奪われ、結界の中と言えど長く潜伏することは難しくなる。
アカルは水路の斜面に生えた短い草につかまりながら、慎重に歩を進めた。
半時ほど歩くと、水路は三重の環濠を潜り抜け、やがて小川に合流した。その頃になると潮騒が聞こえはじめた。もう、海が近い。
遠い潮騒を聞くうちに、ふいに疑念が生じた。あまりにも簡単すぎる。環濠を抜けるまで、見張りの兵の姿を見かけなかった。安波岐の宮から無事抜け出せたと言うのに、アカルは素直に喜ぶことが出来なかった。
(例え罠だとしても、進むしかない)
心に生まれた僅かな疑念を振り払うように、アカルは
逃走を始めた時点で、もう逃げるしか道はない。とにかく先に進むしかないと腹をくくり、アカルは小川の流れに沿って走った。
やがて波音が大きくなると、地面が砂地に変わり、走るたびに砂に足が取られた。
ザァッ、と大きな波音と一緒に、強い風が吹いた。
冷たい潮風を胸いっぱいに吸い込んで、とうとう海辺まで逃げられたのだと思った時、薄い月明かりが人影を映し出した。
(誰だ?)
咄嗟に、砂地に身を伏せる。
人影は一つだけだ。長い髪が海風に弄られている。
風が雲を押し流し、半月が顔を出す。煌々とまではいかないが、人影を判別するには十分だった。
(……月弓)
月光の薄青い陰影だけで、彼が薄笑いを浮かべていることがわかった。
ゾクリと背筋が震えた。
地べたに這いつくばった格好のまま、急いで泡間へ飛ぶ。だが、予想通り、都萬国に張られた広範囲の結界に阻まれた。
(大丈夫、大丈夫だ……)
周りの景色は変わらずとも、結界は張れたはずだ。自分が作った小さな結界の中は、外からは見えない。そう思うのに、相手が月弓だというだけで不安が募る。もはや人の気配を失ったあの男から、自分は本当に隠れていられるのだろうか。
指先が震えだした。その震えを誤魔化すために、アカルは両手を組み合わせた。
(あいつは……一体何なんだ)
月弓はゆっくりと、だが着実にこちらに向かって歩いて来る。見えているのなら、もう逃げ場はない。
アカルは恐ろしくなって、ぎゅっと目をつぶった。
「────こんな夜更けに、散歩ですか? いけませんね」
月弓の穏やかな声が聞こえた。腕を掴まれたのは、そのすぐ後だった。
腕を引っ張られた瞬間、手首に焼けるような痛みが走った。
「うわぁーっ!」
強烈な熱さと痛みはすぐに治まったが、手首からだんだんと体の力が抜けてゆく。
チリチリチリチリ
微かな鈴の音に目を開けると、左の手首に銀色の
(何だ……これは?)
左手に嵌められた
「い……やだ、嫌だ、取って! これは嫌だ!」
右手の指を絡めて必死に引っ張るが、どうやっても鈴釧は手首から離れない。力だけがどんどん失われてゆく。
「我儘を言うな。お前は依利比古の虜囚であろう。虜囚には枷が必要だ」
耳元に、暗くとろりとした声音が聞こえてすぐ、アカルは意識を失った。
〇 〇
「依利比古さま、入ります」
月弓の声がした。
寝床から身を起こした依利比古が答える前に、スッと戸が開く。
「朱瑠を捕らえました」
月弓は、肩に担いでいたアカルを床に放り投げた。
ドサリと床に打ち捨てられたアカルは、気を失っているのか微動だにしない。
「ずいぶん手荒だな」
依利比古は月弓に目線を向ける。
「いくら朱瑠が嫌いでも、手加減くらいしてやったらどうだ?」
「手加減? 殺さないだけ感謝してください……」
月弓は依利比古を見下ろしたまま、にぃ、と微笑む。
以前の月弓ならば、こんな笑い方はしない。アカルに指摘される前から、月弓に起きた異変に気づいていた。安波岐の宮に戻ってから、月弓は確かに変わった。病を得て依利比古の傍から離れている間、彼の身に何が起こったのだろう。
阿良々木に行こうと決めた事は、彼の異変も関係している。
「……これは?」
アカルの手首にある、銀の釧に目を止める。
「それは枷です。それを嵌めている限り、朱瑠は自分の力を使えない。姿を隠すことすら出来なくなります。必要でしょ?」
「なるほど。そうだな」
依利比古は頷いた。
アカルを捕らえるように命じたのは自分で、月弓はまだ、自分の命令を大人しく聞いている。だが、いつ刃を向けてくるかわからない。依利比古は薄氷を踏むような気持ちで月弓と接していた。
早く阿良々木へ行き、月弓に何が起きたのか知りたい。
「ご苦労だったな。もう休め」
「では、明朝」
月弓が静かに下がってゆくと、依利比古は、床に倒れたアカルを抱き上げて、自分の寝床に横たえた。
いつもアカルを包んでいる陽だまりのような光は、今は灯明皿の灯りほど弱々しい。
「これでは魔除けにも使えぬな。まぁ、ないよりはマシか」
掛け布を引き上げて、依利比古はアカルの隣に横になった。
今はわずかな光にでも縋りたかった。
第六章 都萬国(後編)──呪縛── へ続く
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